第6章 軋んでいく心

口先とは裏腹の迷い

 一人で廊下を歩いていたルカは、途中で立ち止まって空を見上げる。



「………」



 この先は、命をかけることになりかねない。

 ああ言ったのは本心。





 だが……自分は、どこか迷ってしまっている。





(さて……オレは、どうするべきか……)



 あと少しだけ、落ち着いて考えてみよう。

 この気持ちを優先すべきか否か。





 一度動いてしまったら―――もう、戻れないから。





 ふと息をつき、ルカは懊悩おうのうで揺れる瞳をまぶたの裏に隠す。

 そして窓辺から目を背け、自室への帰路に戻ることに。



 特に何も考えずにポケットに手を突っ込んで、とあることを思い出した。



「そういえば……」



 指先に当たったものを取り出す。

 そこにあるのは、キリハから渡されたエリクのメモだ。



 この暗号を目にするのは何年ぶりだろうか。

 就職と同時にエリクが実家を出て以来、この暗号でやり取りした記憶はない。



 出るかどうかは期待せず、エリクの番号を呼び出して電話をかけてみる。

 コール音は、予想以上に早く切れた。



「あ、兄さん? 突然〝これ、覚えてる?〟って、一体なんなんだよ。」



 余計な前置きは省略し、簡潔に用件を告げる。

 すると、電話の向こうのエリクは、あからさまにほっとしたようだった。



「よかった……覚えてるんだね……」

「はあ? 何年もあれでやり取りしてたんだから、そう簡単に忘れねぇって。」



「あはは、そっか。」

「……ん?」



 なんだか、妙な兄だ。

 ルカが眉をひそめていると、エリクがくすくすと笑い出す。



「だってルカったら、キリハ君が引っ張ってこないと会いに来ないんだもん。僕との思い出なんか、すっかり忘れてるのかなーって思っててさ。」



「うっ…」



 いきなり痛いところを突かれ、渋面を作るしかないルカ。

 エリクの小言はまだ続く。



「この前、母さんたちに会った時の喜びよう見た? 宮殿に行ってからあの日まで、一度も実家に帰ってなかったそうじゃない。今度、ちゃんと帰ってあげなよ。キリハ君と一緒に。」



「なんでそこで、あの馬鹿猿がるんだよ。」

「ルーカー? 今までの行動を忘れたのかなぁ?」



 他人ひとの揚げ足を取るかのごとく、エリクの声が活き活きとする。



「ルカに初めてまともな友達ができたって、母さんたちかなり安心してたんだよ? ルカが照れて何も言わなかったから、あの後僕がどれだけ質問攻めにあったと思ってるの。」



「うぐっ…」



「いい? ちゃんと事前に連絡を入れてから、キリハ君もセットで帰るんだよ? そうじゃないと、母さんたちがご馳走の準備できないから。」



「ご、ご馳走ってなんだよ…。結婚相手を連れていくわけでもねぇのに。」



「お嫁さんの方は、誰も何も心配してないからいいんだよ。」



「なんで嫁より、友達の方がランクが上なんだ……」



「自分の胸に訊きなさい。」



 ピシャリとルカを一刀両断したエリクは、次にとんでもない発言をかます。



「そこまで複雑なら、いっそお嫁さんも正式に連れていって、本当のお祝いにしたらいいんじゃない? さっさとプロポーズしなよ。」



「にっ、兄さん!?」



 突然、なんてことを言うのだ。

 まさかこんな展開になると思っていなかったルカは、真っ赤になって狼狽うろたえる。



「あはは……はは。」



 その時ふと、明るかったエリクの声が静かになった。





「……ルカ。今まで、ありがとね。」





 どういう経緯なのか全く分からない、感謝の言葉。

 ルカはさらに混乱することになる。



「は? なんだよ、急に……」

「いや……なんとなく、言いたくなっただけ。」



 そう言うエリクは、深い溜め息を零した。



「なんか最近ね、僕は本当にいい人たちに恵まれてたんだなぁって、そんな風に思うことが多くて。」

「おいおい、不穏な空気を出すなって。」



「あはは、ごめん。体調がよくないからかな? 気が弱くなってるみたい。」

「そう思うなら、仕事してねぇで休めよ。」



 キリハから報告がいっていることは、確認するまでもなく了解しているのだろう。

 エリクの物言いから、それを察する。



「まあ……オレも、ありがとな。」



 言うかどうか少し迷ったが、言えるタイミングは今しかないだろうと思い直し、ルカはその一言を口にした。



「今まで、ほら……オレのせいで、色々と気を揉ませただろ。オレの代わりに文句を受けたり、フォローしたりするのも、大変だったと思うし……」



「ルカ…」



 言葉を失うエリク。

 いつものようにからかわれるかと思ったのだが、しばらく黙り込んでいたエリクは、小さく笑っただけだった。



「なんだろうね。お互い、もう会えなくなるかもしれない事情を前にしたみたいな会話になっちゃったね。」



「………っ」



 この気持ちを優先して動いたら、もう戻れない。

 つい先ほどまでそんなことを考えていたからか、兄の言葉にどきりとさせられた自分がいた。



「じゃあ、そろそろ寝るね。明日も早いんだ。」

「あ、ああ……」



 だから、仕事より休みを優先しろって。

 動揺のせいでいつも言える言葉が言えず、電話は一瞬で切れてしまう。



「………」



 通話終了の画面を、黙って見つめるルカ。



 胸の内側で鎌首をもたげるのは、大きな不安と危機感。



 それがどこに起因するものなのかは、今の自分には分からなかった。


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