別れるしかないこと
どれくらいの間、その場に立ち尽くしていただろう。
髪も服もすっかり濡れて、それらが肌にまとわりついて気持ち悪い。
そんな不快感に顔をしかめ、次にルカはハッとしてキリハに近寄った。
キリハがまだ病み上がりであることを思い出したのだ。
「おい。」
その肩を掴んで揺する。
すると。
「―――俺ね……」
ぽつりと。
キリハの口から、空虚な声が零れた。
「これまでは変えられなくても、これからは変えられるって……ずっと、そう思ってきた。今だって別に、それを疑ってるってわけじゃないけど………変えるには、時間もチャンスも少なすぎる時があるんだね。結果として、変えられないこともあるんだって……ようやく、そう思い知った気がするよ。」
機械のように平坦な声で、キリハは
〝人間は嫌い〟
はっきりとそう口にしたシアノに、自分はかけてあげられる言葉が浮かばなかった。
何も言えなかった。
目は口ほどに物を語るという。
情けないことかもしれないが、シアノの瞳に宿ったすさまじい拒絶に、自分はすっかり飲まれてしまった。
―――届かない、と。
否応なしに、そう思わされてしまったのだ。
「別れるしかないことが、確かにあるんだね……」
口だけが、寒々しく事実をなぞる。
離れていくシアノを呼び止めることもできず、ただ見送ることしかできなかった。
だが仮に呼び止めたとして、あの子に何を言えた?
何をしてあげられた?
―――何もないじゃないか……
自分の居場所はここじゃない。
シアノは、そういう答えを出した。
安心できるのは父親のところだけだと。
そう言って、シアノは笑ったのだ。
あの笑顔に勝る居場所を作ってやることは、今の自分にはできない。
そう思うくらいに、あの時のシアノの笑顔が強烈に脳裏に焼きついた。
だから見送った。
見送るしかなかった。
散々傷ついて、笑顔さえ忘れてしまったシアノが、唯一笑える場所があるのなら。
そしてシアノが笑える場所が、自分の手の届かない所にしかないのなら。
自分にはもう、そこでの幸せを願うことしかできない。
自分にできることがあっても、それが自分の役割じゃないこともある。
ルカのあの言葉の意味を、今ひしひしと実感していた。
「キリハ君……」
エリクが優しく肩に手を置いてくれる。
それが、停止していた感情を動かすきっかけだった。
途端に胸の奥から、衝動のような感情の津波が起こって、全身を大きく揺さぶる。
なんだか、寒くてたまらない。
それは雨のせいか、それとも―――
ぐっと奥歯を噛み締めると、頬を伝う雫の中に一つ、温かいものが流れていった。
「キリハ君、大丈夫だよ。」
エリクが、肩を支える手に力を込めてくれる。
「ああするしかなかったんだ。少なくとも今は……シアノ君がこちらを拒絶した今は、ね。」
きっと、やるせない気持ちはエリクも同じ。
肩越しにエリクが押し殺している切なさが伝わってくるようで、キリハは思わず顔を歪めてしまった。
「分かってる……分かってるよ。でも……どうにか、できなかったのかなぁ…?」
自分もエリクのように大人になって、何もできなかった現実を受け入れられたら。
そう思うのに、感情が全く言うことを聞いてくれない。
人は、急激な変化にはついていけない。
シアノの中にこびりついた人間への不信感を
だから、シアノの口から人間が嫌いだという言葉が出るのは当然のことで。
初めのうちは拒絶されるだろうことも、簡単に想像ができる。
そしてシアノが去ってしまった今となっては、ここであれこれ後悔しても意味がない。
シアノの帰る場所が分からないのだ。
これ以上の進展は、シアノとまた出会う奇跡でも起こらない限り、望むことはできないだろう。
全部分かっている。
それでも……
「諦めが悪いって言われてもいいよ。無責任な同情だったとしてもいい。シアノにあんなこと言わせちゃったことが悲しくて……悔しくて…っ」
暴れる気持ちは、理性では止められないのだ。
「そうだね。せっかく出会えたんだから、シアノ君がたくさんの人を好きだって言える手伝いをしたかったね。」
エリクは、こちらの想いを肯定してくれる。
ルカも何も言わなかった。
その優しさが嬉しくて、それと同時に切なくてたまらなかった。
この優しさを。
そして、この優しさを感じられる幸せを。
シアノに少しでも伝えられたら、どんなによかっただろう。
「キリハ君、そろそろ僕らも帰ろう。ここにずっといても、きっとシアノ君は帰ってこないから。」
エリクの言葉が、つきりと胸に突き刺さる。
それではたと悟った。
分かっていると口にしながら、自分は往生際悪く、シアノが帰ってくるのを待とうとしていたのだと。
「うん……そう、だね。」
自らそう口にすれば、胸に走る痛みがより増すような感じがする。
本当は、まだここにいたい。
でもエリクの言うとおり、ここにいてもシアノは帰ってこない。
………受け入れなければ。
キリハはぐっと唇を噛む。
そしてゆっくりと、その場に背を向けて歩き出した。
最後に残るのは、全てを洗い流すように強まる雨だけ―――
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