〝なんで?〟がもたらす恐怖

 大丈夫。

 やるべきことはやった。

 父も、よくやったと褒めてくれた。



 自分は間違っていない。

 父は間違っていない。



 何度も何度も、自分にそう言い聞かせた。



 なのに、どうしても胸が気持ち悪い。

 でも、どうして自分が気持ち悪いのかも分からない。



 分からないから、これ以上は何も考えたくない。

 それなのに、誰もいないこの部屋の中では、気を紛らわせることもできない。



 頭がぐるぐるとして、とても嫌な気分だ。



 いつもならじっとしていることなんて苦じゃないのに、今日はそれができなかった。

 だから思わず、あの部屋を飛び出してきてしまった。



 フードを真深く被り、しきりに周囲の様子を見回しながら、シアノは賑やかな街の中を当てもなく歩き回っていた。



 大きな道路に、そこを行く自動車や自転車。

 交差点に出れば信号機や横断歩道があって、その周辺に建っているビルの壁面には、大きな電光掲示板やモニターがある。



 この辺りには何度か来たことがあるので、一応これらが何に使われているものなのかは分かる。



「………」



 信号を待ちながら、シアノはぎゅっと耳を塞ぐ。



 これらが、人間の生活に必要不可欠なものなのは知っている。

 でも、普段は全くこれらに触れない自分からすると、この雑音は少しばかりうるさすぎた。



 なんで人間は、こんなにもうるさい世界で生きているんだろう。



(どうしよう……また…っ)



 信号が変わると同時に、シアノはそこから全力で走り出す。



 あそこに―――エリクたちのにおいがする部屋にいるのがいけないんだと思った。



 だから外に出れば、胸のもやもやもなくなると思った。

 逃げられると思った。





 ―――なのに、逃げられない。





 なんで?

 どうして?



 そんな疑問が、自分を追いかけてくる。

 だって、分からないのだ。



 なんであの雨の日、キリハは自分を助けてくれたの?

 どうしてエリクは自分を家に置いてくれて、温かい食事を出してくれるの?

 なんでルカは、自分にたくさんのことを教えてくれたの?



 自分は、何もしてないのに―――……



 考えたくないと思うほど、逆に考えてしまう。



 なんでキリハたちは、自分のことであんなに泣いたり笑ったりするの?



 考えたくない。

 こんなこと。



『何故、考える必要があるんだい? 人間は醜い。人間は嫌い。だから消せばいい。それだけだよ。』



(だって……父さんは、そう言ったんだ。)



 心が必死に、その考えにすがる。



 父は今まで間違っていなかった。

 父が言ったことは、全部正しかった。



 人間のことなんか考えなくていい。

 それでいいのに、分からないことが怖い。

 分からないことが、こんなにも苦しい。



 視界に飛び込んできた景色が、またたくさんの〝なんで?〟を心の中にばらまいていく。



 なんであの人は笑っているの?

 なんであの子は泣いているの?

 なんであの人は怒っているの?



 それは楽しいから?

 悲しいから?



 じゃあ、楽しいって何?

 悲しいって何?



 嫌いって何?

 好きって何?





 ―――――人間って、何…?





 無我夢中で走って、気付けば適当な路地裏に飛び込んでいた。

 両膝に手をつき、シアノは呼吸を整えながら汗を拭う。



 気持ち悪くて、頭がぐちゃぐちゃだ。



 なんで、こんなに胸が苦しいんだろう。

 なんで、こんなに怖いんだろう。



 たくさんの〝なんで?〟の答えを知りたいはずなのに、同じくらい答えを知りたくない。

 そもそも、こんなことは考えなくていいんだ。



 だって、人間は醜いから。

 父がそう言うように、自分もそう思う。



 自分は、醜い人間をいっぱい見た。

 人間なんか大嫌いだ。





 …………本当にそうなの?





 ふと脳裏に浮かんだのは、キリハたちの顔だった。



「―――っ!!」



 その瞬間、自分が恐怖する理由の一部が分かって、体が震えた。



(違う……ぼくは、父さんが間違ってるなんて思ってない…っ)



 それは、今まで味わったことのない恐怖だった。



 自分にとって、父はとても大きな存在。

 捨てられた自分を拾って、何度も怖いものから助けてくれた。

 なんでも知っていて、色んなことを教えてくれた。



 決して、自分を邪険にしない。

 いつも〝いい子だ〟って言ってくれる。



 父は自分の全てだ。

 父のためなら、自分はなんでもできる。





 なのにどうして―――父の言葉に対して〝本当に?〟なんて……





「……帰りたい…っ」



 心の底から思った。



 早く帰って、父に会いたい。

 父に抱きつけば、きっと安心する。

 こんな気持ち悪いのなんて、どこかへ飛んでいく。



「帰ろう……」



 そう決めたシアノは、もう一度汗を拭ってその場からきびすを返す。



 次の瞬間、勢いよく誰かにぶつかってしまった。



 自分が全く知らない人の気配。

 それに全身が総毛立って、シアノは相手を突き飛ばして、自分も後ろへと後退した。



「わわっ。ごめん、脅かすつもりはなくて……」



 表情を険しくして威嚇するように低くうなるシアノに、突然突き飛ばされてよろけた相手は、慌てて両手を振った。



 おっとりとした雰囲気の、線が細い少年だった。

 紺色の学生服に身を包む彼は、服の色のせいか肌の青白さが異様に目立つ。



 そしてさらに印象強いのは、綺麗な赤色をした左目だった。


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