知らない気持ち

 電話を切ったエリクは、無言で携帯電話を操作していた。

 その表情は苦悶に満ちており、指の震えは増す一方。



「……―――っ!!」



 奥歯を噛み締めた彼は、苛立った様子で携帯電話を床に投げつける。

 そして、胸を押さえてベッドに倒れ込んだ。



 そこに歩み寄る、小さな姿が一つ。



「エリク……」

「……シアノ君。」



 うっすらと目を開けたエリクは、冷えきった手でシアノの頬に触れた。



「君は……君だけでも、早く逃げるんだ。」

「でも…っ」



 泣きそうに顔を歪めるシアノに、エリクは根気強く語りかける。



「君も、君のお父さんも、あの人に騙されたんだろう? 治療のためだとしても、脅されてるんだとしても……あんな人の、傍にいちゃいけない…っ。君みたいな子供なら、警察もすぐに保護してくれるはずだ。そうすれば……君のお父さんも、あの人から解放されるかもしれない。だから…っ」



 必死なエリク。

 それに、シアノはゆるゆるを首を振るしかなかった。



 違う……違うの……



 心がそう叫んでいる。



 エリクをそうしてるのは父さんで……

 父さんの命令に従って、エリクに血を飲ませたのは自分で……





(ぼくが……ぼくが悪いの…?)





 エリクが倒れてから、そんな思いばかりが頭を巡る。



 なんでこんなに胸が苦しいの?

 今まで、何度も見てきたのに。

 その時は、何も感じなかったのに。



 目の前で苦しんでいるのがエリクというだけで、こんなにも怖くなる。



 こんな気持ち、知らないよ……



「エリク……死んじゃやだぁ…っ」



 あっという間に、悲鳴をあげる心が涙となってあふれてくる。



 ぐずぐずと泣きじゃくるシアノ。

 そんなシアノの頭を、エリクが優しくなでた。





「―――そんなに泣かないでおくれ。私が使っている間は死なないよ。」





 しかし、その口調はエリクのものではなかった。



 レクトが表に出てきたことに気付くも、シアノの涙は引っ込まない。

 むしろ、父の登場で余計に涙が出てきてしまったようだった。



「でも……でも、最後には……」



 幼い口から零れるのは、絶望を漂わせる言葉。

 そしてそれを、レクトは否定しなかった。



「ううむ、そうだね…。あくまでも人間に操られていると、私の存在には気取られないように意識を操作しているが……このまま生かすのは、難しくなってきた。」



 レクトは悩ましげに腕を組む。



「予想以上に、往生際が悪い奴だ。あいつに家族を人質に取られているというのに、隙あらば外部に情報を流そうと必死だ。おかげで、キリハの相手をする時以外はこいつから目を離せん。さっきも何かメッセージを送ろうとしていたみたいだが……私がそれとなく邪魔をしたからか、意味の分からない文字しか打てなかったようだな。何度私に気絶させられれば気が済むのか……」



 数多くの人間を操ってきたレクトからしても、エリクを御するのは相当な労力なのだろう。

 深く息を吐きだす彼からは、それなりの疲労が見て取れた。



 ああ…

 きっと父は、最後にエリクを殺すだろう。



 珍しく手を焼いているレクトの様子から、それを察してしまった。

 だからこそ、なおさらに怖くなることが一つある。



「ルカ……ルカは?」



 思わずそう訊ねる。

 すると、レクトはさらに渋くなった表情で眉を寄せた。



「今のところ、なんとも言えんな…。ルカについては、ジョーと同じくらい情報がない。賢いあの子は、普段から隙を見せないように動いているようだ。状況次第では、ユアンやジョーと同じくらい危険な人物だろう。」



「………っ」



 父がルカを危険人物として捉えている。

 その事実に、身も心も凍りついてしまいそうだった。



「や……やだぁ!!」



 シアノはレクトにすがりつくと、何度も服を揺さぶった。



「ルカだけは嫌だ!! やだやだやだぁっ!!」



 内側で荒れ狂う心情を示すように、シアノは泣き叫んだ。



「ルカは、ぼくたちの味方になってくれるもん! ルカは、人間が嫌いだって言ってたもん…っ。だから…っ」



 人間が嫌いなのかと訊いた時、ルカは申し訳なさそうにしながらも、それを認めた。



『……はは。お前、なんかオレに似てんな。』



 そう言いながら頭をなでてくれて、自分の発言に笑って同意してくれた。



 ルカの話は難しくて、今はもうぼんやりとしか思い出せないけれど、あの時に感じた嬉しさと安堵は鮮明に覚えている。



 なんだか、初めて本当の意味で仲間だと思える人に出会えたような気がして。

 この人ともっと一緒にいたいって、心の底からそう思えたのだ。





 それなのに、仲間になれるはずの人とお別れになってしまうなんて……





「ふえ……うえぇぇぇん!!」



 火がついたように泣いているシアノは、一見して手がつけられそうもない。

 そんなシアノを前に、レクトはひっそりと息を吐いた。



 自らここに飛び込んだことで、仲間の領域に受け入れられたキリハ。

 片や自分の意志とは関係なく利用され、転がり落ちる先に破滅しか見えないエリク。



 対照的な二人を見ているうちに、一番好きなルカに対する気持ちが抑えきれなくなってきたようだ。



 まさか、シアノが一番気を許す相手がルカになろうとは。

 キリハやユアンに接触させる時だけ気を使っていればいいと思っていたのに、思わぬダークホースが現れたものだ。



(洗脳しやすい子供を使うのは便利だったが……こういう弊害があるのか。)



 少しばかりわずらわしさを覚えたものの、さほど危機感は抱いていない。

 いくら好きな人間ができようとも、この子が自分の支配下にあるのは変わらないからだ。



 だってこの子には、自分の傍以外に居場所がない。

 まだまだ保護されるのが当然なくらい幼いが故に、それを手放せるだけの判断力も決断力もない。



 仮にここより居心地がいい場所があったとしても、そこに飛び込めるほどの信頼関係は、誰とも築いていないはずだ。



 そんなことにならないように、優しく言い聞かせながら、この子と人間との距離を調整してきたのだから。



 そんな子が唯一の居場所が揺らぐ気配を感じたら、どうなるだろうか?



「シアノ……どうしたんだい? やってみてだめなら、わがままを言わないんじゃなかったのかい?」

「………っ!!」



 ほら。

 涙も止まってしまうほどに、怖がるだろう?



 全身を大きく痙攣けいれんさせたシアノに、レクトは内心でほくそんだ。



「あう……ごめんなさい。ごめんなさい……」



 心底怯えた様子で謝るシアノの髪に、レクトは優しく指を通した。

 その仕草と同じように、甘い声音で語りかける。



「心配しなくても大丈夫だ。すぐに殺すとは決めないよ。キリハがもう仲間になっているんだし、キリハに頼んでもらえば、ルカも仲間になってくれるかもしれないだろう?」



「うん…」



「でも、それでルカが仲間にならないと言ったら……仕方ないからね?」



「う……うう…っ」



 眉を下げるシアノは、再びぽろぽろと涙を流し始める。



 こちらの不興を買うことに恐怖を抱きつつも、これまでと違って素直に〝うん〟とは頷けない。

 誘導は半分成功、半分失敗といったところか。



(やれやれ…。これは少し、方向性を考え直した方がいいかもしれんな。)



 シアノをなだめながら、レクトは思案深げに瞳を伏せるのだった。


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