―――〝消えて〟

 暗く、静かな廊下。



 そこに、カツンと。

 硬質な床を小さく踏む音が響いた。



 白衣を着た壮年の男性が、無駄に息をひそめて廊下を進む。

 足音を限りなく小さくする彼が向かうのは、集中治療室だ。



 大丈夫。

 用事ができたので宿直を代わってほしいと言い繕って、本来の担当は帰らせた。

 他の医者や看護師たちも、今はこのフロアに来る時間帯じゃない。



 大丈夫。

 あとは、集中治療室に収容されている患者の容体さえ悪化しなければ―――



 微かに震える手でカードを取り出し、読み取り部分にかざす。

 いつもなら一瞬に感じる認識時間が、今日はやたらと長く感じた。





「―――ねぇ、まだなの?」





 突如、ずっと背後に控えていた人物に声をかけられる。

 一片の抑揚もない平坦な声が、自分の心臓にナイフでも突き刺してくるようだった。



「ひっ…。はい、すぐに開けますから…っ」



 ようやく開いた扉に滑り込み、彼を招き入れる。



 口調と同じく冷たい表情で集中治療室に足を踏み入れた彼は……シャツの袖をまくると、自身の両手を丁寧に消毒し始めた。



 次に、運び込んできた鉄製のケースも隅から隅まで、消毒液が染み込んだ布で綺麗に拭きあげる。



「……何?」

「い、いえ……」



 きっちりとエアシャワーも浴びて、さらに念入りな消毒を施した彼に、男性は感じた戸惑いを引っ込めるしかなかった。



「あっそ。」



 ふいっと男性に背を向けた彼は、今度は男性の先導なしにスタスタと治療室を進んでいく。



 さあ、この中に入ってしまえばこっちのものだ。

 偶然とはいえ、キリハが《焔乱舞》を暴走させてくれたのは助かった。





 廊下を進みながら―――ジョーはゆるりと口の端を吊り上げる。





 侵入経路と従わせる手下は決まっていたものの、タイミングだけが悩みどころだった。



 両親の善意による看病のせいですぐには動けないし、かといって時間が経てば、フールやケンゼルたちが手を回してしまう。



 そんな時に、こんなにも都合よく事件が起こるなんて。

 天は自分に味方してくれたようだ。



 両親には緊急招集がかかったと告げ、実家から脱走。



 実家では自動プログラムを起動させておき、あたかも自分が実家からシステムを遠隔操作しているようにカモフラージュ。



 携帯電話の位置情報に関する対策も済んでいるし、あとは帰ってから監視カメラの映像さえどうにかしてしまえば、今日の訪問は闇に葬り去られることになる。



「どうも、お久しぶりです。……って、僕はあなたとはミゲル伝手つてにしか話したことないから、ほぼ他人なんですけどね。」



 ベッドで眠るエリクを見下ろし、ジョーは乾いた笑い声を一つ。



「へぇ…。〝ミイラの手招き〟を飲まされた上に、ロロカロンドを併用したにしては、随分と粘ってるじゃん。ここの医者がまあまあ優秀なのか……それとも、可愛い弟のため?」



「―――っ!? あなた、エリク君が飲んだ毒が何かを―――」



 男性の言葉は、途中で途切れる。

 彼が声をあげた瞬間、ジョーの氷の一瞥いちべつが彼を鋭く貫いたからだ。



「ちょっと黙っててもらえる? 今の僕は、かなり機嫌が悪いんだ。横領の証拠、拡散されたいの?」

「………っ」



 ジョーの問いかけに、彼は首をぶんぶんと左右へと振る。



(くだらない……たかだか横領ごときで、そこまでビビっちゃって……)



 一瞬で男性への興味など消え失せ、ジョーはエリクへと視線を戻す。



(人を殺してしまえば、大抵のことは怖くなくなるよ。)



 そっと目を閉じて、持ってきたケースに手をかける。

 ケースを開くと、後ろの雑音がまた驚くような気配がしたけど、まあ雑音なので無視しておくとしよう。



「あなたの暗号、読みましたよ。かなり手の込んだ暗号だね。あの状況でするすると解読を進めたルカ君は、十分に優秀な子だよ。……ま、僕からしたら、あの程度の暗号なんて大したことないけど。」



 暇潰しにどうでもいいことを話しながら、頭の中に浮かんでは消える計算式に従って手を動かす。



「残念。弟を裏切った兄の気持ちはどうよってことが知りたかったのに……死にたい、殺してくれって言葉ばっかりなんだもん。」



 淡々と紡がれる言葉と同じように無機質に響くのは、ガラスがこすれ合うような音。



「死んで途中退場なんてダサくない? 人生、やられたらやり返すもんでしょ。でも……そんなにお望みなら、その願いを叶えてあげる。」



 にっこりと笑ったジョーの右手に、液体が満タンに込められた注射器が掲げられる。





「いっそのこと、楽にしてやるからさ……―――さっさと、僕の頭から消えて。」





 瑠璃色の瞳に、氷河のごときすさまじさが宿る。



「あ……あ……」



 ジョーがエリクに謎の薬剤を打ち込む姿を、男性はただ震えて見つめるしかない。



「はい。」



 完全にすくみあがる男性に、ジョーは閉じたケースと折り畳んだ数枚の紙を渡す。



「じゃあ……あとは僕の代わりに、色々と被ってね。上手く働いてくれるなら、横領の事実くらいは抹消してあげるかも、ね?」



 どこかあやしい甘さをはらんだ、ジョーの微笑み。

 当然ながら、彼に罪の証拠を握られている男性が、それに逆らえるはずもなかったのである。


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