ありえない事態

「ふむ……どうやら、エリクは本格的に助かったようだな。」

「!!」



 レクトの呟きに、地面で横になっていたシアノは思わず飛び起きてしまった。



 もう、エリクは死ぬしかないと思っていた。



 父がエリクの体を使ってジャミルから渡された毒を飲んだのに加えて、エリク自身も自ら毒を飲んだらしい。



 あれで助かる見込みはゼロだと、父も言い切っていた。



 だけど、エリクは生きている。



 これはどういうことなのだろう。

 毎日眠る時に捧げていた祈りが、天にでも届いたのだろうか。



 雰囲気に嬉しさを滲ませるシアノ。

 それに対し、レクトは低いうなり声をあげる。



 これは想定外の事態だ。

 あの状況からエリクが助かるなど、ありえないと言っても過言ではない。



 立ち位置が曖昧あいまいなルカを完全にこちら側へ引き込むには、エリクには必ず死んでもらう必要があった。



 自分がエリクの体を使って、ジャミルと共にキリハをおとしめていることを、ルカは知らない。

 ルカは当然のように、今回の事件が全て人間の仕業によるものだと思うだろう。



 それこそが、自分が作戦を変更してまで狙った、ルカを崩す一点。



 ただでさえ人間不信な彼が兄を理不尽に奪われれば、彼の敵意は素晴らしい憎悪に成長する。

 そうなれば彼は、建前ではなく本気で自分たちに手を貸そうとするだろう。



 ルカの視界を盗み見ていた結果、ルカの交渉にジョーがかなり揺さぶられていることも分かった。

 上手くいけばルカの魂胆どおり、ユアン最大の切り札をもう一枚奪い取れる。



 そういう意味でもルカには期待をかけていたし、ユアンを苦しめるためにも手放したくない駒だった。

 それなのに、ルカを闇の底まで叩き落とす役目を担うエリクが生き延びてしまうとは。



 一体誰だ?



 疑問に思いはしたが、あの病院には駒が少ないのが難点だ。



 エリク以外の人間の五感を借りて情報を集めたが、覗いてみた監視カメラの映像には、医療チーム以外の人間は映っていなかった。



 聴覚から入ってくる情報も、やれ神様がどうのこうのと、雲を掴むような話ばかりである。



 とはいえ、分からない問題にいつまでも足を取られていても、時間の無駄でしかないか。



 運のいいことに、ルカの怒りはまだ冷めていない。

 それとなく自分が意識に介入しているのもあり、いい具合に洗脳できつつある。



 エリクがこの場を切り抜けたからといって、自分の計画が大きく狂ったわけでもない。

 今回殺せなかったなら、もう一度殺しに行けばいいだけだ。



 しかし、この窮地を乗り越えた現実がある以上、毒で殺すのは得策ではなさそうだ。

 エリクの体を使うのも、今はまだ無理がある。



 それならば、駒を増やすか強くするしかあるまい。

 そのために育てた、愛しい我が子がいるのだから。



「シアノ。」



 優しく呼びかけると、無垢なその子は可愛らしく小首を傾げる。



「さあ、お前が役に立つ時だ。どうか、父さんを助けておくれ。」



 頭をすり寄せて、甘い砂糖のような優しい声で囁きかける。

 こちらの頭を当然のように抱き締めたその子は……



「―――……」



 一瞬で、表情を凍りつかせるのだった。


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