試合開始

「あーらら。これはこれは……」



 鍵が開く音に気付いて玄関に向かったエリクは、そこにいた客人に目を丸くした。



「なんで、今日に限っているんだよ……」



 まさかエリクが家にいると思っていなかったルカは、渋い顔をせざるを得ない。

 その表情には〝事情説明がめんどくさくなるじゃねぇか〟と、思い切り書いてあった。



「そこを責められても…。まあ、とりあえず中に入りなよ。」



 エリクは自ら、部屋の中を示してくれた。



「いいの?」



 キリハが訊ねると、エリクは苦笑して肩をすくめる。



「そんなにびしょ濡れのキリハ君とその子を見ちゃ、追い返せるわけないでしょ。風邪を引く前に早く。」



 エリクなら断らないとは思っていたが、ちゃんと本人に迎え入れてもらえると、それだけでものすごくほっとする。



「ありがとう!」



 何はともあれ助かった。

 キリハは表情を輝かせて、廊下に足を下ろした。



「ところで、その子どうしたの?」



 廊下を進みながら、エリクが問うてくる。



「なんか最近、この子にずっと追いかけられてたんだ。」

「そうなの?」



「うん。傘も差さないでついてくるもんだから、何度か話を聞こうとしたんだけど、いっつも逃げられちゃって……」

「それでようやく捕まえたけど……って感じか。あ、ベッドそこだから、寝かせてあげて。」



「濡れちゃうよ?」

「いいの、いいの。」



 エリクは二つ返事でそう言ってくれた。

 ここは素直に、彼の厚意に甘えてしまおう。



 キリハは頷き、ベッドの上に少年を寝かせてやる。



「えーっと、着替えは……この子が着られるやつ、あるかなぁ?」

「あ、着替えなら持ってるよ。」



 キリハは持ってきたかばんを掲げる。

 捕まえたらとにかく着替えさせようと思って、最近は外に出る時にいつも持ち歩いていたのだ。



「さすが、用意がいいね。僕の服じゃサイズが大きすぎるから、助かったよ。自分の分はある?」

「それが…。まさか、自分までこんなに濡れることになるとは思わず……」



「じゃあキリハ君には、僕の服を貸してあげるね。」

「ありがとう。」



 エリクに頭を下げ、キリハは少年が着ていたパーカーのチャックを下ろした。



 雨や泥でくすんだ色になってしまっているパーカーは、水を吸ってずっしりと重く、中に着ているシャツも、水が滴るほどに濡れている。



 本当に、よく今まで風邪を引かなかったものだ。

 一通り服を脱がせ、濡れた体を拭くために、かばんから乾いたタオルを取り出す。





 ―――そこで、バッチリと目が合った。





「あ…」



 まんまるになった双眸がこちらを見上げていて、キリハは数瞬固まる。

 目を覚ました少年もびっくりしているのか、しばらく身動きをしなかった。



「えっと……大丈夫?」



 おそるおそる訊ねるも、少年は答えない。



 ―――ああ。なんだか、とてつもなく嫌な予感がする。



「待って。落ち着いて。ただ着替えさせたいだけだか、ら!?」



 言葉の途中で、少年がキリハに強烈な頭突きをかます。

 戦闘開始のゴングが鳴った瞬間だった。



「ルカ!! 玄関を守って!!」



 状況を悟るや否や、エリクが普段の穏やかさからは想像もつかない口調で、鋭くルカに指示を飛ばした。



 それにルカは、不満そうな顔をする。



「はあ!? なんでオレがそんなこと―――」

「つべこべ言わない! 早く行く!!」

「………っ」



 なんだかんだで兄には逆らえないのか、言葉に窮したルカは、エリクの指示に従って玄関へと向かった。



「キリハ君、大丈夫?」

「らいじょうぶれふ……」



 痛む鼻を押さえながらも、キリハはなんとか立ち上がる。



「大丈夫なら、さっそくだけど……」



 エリクは少年から目を逸らさないまま、じりじりとベランダの方へと移動する。



「どうも、ここがどこか分からなくてパニックになってるみたいだね。」



 きょろきょろとせわしなく周囲を見回す少年は、確かにエリクの言うとおり混乱しているようだ。



「さすがに、このまま出ていかれると色んな意味で問題だから、まずはどうにかこうにか落ち着いてもらいましょうか。とりあえず僕とルカで出口を塞いでおくから、悪いけどキリハ君は、あの子をなだめるか捕まえるかしてもらっていいかな?」



「うん、分かった。」



「でも、気をつけてね。パニックになった子供って、本当に危ないから。」



 経験があるのか、エリクの笑みにはすでに何かを悟ったような色が見える。

 それはこれから始まる、短くも長い戦いのすさまじさを、あまりにも的確に示唆していた。


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