気持ち悪くないの?
自動ドアを抜けて建物の中に入ると、強い消毒液の香りが鼻をくすぐる。
この街に一つしかない総合病院は、今日も多くの人で満たされていた。
その割に規模はそこまで大きくないので、この人数を受け入れるには少々手狭に見える。
そんな病院に溶け込むのは簡単。
小柄な自分はすぐに人の中に姿を隠せるし、子供の行動なんて警戒もされない。
誰かに何かを訊かれても、お母さんを捜していたと言えば、それだけで大抵の面倒事を回避できる。
エレベーターに乗り込み、まずは五階へ。
一応周囲を注意しながら歩いたけれど、そこを行き来するのは一般人ばかり。
ドアを開いた病室も、荷物はあれど家主はなしという状態だった。
ここ数日彼が病院に戻っていないという父の言葉は、本当だったようだ。
厄介な彼と見張りがいないことは助かるけれど、彼への野暮用はどうしたものか。
そんなことを思いながら、とりあえずはそこを離れる。
次の目的地に向かおうとして―――途端に、足が動かなくなった。
大丈夫。
今日は様子を見に来ただけ。
見張りがどのくらいいるかも分からないし、自分がどこまで警戒されているかも分からない。
目的地に到達できるか否かを試せば、今日のところはオッケー。
でも……次にここを訪れる時は―――
「………っ」
だめだ。
頑張って動かしているのに、何度も足が止まってしまう。
行きたくない。
会いたくない。
全身がそう叫んでいる気分だ。
「あら? シアノ君じゃない。」
「―――っ!!」
透き通った声に呼びかけられて、心臓が止まるかと思った。
「あ……あ……」
顔を上げた先にいた女性を見ると、血の気が引いて体が凍えそうになる。
彼女は、ここに勤める看護師だ。
ルカともキリハとも仲がいい、エリクの恋人。
そして……
『エリクを直接殺すのが難しければ、彼女に血を仕込んでおいで。』
使用済みの
「ちょうどよかった。シアノ君、ルカ君に会ってない?」
「え…?」
「なんかここ数日、ルカ君が全然顔を見せに来ないのよ。おかげでエリク先生ったら、面会時間が終わる度に『ルカが来なかった…』って、子犬みたいに落ち込んじゃって…。重度のブラコンも考えものよねぇ。」
「えっと……」
どうしよう。
なんて答えればいいの?
もちろんルカの居場所は知っているけど、それをこの人に言うわけにはいかないし……
質問を上手くかわせないシアノは、視線を右往左往とさせる。
そんなシアノの様子に、彼女が何かを察したように目を大きくした。
「こっちにいらっしゃい。」
「………っ!?」
突然腕を引かれて、シアノは全身を
これまで、交渉が必要な場面では父が代わってくれていたので、自分は他人とのコミュニケーションにそこまで馴染みがない。
それ故に、自分の言動が他人にどう思われるのかも分からないのだ。
何か疑われるようなことをしてしまっただろうか。
ここであれこれと問い詰められたら、ごまかせる自信がない。
(うう……怖い…っ)
振り払えばいいはずなのに、それもできない。
シアノはぎゅっと目をつぶって、手を引かれるまま女性についていくしかなかった。
しばらくして、彼女が足を止めた。
シアノは深くうつむき、彼女の次の行動に怯えて身を震わせる。
「ごめんね。」
そんな一言が聞こえたかと思うと、目深く被ったフードの上から、優しく頭をなでられる。
おそるおそる上げた視線の先で、女性は柔らかく微笑んでいた。
「そういえばシアノ君って、ものすごく人見知りだったんだよね。いつもルカ君かエリク先生の後ろに隠れてたし。いつも見てるから、つい知り合いの気分になっちゃった。この辺なら人も少ないし、まだ大丈夫かな?」
そう言った彼女は急に表情をだらしなくして、シアノの頬をつんつんとつつく。
「あー、ほっぺたぷにぷにー♪ やっぱり、子供っていいなぁ。エリク先生もずるい。こーんな可愛い子とお友達だなんて。」
「え…?」
彼女の言葉に、心の底から驚いてしまう。
「ぼくのこと……気持ち悪くないの?」
思わず、そう訊ねる。
その結果。
「え…? どうして?」
不思議そうな表情で、逆に訊き返されてしまった。
「だって……ぼく、髪も目も気持ち悪いって……」
「んん!?」
シアノが戸惑いながらそう言うと、途端に彼女は目を三角に。
「誰!? こんな可愛い子に向かって、そんな馬鹿なことを言ったのは!?」
「……みんな。父さんや母さんだった人も。」
「はあぁっ!?」
彼女の怒りが倍増する。
あまりの剣幕に、シアノはびくりと首を引っ込めてしまった。
「何が気持ち悪いよ! 白ウサギは正義でしょ!? ……でも、そっかぁ。」
一瞬で怒りオーラを収めた彼女は、再度シアノの頭に手を置く。
「だからこんなに人見知りで、エリク先生たちにしか懐いてなかったのね。よしよし、今まで怖かったねー。今度気持ち悪いって言われたら、お姉さんとエリク先生に言いつけにおいで。二人でその人にお説教してあげる。」
「なんで…? なんで、ぼくが気持ち悪くないの…?」
今自分の身を襲っている出来事が信じられなくて、シアノは混乱する。
優しくされたくない。
人間は醜い生き物なんだ。
お願いだから、嫌いでいさせて。
そう願うのは二度目。
でも、あの時とは違うことが二つある。
一つは、人間の醜さを証明してくれる人が現れないこと。
そしてもう一つは、自分に手を差し伸べてくれるこの人の目が赤じゃないことだ。
「シアノ君。人はね、見た目じゃないんだよ。だってね……」
まっすぐにシアノの赤い双眸を見つめる彼女は、同じような赤で頬を染めて笑う。
「お姉さんが大好きな未来の旦那様は、誰よりも命に真剣で、誰とでも誠実に向き合う―――世界一素敵で、世界一かっこいい人よ。」
それは、紛れもない本心で紡がれた気持ち。
のろけているようにも見える無邪気な笑顔が、明らかにそれを証明している。
「シアノ君は、竜使いのエリク先生を気持ち悪いと思う?」
「………っ」
そんなわけない。
シアノが即座に首を横に振ると、彼女は嬉しそうに笑みを深めた。
「シアノ君も同じよ。髪が真っ白でも、目が赤くても―――シアノ君は、ただの可愛い男の子でしょ?」
仕上げにウインクを一つ飛ばされて、何も言えなくなってしまった。
そんなシアノの反応を見て、彼女は笑顔を
「どうするー? そんなひどいことを言うお父さんとお母さんなんてほっといて、お姉さんとエリク先生の子供にでもなっちゃう?」
「………っ」
冗談百パーセントの言葉だって。
そんなのは分かってる。
でも、どうしてだろう。
一言〝うん〟って言ったら……この人は、優しく笑って受け入れてくれる気がするんだ。
「………っ」
どうしようもなく、泣きたくなる。
思い切りこの胸に飛び込んでしまいたい。
そうしたらこの人は、自分を抱き締めてくれるだろうか。
あの雨の日の、キリハやエリクのように……
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