想像とは違う未来

 唐突に湧き上がった衝動。

 それをひしひしと感じながら、シアノは大きく顔を歪める。



「……だめ。だめだよ。ぼくは、父さんの……」



 彼女から逃げるように顔を伏せて、衝動をこらえるように胸の前で両手を強く握る。



 無意識に、力を込めすぎていたのだろう。

 鋭く尖った右手の爪が、左手の甲を易々やすやすと切り裂いてしまった。



「た、大変!」

「あ…っ」



 瞬く間に血があふれて、床に滴っていく。

 それに、女性もシアノも顔を真っ青にした。



「ま、待っててね!? すぐに手当てしてあげるから!」



 シアノを近くの長椅子に座らせた彼女は、小走りでどこかに去っていく。



「………」



 残されたシアノは、自分の腰元を見下ろす。



 慌てていたせいで、忘れてしまったのだろう。

 そこには書類が挟まったバインダーと、小さな水筒が転がっている。



 ドクン、ドクンと。

 心臓か重く鳴り響いて、息が荒くなる。



 人間に血を仕込むのなんて簡単。

 直接飲ませなくとも、飲み物や食べ物にそっと血を混ぜておけば、人は簡単にそれを口にする。



 何度かそれを繰り返して、父が数秒でも意識を乗っ取れるようになればこっちのもの。

 それ以降は父が自ら血を飲んで、操れる時間を長くしていくから。



 これまで、そうやって手駒を増やしてきた。

 今回もそうすればいいだけ。



 ドクン、ドクン……



 今ならできる。

 自分が水筒を手にしていたところで、誰も不自然には思わない。

 あの人だって、〝喉が渇いてたんだね〟って笑いながら許してくれる。



 ドクン、ドクン……



 震える指が、水筒の縁に触れる。

 その瞬間。



『君は……君だけでも、早く逃げるんだ。』



 苦痛に歪んだエリクの顔と、心底自分を案じる彼の声が、脳裏にひらめいた。



「―――っ」



 居ても立ってもいられなくなって、その場から逃げ出す。



「は……は……っ」



 走って、走って。

 エリクの病室に行くことも忘れて、病院から飛び出して走り続けた。



 駆け込んだのはエリクのマンション。

 ジャミルとのやり取りの過程で手に入れていた合鍵を使い、部屋の中に入る。



「う……うう…っ」



 途端に膝が砕けて、シアノはドアにもたれてその場にへたり込んだ。



「……やだ。いやだ…っ」



 心の悲鳴がつらい。



 自分には、もうできない。

 エリクのあんな顔は、二度と見たくない。

 あの女の人にも、同じ顔をさせたくない。



 進まない足を必死に動かして、頑張って行ったのに。

 心が告げる否に、もう抗えない。



「―――シアノ。」

「―――っ!!」



 脳裏に響く声に、心臓をわし掴みにされた気分になる。



「ごめんなさい……ごめんなさい…っ」



 分かってる。

 こんなの〝いい子〟じゃないって。



「シアノ、大丈夫だ。父さんは怒っていないよ。今日は元々、様子見だけという話だっただろう? シアノは、父さんとの約束は破っていない。」



「でも……ぼく、もう…っ」





 ―――こんなこと、したくない。





 その一言だけが、喉の奥で絡まって音にならない。



 エリクたちが苦しむのは嫌だ。

 でも、素直にそう言って父を失望させるのも怖い。





 それで、また捨てられたら……





「……分かったよ。」



 しばらく沈黙した後、父がそう言って溜め息をついた。



「私は、シアノに無理をさせてしまったようだね。どうせ近い内に人間は皆死んでしまうのだから、エリクだけを死に急がせる必要もないか。」



「………っ」



 許してくれたと安堵させられる一方で、同じ言葉に心を深く傷つけられる。



 ここで自分がエリクを殺さなくても、父が自ら動き出せば結末は同じ。

 せっかく助かったエリクは、あの女の人と一緒に死んでしまう。



「シアノ。せめて、最後にお別れを言っておいで。そうしたら、もう何もしなくていい。あとは、父さんとルカで進めよう。」



 その言葉を最後に、父の気配は遠のいていった。



「………」



 分かっていた。

 分かっていたはずだった。



 どうせ、人間はみんな死んじゃうんだ。

 自分も父も、そのために色んな準備をしてきた。



 そうなったら、きっと楽しい。

 周りの目なんて気にせずに、父と好きなだけ遊んで暮らせる。

 キリハもルカも仲間になったんだから、幸せでたまらないはずだ。



 そう思って、わくわくしていたのに。



「ふ……うう…っ」



 たった一人。

 たった一人が死んじゃうってだけで、どうしてこんなにも苦しいの?



 エリクが死んじゃうくらいなら、他の人間を殺さなくていい。

 エリクが死なずに済むなら、むしろ生きていてほしいって。





 そう思ってしまうのは、どうしてなの―――……?




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る