九歳の天才科学者

 アルシード・レイン



 当時九歳だった彼の名前を知らなかった科学者はいない。

 彼の死から十五年が経過した今も、その名前は当時の科学者たちの記憶に、鮮明に残っていることだろう。





 二つの難病治療薬を開発し、薬学研究を大きく発展させた幼き天才として―――





 レイン夫妻の出会いは、薬学に関する学会だった。



 それぞれが勤めている製薬会社の一員として学会に参加した彼らは、互いの論文発表にいたく感心して意気投合。



 結婚に至るまで、そんなに時間はかからなかったという。



 互いに仕事一筋だった彼らの熱意は、会社や国に申請を通してまで、新しく建てた家にそれぞれの実験室や薬草を育てる温室を作ってしまうほど。



 そんな科学の世界に満たされた家に生まれたのが、アルシードだった。



 成長する中で自然に科学に興味を示し、気付いた時には実験器具を手にしていた彼。

 彼は他の子供がおままごとをするのと同じ感覚で、簡単な実験を繰り返して遊んでいた。



 異常に記憶力がよく、大抵のことは一度か二度で覚えてしまう。

 そこにはすでに天才と呼べるだけの能力が表れていたが、両親は特に気にしなかった。



 子供の道を強制するつもりがなかったのと、三つ上の彼の兄も似たようなものだったからだ。



 住んでいる環境や会話の内容こそレベルが桁違いだったものの、笑顔が絶えない普通の家庭。

 それが壊れる事件が起こったのは、アルシードが九歳の秋頃のことだった。



 当時レイン夫妻は、派遣先の病院で難病治療の研究に勤しんでいた。



 医療チームと連携して多角的にアプローチをかけるも、尽力の甲斐かいなく命を見送ることも多かったという。



 それでも貪欲に命を救うすべを生み出そうと、時には病院に泊まり込み、時には自宅の実験室にこもり、彼らは全身全霊をかけて研究に打ち込んだ。



 もちろんそれで子育てをおそろかにするつもりはなかったが、非常に賢い子供二人は、あまりにも手がかからなかったのである。



 しっかり者の兄と天真爛漫な弟は両親の熱意を察し、あえて二人を実験室に押し込んで、研究を応援するくらいだった。



 とはいえ、やはり寂しさが我慢できなくなる時はあるもの。



 当時プログラミングに熱中していた兄はそうでもなかったが、アルシードは両親と共に実験室にこもったり、両親が勤める病院に遊びに行ったりしていた。



 病院に来たとしても無理に親を呼ぶわけでもなく、患者たちとおしゃべりをして楽しむくらい。

 特に高齢の患者たちがアルシードを可愛がっていたのもあり、アルシードの出入りは苦笑と共に黙認されていた。



 そんな折、夫が勤める病院で、難航していた研究に変化が訪れる。



 一人の患者の検査結果が、好転を示したのだ。



 偶然の可能性もあるので、すぐにどうしたというわけではなかったが、これまでにはない傾向だったため、すぐに観察経過の洗い出しが行われた。



 しかし、これといった原因が掴めないまま数週間、数ヶ月と時間だけが過ぎる。

 そしてその間にも、患者の容態は確実によくなっていく。

 患者自身も、自分の体が病魔から解放されつつあると自覚するほどに。



 頭を悩ませた彼は、守秘義務を遵守じゅんしゅする範囲で、妻にそのことを相談してみた。

 そして、そこで衝撃の事実を知る。



 妻が勤めている病院でも、同じことが起こっていたのだ。



 そこにある共通点。

 すぐにそれに思い至った二人は、信じられない気持ちで我が子の元へと向かった。



「アル……病院で、おじいちゃんに何かお薬を渡したかな?」



 ほとんど冗談で夫が訊ねると……



「うん! 渡した!」



 無邪気な笑顔で、アルシードはなんでもないことのように頷いてしまった。



「そのお薬、お父さんにもくれないかな?」

「うん、いいよ!」



 表情を輝かせたアルシードが向かったのは実験室。

 アルシード専用にしていた机の棚から、その子がお薬だという液体が出てきた。



「これ……どうやって作ったんだい?」

「妖精さんが教えてくれたの!」



 それは実に子供らしい、現実感を欠いた話。



「ちょっと、アルの自由帳を見せてくれるかな?」

「うん!」



 口で話を聞くことは諦めて、彼が実験の時にお供にしている自由帳にターゲットを絞ることに。

 それを開いた夫妻は、愕然がくぜんとする。



 幼い字で連ねられた、難解な数式たち。



 最新の論文で発表された定義を使っているだけでも驚きなのに、中には自分たちも知らない新たな定義式まで。



 さらには、アルシードが知るはずのない患者の検査結果もが、そこに記されていた。

 それで、子供の洞察力の鋭さを痛感する。



 アルシードは自分たちの隣で遊びながら、自分たちが研究システムに入るためのログイン情報をさりげなく記憶していた。



 それ故に、自分たちが家にいない時にも簡単にシステムに入ることができ、あらゆる論文や研究資料を読むことができていたのだ。



 いや、そこまでならまだいいだろう。



 子供には危ないからと鍵をかけていた薬品棚も、鍵の隠し場所を知っていたので難なく開けられた。

 実験器具の使い方も当然のようにマスターしていたので、技術面で苦労することもなかった。



 人知れずに膨大な資料をしっかりと読み込んで理解し、新たな定義に応用して、患者の経過を踏まえて改良を加えていった。



 その結果、見事に難病を改善させてしまった。

 この結果こそが問題だ。



 ひとまず、アルシードを上手く言いくるめて薬とノートを取り上げ、病院で詳しい解析を行うことに。

 それと同時にこっそりと、患者にも話を聞いた。



 確かに数ヶ月前から、アルシードにお薬だと言われて、よく分からない液体を渡されていた。

 どうせ子供のお医者さんごっこだろうし、子供が渡してくるものが毒や薬であるはずもない。



 そういう考えで、特に何も疑問に思わずにそれを飲み続けていたと。

 夫の病院でも、妻の病院でも、患者は異口同音にそう証言した。



 もはや、証拠は出揃ったと言ってもいい。





 ―――九歳の天才科学者、アルシード・レインの誕生だ。





 たぐまれなる才能が生み出した奇跡に、両親はただ顔を青くして震えるしかなかった。


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