〝アルシード〟
ノックもなしに、静かにドアが開く。
普段なら、このくらいの物音でなんか起きなかっただろう。
ただこの日は、眠るに眠れなかった意識が、そんなささやかな音を敏感に拾った。
「……ジョー?」
ドアに寄りかかっていたその姿に、キリハは目をしばたたかせる。
「………」
ジョーは深くうつむいて黙したまま。
思わず眉を寄せたが、すぐに異変に気付く。
呼吸が荒いのか、小刻みに上下する肩。
顔を隠す前髪の奥で、いくつもの汗が月明かりを反射しながら落ちていく。
明らかに、正常な状態じゃない。
「ジョー、どうしたの? だ、大丈夫…?」
ジョーが心配になったキリハは、思わずベッドから足を下ろして、腰を浮かそうとする。
「大丈夫かって…? ―――はっ。」
こちらの問いを一笑に付すジョー。
その声は、あまりにも冷たくて寒気がするものだった。
「最悪な気分だよ…。仕事をしてないと、いつ呼吸が狂って心臓が止まるか分からないくらいで……もう、やってらんないっての。」
「………っ!?」
まさかの発言に、キリハは大きく目を剥く。
じゃあ、ジョーの様子がおかしいのは、今まさに呼吸が狂っているから…?
それを察した瞬間、弾かれたようにベッドを離れてジョーに駆け寄っていた。
「大丈夫!? お医者さんは!? 薬は!? なんでそんなに体調が悪いのに、俺の護衛なんか―――」
「ねぇ、キリハ君……」
ジョーの肩に手を置いた自分の腕に、彼がゆっくりと手をかける。
「僕、何度も言ったよね……―――信じるなって。」
間近からこちらを見る瑠璃色は、漆黒のような無に染まっていた。
初めて見るその瞳に、そこはかとない恐怖を抱いてしまう。
「君はさ、今でも僕を信じてる?」
「え…?」
「だとしたら、どうして? 僕は……君にはそれなりに、裏の顔を見せてきたはずだ。君を真正面から否定することもしたし、その辺の馬鹿を踊らせて、君とレティシアたちを傷つけることもした。信じるに値しない最低な人間だって……散々示してきたはずだろう…っ」
ジョーの瞳と手に、震えるほどの力がこもる。
「なのに君はさ……いつも当然のように、下心なく僕を頼ってくる。少しも僕を疑ってない顔で、簡単に僕の内側に入り込んできて……誰にでも、ただ無垢に笑いかけるんだ。」
「ジョー…」
「その結果が―――これじゃん?」
にっこりと。
彼の中にいる悪魔が笑う。
「ねぇ、どんな気分だった? エリクに裏切られたって感じた時。」
「―――っ」
「つらくなかった? 痛くなかった? 他人なんか信じるべきじゃなかったって、そう思わなかった?」
「………っ」
「教えてよ。そして、その上で答えて? 君は本気で、まだ他人を―――僕を信じるっていうの?」
矢継ぎ早に訊ねてくるジョーが、ただひたすらに怖い。
心配で支えたかったはずの彼の体を、逆に突き飛ばしてしまいたい衝動に駆られる。
「あ……」
口から勝手に、言葉が漏れる。
「―――――アルシード。」
そう告げた、刹那。
「―――っ!!」
目を見開いたジョーの顔から、笑みが霧散した。
『今回の一件……十中八九、ジョーが黙っていないだろう。』
脳裏で、数日前に聞いたノアの言葉が
『あいつが怖くてたまらなくなった時、アルシードという名前を口にしてみるといい。かなり卑怯な手にはなるが……あいつを正気に戻す、一番の方法だ。』
ノアのアドバイスは、的確だったようだ。
一度大きく乱れたジョーの呼吸が、徐々に落ち着きを取り戻していく。
痛いほどに腕に食い込んでいた彼の指から力が抜けて、その手がするりと腕から落ちていく。
浅く短い呼吸音だけが響く時間が流れて、しばらく。
「―――ははっ……」
乾いた笑い声をあげたジョーが、ドアに背中を預けたまま、ずるずると床に座り込んだ。
「……ノア様だね?」
深く溜め息をついたジョーは、自嘲的に笑って入れ知恵の犯人を言い当てた。
「ご、ごめん……」
「なんでキリハ君が謝るの? どうせ、ノア様に僕が怖くなったらそう言えって言われただけで、アルシードが誰かなんて知らないでしょ?」
「う、うん……」
指摘がごもっともすぎて、何も言えない。
先ほどまでの態度が嘘のように、雰囲気が柔らかくなったジョー。
少し迷いながらも彼の傍に膝をつくと、彼は眉を下げて肩を落とした。
「アルシードは、十五年前に死んだ……―――僕の弟だ。」
絞り出すように告げた彼は、とある物語を語り始めるのだった。
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