元に戻る世界

 窓越しに聞こえる、無機質な電子音。

 それを聞きながら、ルカは窓の向こうをじっと見つめる。



 未だに危機を切り抜けないエリクの姿。



 固く閉じられた目がいつ開くのか、開いたとしても以前のような健康状態を保てるのか、何もかもが定かではない。



 起きてからようやく、両親に連絡を入れる決心がついた。

 当たり前だが、慌てて病院に駆けつけた二人は、兄が危篤という状況に激しく動揺していた。



 あんなに肝っ玉な母でも、こんな風に弱ることがあるんだな。



 取り乱して泣き崩れてしまった母親を前に、自分はどこか夢見心地でそんなことを思っていた。



 今は二人で、警察と病院関係者から事件の概要とエリクの容体を聞いている。

 先ほどの状況をかんがみると、母は自分と同じように鎮静剤でも投与されるかもしれない。



「………」



 ルカは黙してエリクを見つめる。



 兄に近づいて、呼吸を確かめることもできない。

 その手を握って、体温を感じ取ることもできない。



 窓の向こうで眠る兄が生きていることを証明するのは、ここから微かに見える機械に映る、心拍と脈拍を示す電子信号だけだ。





 でも……―――そんなもの、なんの気休めになる?





 もしもあの機械が壊れていたら?

 自分の目に見えている世界が、自分にとって都合よく見えるだけのまやかしだったら?



 こうして隔離されたまま、死神が兄を遠いどこかへ連れ去ってしまうのではないか。



 そんなことを思い出したら、きりがなくて……



 ふとその時、携帯電話が震える。

 ただの条件反射で右手に握ったそれを見下ろすと、カレンからメッセージが入っていた。



〈テキトーにご飯を買っていくから、一人でどこかに行っちゃだめだよ!〉



 簡単な一文。



 本当はもっと訊きたいことや言いたいことがあるはずなのに、極力いつもどおりを装おうとしているのがよく分かる。



 カレンだって、幼い頃から当然のようにエリクと過ごしてきたのだ。

 きっと自分と同じくらいつらいだろうに、自分よりも強くこの場を踏ん張ろうとしている。



「適わねぇな……」



 そう呟くも、いつものように意地なんか張れない。

 意地を張れるほどの気力なんか、今の自分には到底振り絞れない。



「ルカ……」



 か細い声が、自分の耳朶じだを打つ。

 その主を探して視線を巡らせると、自分の服のすそを掴む白くて小さな姿があった。



「シアノ…。どうして、こんなところに……」

「父さんが、教えてくれた。ルカが大変そうだから、行ってあげてって。」



「そうか……」

「………」



 どうにかこうにか手を動かして、シアノの頭を優しくなでてやる。

 シアノは悲しそうな顔で眉を下げて、その視線をエリクに向けた。



「エリク……死んじゃうの…?」

「………っ!!」



 幼いが故に、ダイレクトな問い。

 それが、思い切り深く胸をえぐった。



「……分からない。」



 口だけが、機械的に答えを述べる。



「信じてる……信じてるつもりなんだけど………もう、どんな気持ちで待ってればいいのか分かんねぇや……」



 キリハの時とは、明らかに違う精神状況。

 心はすでに崖っぷちに立たされている。



 友人とはいえ他人か。

 血を分けた肉親か。



 その違いはあまりにも大きいのだと、今身をもって痛感している。



「ルカ……一緒に行こうよ。」



 泣きそうに顔を歪めたシアノが、小さく腕を引っ張ってくる。



「人間が、こんなにひどいことをしたんでしょ? だったら、やり返さないと。ぼくや父さんと一緒に、人間に仕返ししてやろうよ。」



「シアノ……」



「行こう…? 行こうよ。ルカも、ぼくとおんなじ……人間が嫌いなんでしょ? ぼくの仲間でしょ…?」



 シアノが必死に訴える。





 ぼんやりとした頭でそれを見つめていて―――ふいに、心臓が重く鳴り響いた。





(そうだよな……)



 思考が勝手にさまよう。



(兄さんをこんな目に遭わされた…。兄さんが助かろうが死のうが、それは変わらない。オレには……復讐する権利がある。)



 ドクン、ドクンと。

 鼓動が一つ刻まれるほどに、自分の脳内がじわじわと暗い色に染まっていく。



(これは、決して許されないことだ…。それなら、何を躊躇ためらう必要がある? そもそも、オレは何を躊躇っているんだ…? だって……)



 ドクンッ



 心臓が、一際大きく鳴る。





(オレは―――あいつらが大嫌いだろう?)





 他でもない自分自身の声が、自分の世界を元に戻して……さらに深みへと落とす。



「―――そうだな。」



 薄く開いた口腔から零れる、空虚な声。

 その声とは対照的に、赤とすみれの双眸に苛烈な感情が宿る。



「あいつだけは許さない。他に何を犠牲にしてでも……あいつだけは、地獄に叩き落としてやる…っ」



 暗くよどんだ瞳に、迷いはない。



 シアノに腕を引かれて、ルカは一歩を踏み出す。

 その後はむしろシアノの手を引いて、彼はエリクが眠る集中治療室からスタスタと遠ざかっていった。



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