命の危機



(殺された…?)





 キリハの叫び声が、耳をついて離れない。



(殺された……殺された……)



 違う。

 自分と彼は違う。



 どうせ、他人事でしょ?

 僕が動揺する必要なんかないじゃん。



 そう思う脳裏で、フラッシュバックのように映像が弾ける。



 ガラガラと降り注ぐ重たい荷物たち。

 立ちのぼる砂ぼこり



 崩れ落ちた荷物の隙間から覗く手と、地面に広がっていく赤い液体―――



 違う。

 これは違う。





 これは―――





「………」



 幸いにも、今は皆がキリハに目を奪われている。

 自分一人が抜けたところで、どうせ誰も気付かない。



 医者を引き入れたことでちょうど扉の側にいたジョーは、気配を殺して病室を後にした。



 ゆっくり。

 次第に早く。



 そこから逃げるように、廊下を駆け抜ける。

 病室から十分に離れて、曲がり角の奥にある、普段は誰も近寄らない暗がりへと身をひそめる。



「はあっ……はあっ……っ」



 そこまでが限界で、途端に膝が崩れ落ちた。



 呼吸不全による甲高い耳鳴りが、全身に命の危機を告げる。



 噴き出る冷や汗が体温という体温を奪っていって、全身の震えが止まらない。

 大きく鳴り響く心臓が、痛いほどに収縮している。



「ジョー!?」



 背後から聞こえる、切羽詰まった叫び声。

 上手く動かない頭で後ろを振り返ると、長い付き合いの親友が息を荒げて顔を青くしていた。



「どう、して…っ。キリハ君に……ついてた……んじゃ…っ」



「馬鹿野郎! フールがあんなことを言ってたのに、おれがお前のことを気にかけないとでも思ってたのか!?」



 怒鳴ったミゲルは、大慌てでジョーの体を支える。



「おい、フールが言ってた発作ってこれのことか? 一体、いつからこうなってた!?」

「………っ」



 詰問に近いミゲルの問いに、ジョーは答えない。

 答えられないと言った方が、この場の表現には適していただろう。



 本人も必死にこらえようとしているが、乱れた呼吸が落ち着く気配はなく、顔色は蒼白になっていく一方。

 汗が止まらない体も、みるみるうちに冷たく凍りついていく。



「とりあえず、医者を呼んでくるから大人しくしてろ。」

「……いい。」



「いいってなんだよ!? 死にてぇのか!?」

「ほっといて! 自分でどうにかする!!」



 ミゲルの手を弾き、ジョーは腰元に手を伸ばす。

 そこから薬が入ったケースを取り出した彼は、一本の試験管と注射器を取り出した。



「く…っ」



 顔を険しくしかめながら、ジョーは試験管内の液体を注射器で取り出す。

 何度も刺し間違えながらも自身の左腕に注射針を刺し、液体を自分の体に打ち込む。



「はっ……う……」



 注射器を投げ捨て、ジョーは一気に脱力して壁に身を預けた。



「おい……これ、本気でやべぇやつじゃねぇのか。」

「大丈夫だって…。別に、肉体的な疾患じゃないし。頭を冷やせば……どうにか落ち着くよ。」



「じゃあ、精神的なもんだって言うんだな?」

「………っ」



 鋭いミゲルの問いに、ジョーは露骨に言葉につまる。



「……そんなんじゃない。」



「こんなにひでぇことになってて、しらばっくれてんじゃねぇ!! さっきから、全然落ち着いてねぇじゃねぇかよ!!」



 今にも意識を失いそうなうつろな相貌そうぼうのジョーに、ミゲルは必死に言い募る。

 しかし、当の本人にその諫言かんげんを聞き入れる気は皆無だった。



「大したことないってば…。普段は悪魔だ魔王だって言われてても……僕だって、一応は人間なんだ。想定外のことにびっくりしたり……体が言うことを聞かなくなったりもするさ。」



 ジョーは奥歯を噛み締める。



 お願いだから、早く収まって。

 これ以上、ボロを出したくない。





 今さら、この僕が立てた計画が崩れることなんて……





「―――十五年前。」

「―――っ!!」



 その単語に、息が止まる。



「原因は、そこにあるんだろう? おれの中学校に転校してくる前に、何があったんだ?」



 一瞬で怯えた表情になったジョーに、ミゲルは静かに問う。



『あれは……十五年前からあの子をむしばんでいる、闇そのものなんだよ……』



 フールが告げた、あの言葉。

 その時に殺した亡霊の力だという、たぐまれなる製薬能力。



 自分としては別に、ジョーが製薬に精通していたことに違和感はない。



 両親が共に製薬会社に勤めていて、頭脳がずば抜けて秀でている彼なら、そのくらいの技術はマスターしていてもおかしくないと思う。



 問題なのは、十五年も前から闇が彼をむしばんでいるという事実と、〝自分の手で殺した亡霊〟というキーワード。



 十中八九、彼には誰かを失った悲しい過去がある。



 そこで受けた傷は、いつも余裕の笑みで敵を蹴散らしていた彼の心を、こんなことになるまで追い詰めていたのだ。



「どうして、今まで何も言わなかった…っ。ガキの頃のおれが歪みまくってて、余裕がなかったってのは分かるけど……唯一の親友のことくらい、受け止めて支えてやる気概はあったぞ…っ」



 悔しくてたまらない。



 自分は子供の時から散々彼に助けられてきたのに、自分は彼が抱える闇の片鱗にすら気付けていなかったなんて。



「……別に。言う必要がなかったから、言わなかっただけさ。」



 少しだけ落ち着いてきた呼吸の合間に、ポツリと零れた声。

 抜け殻のような空っぽの声は、十四年の付き合いで初めて聞く声だった。



「言う必要がなかった…? こうして死にかけるほど重大な問題を、そんな簡単に片付けようってのか!?」



「うるさいな! 僕はそんなに弱くない!!」



 一息に叫んだジョーは、その勢いを借りて一気に立ち上がった。



「こんなことになるはずじゃ……なかった。」



 立ち上がりはしたものの、ジョーの体はすぐにふらついて壁に激突する。



「あいつは死んだ。。完全に封じ込めて、ミゲルと会った時にはもう……忘れることができてたんだ。去年までは思い出すことすらなかったのに……あの人に会ったせいで……僕は…っ」



「ジョー…」



「ほっといて。何も訊かないで。どうせ、今だけだよ。少し落ち着けば……きっと、また殺せる。そうすれば、元通りになるさ。誰のことだって、笑って平然と叩き潰せる……最低な人間にね。」



「最低な…?」



「………っ」



 ぐっと拳を握り締めるジョー。

 ミゲルの気遣わしげな視線に耐えきれなくなった彼は、弾かれたようにその場を走り出す。



「ジョー!!」



 ミゲルがとっさに追いかけて手を伸ばすも、その手は微妙なタイミングの差でジョーの手をすり抜けてしまう。



 あっという間に遠ざかっていくその姿を、止めることはできなかった。


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