〝シアノ〟に込められた意味

 シアノのまとう雰囲気が、突如として変わった。

 そのことに、ジョーとフールは揃って身を強張らせた。



 うつむいていたシアノが、じれったく感じるほどの動きで顔を上げる。

 そしてこちらに不気味な笑顔を向けてきたシアノは、先ほどまでの彼とはまるで別人だった。



「これはこれは……こうして話すのは、何百年ぶりになるかな?」



 シアノの口から、シアノの年齢らしからぬ口調で紡がれる言の葉。

 それに、ジョーとフールは二人して息を飲んだ。



 しかしシアノは―――シアノの姿を借りた別の誰かは、そんなことに構わず口を開く。



「ふむ…。今はそこの彼が、君の口代わりということかな? こちらとしては、なかなかに面倒な組み合わせだね。だが、いつまでも可愛らしいお人形のふり……というのは、いささかつまらないのではないか?」



 にやり、と。

 シアノの唇が、大きく吊り上がる。



「……一応、今の慣習に従ってこう呼んでおこうか。なぁ、フール?」



「―――君って奴は……」

「フール様、落ち着いてください。」



 低くうなるフールを、即座にジョーがたしなめる。

 それで表面上の平静を保ったのもつかの間、シアノの口から次の爆弾が投下される。



「今のほむらのご主人は、随分と可愛い坊やじゃないか。」



 話題がキリハのことに及び、一度は抑えたはずの激情が揺れる。



「シアノを接触させれば、十中八九放ってはおかないだろうと思っていたが、あそこまでのめり込んでくれるとは…。嬉しい誤算だったよ。ロイリアどころか、あのレティシアまで気を許しているようだし、これは―――」



 まっすぐにフールを見つめ、彼はその言葉を放つ。



「実に、壊しがいがありそうだ。」



 心底愉快そうに弾む声。

 それは、遥か遠い過去に聞いたものと全く変わらなくて。



「―――っ!!」



 怒りが臨界点を突破するのは、まばたきの時間ですら及ばないほどの刹那的な出来事だった。



「ふざけるな!!」

「フール様!」



 口調を荒くしたフールを、ジョーが慌てて止める。



「くっ…」



 フールはすぐには冷めない激情に、悔しげにうめいた。



 ジョーが体を強く抱いていなければ、自分は彼の元へと飛び出していただろう。

 なんの意味もないと分かっていながら、彼に拳を振り上げることを止められなかったに違いない。



「君は、あの日から何も変わってないんだね……」



 その言葉は、想像以上に自らの心をえぐった。



 露骨に介入された時から、分かっていたはずだった。



 それなのにこんなにもショックを受けているのは、心の片隅で、彼の変化を望んでいた自分がいた何よりの証拠。



 ああ、そうだ。

 期待して何が悪い。



 だって彼と別れたあの日は、どんな悪夢もかすむほどの地獄を見た日だったではないか。



 これまでに何度、あの日の記憶に苦しめられただろう。

 そんな悪夢を生み出したのは、他でもない彼だというのに。



 それなのに、変わっていない?

 何も響いていない?



 ふざけるのも大概にしてくれ。



 彼への絶望は、必死に抑えている怒りをどんどん増長させていく。



「焔が次のあるじを決めた時が、君とまた向き合う時だって……そう理解はしてたよ。やっぱり、焔を操る人間は邪魔だと言うのかい?」



「今さら、そんなことを訊き直してどうする?」



 彼は鼻で笑って、フールの問いを一蹴した。



「焔がその身を許したということは、リュードが彼を認めたということだろう。お前と同じ志を―――ドラゴンと人間が共に歩める世界を、だなんて幻想を持つ者だと。そんな人間など不要だ。」



 彼は痛烈に断言する。



「人間は、今くらいでちょうどいい。ドラゴンのことをいといながら、私に滅ぼされる日を怯えて待っていればいいのだ。それを変えようとする人間がいるなら、私は容赦しない。」



 暗くよどんでいく彼の声。



 強い怨嗟。

 そこに込められていたのは、紛れもなくそれだった。



「特に、彼は放ってはおけないのだ。ドラゴンのために本気で泣いて笑って、あのレティシアにすらも自分を認めさせた。彼は、在りし日のお前にそっくりだ。」



「………」



 それが、キリハを目の敵にする本当の理由か。

 本当に、彼はどこまで自分のことが嫌いなんだか。



 フールは黙して、彼の言葉を聞き続ける。



「だから、すぐに殺しはしないさ。じっくりといたぶって、まずは心を壊してあげよう。彼には、お前の分まで苦しんでもらう。」



「そのための道具が、その子ってわけ…?」



 自分の聴覚を震わせる声が、まるで自分のものではないようだ。

 果たして自分は、こんなにも冷たい声を出す人間だっただろうか。



 理性?

 冷静さ?



 そんなもの、因縁の相手を目の前にしては意味を持たない。



 体の芯を燃え上がらせる一方で、心の奥底を冷たくしていく激情。

 それが怒りなのか、それとも憎しみなのか。

 そんなことすら、どうでもよかった。





「君は、変わっていない。変わるつもりがない。その子は、君の意志の写し身なんだろう? シアノ、なんて……わざわざあの子と同じ名前を与えて、同じ甘言を囁いて、それで…っ。それで! あの日と同じ悲劇を繰り返そうっていうのか!? ―――レクト!!」





 血を吐くような叫びを伴った、フールの激昂。



 シアノの肉体を借りた彼―――レクトは、それを聞くと満足そうに微笑んだ。



 その笑顔が、さらにフールの神経を逆なでする。



「君は、本気で何も感じなかったのか!? シアノがどんな想いで君に手を差し伸べて、どんな想いで僕らに別れを告げたか…っ。あの子が、どんな顔で死んでいったのか………君は、それを忘れたっていうのか!?」



「もちろん、覚えているとも。」



 フールとは対照的に、レクトは少しも感情を揺らさないままそう答えた。



「彼女は純真で、かくも愚かだった。憎たらしいほどの希望を胸に私の元へと通い、私が少し応えてやっただけで、面白いくらいに笑った。私に騙されているだけとも知らずに、私の味方について……最後には、私の操り人形になるまいと己を焔に焼かせた。あれは傑作だったな。あんなに愉快な思いを、忘れるわけがないだろう? 彼女は今も、私の愛しい子だとも。」



 レクトの言葉は、到底理解できないものだった。



 彼の声は、甘くて優しげだ。

 そんな声で、彼は彼女の死を愉快だったと言ってのけた。



 あの時の彼女の想いを心で感じていたなら、そんなことを言えるはずもないのに。



「君は……どれだけ、あの子のことを踏みにじれば…っ」



 怒りがたける炎となって、全身をなぶっていく。

 脳裏が、真っ赤に染まる。



「ふふ…。お前のそんな声を聞くのも久しいな。そうやってお前が苦しむ様を見られるなら、私はいくらでも歴史を繰り返そうじゃないか。愚かな人間どもがいる限り。そして、お前とリュードが無意味な理想を抱いている限り、何度でもな。」



「レクト…っ。君は―――」

「私が憎いか? 私を止めたいか?」



「何を決まりきったことを!」

「では、私からも問おうではないか。」



 瞬間、レクトの口調が一気にその温度を落とした。





「―――お前たちは、今さら何を願う?」




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