温かな胸の中で

 ふらふらと、覚束おぼつかない足取りでなんとか歩く。

 周りに広がる景色も、鼓膜を叩く物音も、まるで夢のように現実感がなかった。



 伝えたいことを伝えておいでって。



 カレンはそう言ったけど……



 怖い。

 キリハの答えを聞くのが怖い。



『本当に、このままでいいの?』



 恐怖にすくみそうになる自分の背中を押すように、カレンの言葉が脳裏に木霊こだまする。



 キリハが、他の人のものになるかもしれない。

 もう二度と、会えなくなるかもしれない。



 彼がもう、自分のことを見てくれなくなるかもしれない。



(―――嫌…)



 だんだん歩調が早まっていく。



 今は同じ空間にいられれば、それだけでいいと思っていた。



 キリハの姿を見られるだけで満足だった。

 それで時々笑いかけてもらえれば、それで十分幸せだって、そう思っていた。



(嫌……嫌……)



 どこからか込み上げてくる気持ちを止められない。



 会えないなんて嫌だ。

 あの笑顔を見られなくなるなんて嫌だ。



 自分には、キリハのことを笑わせるなんてできないけど。

 それでも、彼の近くにいたい。



(キリハ…っ)



 必死に走る。



 キリハなら、朝の会議が終わった後はいつも、レティシアたちの元へ向かうはず。

 宮殿の中へと飛び込み、地下高速道路へ向かう階段を駆け下りる。



 その姿は、すぐに見つかった。



 自分と同じ考えを持った人たちに、待ち伏せでもされていたのだろう。

 多くの人に囲まれて、キリハは困ったように笑いながら彼らと話をしていた。



「………っ」



 キリハの姿が、涙で滲む。



 ああ、こんなにも……

 彼の姿を見るだけで、こんなにも胸が熱くて、幸せになれるのに……



 伝えるのは怖い。

 怖いけど。





 今さら、この人と離れるなんて―――





「キリハ!!」



 ただがむしゃらに手を伸ばす。



「あれ、この声―――わっ!?」



 ちょうどよく振り向いたキリハの胸に、サーシャは真正面から勢いよく飛び込んだ。



「あっ……えっと……」



 キリハの周囲を囲んでいた人々が、気まずげに視線を右往左往とさせる。

 サーシャはそんな外野に一切構わず、キリハに抱きつく腕に力をこめた。



 優しくて安心する、キリハの胸の中。



 本当に幸せだと思う。

 そして痛感する。



 不釣り合いかもしれないけど、わがままかもしれないけど、キリハには自分の傍にいてほしい。



 それが、偽らざる自分の気持ちだと。



「じゃ、じゃあ……おれらは、これで……」

「あ、うん。みんな、ありがとね。」



 周りから人が去っていく気配。

 それを感じながらも、目の前にある温もりにしがみつくことに必死なサーシャには、周りの機微を気にする余裕などなかった。



「……サーシャ?」



 皆を見送ったキリハが、気遣わしげに頭に触れてくる。



 こんな時でも、彼は優しい。

 自分のことで精一杯なはずなのに、それでもこんな風に優しくしてくれる。



「ごめん、なさい……」



 サーシャの口からまず零れたのは、いつもの言葉だった。



「キリハも大変だって知ってるの。こんな時にこんなことを言ったら、キリハに迷惑だって分かってるの。でも……でもね………私、キリハに行ってほしくないよぉ…っ」



「サーシャ……」



「ごめんなさい。困ってるよね。でも、聞いてくれるだけでいいの。聞いてくれるだけでいいから……」



 行ってほしくないと。

 そう告げた瞬間に体を震わせたキリハの答えを聞きたくなくて、サーシャは矢継ぎ早に言葉を紡いだ。



「一緒にいたいの。あなたの傍でなら、私は私を変えられると思った。いつも逃げてばかりの自分を、ちょっとでも強くできると思った。不謹慎かもしれないけど、あなたが笑ってくれるだけで、こんな毎日でも楽しく思えたの。私がここにいられるのは、あなたのおかげなの。」



 もう、自分が何を言っているのかが分からない。

 でも、胸の奥から込み上げてくる気持ちを止められない。



 ただただ必死に、サーシャは口を動かし続けた。



「勝手に、ずっと一緒にいられるんだって思ってた。だから怖いの。キリハがいなくなることが怖い。もう会えなくなることが怖い。私、どうすればいいのかなぁ…? こんなの、キリハに迷惑だって分かってるの。でも、どうしたらいいか分からなくて…。私、何をどう頑張れば、あなたの隣にいられるのかな? 離れたくない。キリハの傍にいたい…っ」



 離れたくない。



 この温かい胸から。

 この優しい腕から。



「サーシャ……」

「ふえぇ…っ」



 もう我慢できない。

 キリハの胸にすがりついて、サーシャは嗚咽おえつをあげ始める。



「大丈夫。大丈夫だよ。」



 キリハはくすりと笑って、何度も何度も背中を優しく叩いてくれた。

 こちらを安心させるためなのか、腰に回されたもう片方の手にぐっと力がこもる。



 キリハのことだから、この行為はぐずった子供をなだめるようなものなのだろう。

 それでも構わない。



 こうやって愛しい人に抱き締められている幸せに、今は身も心も委ねていたい。

 この優しい腕の中に受け入れてもらえた嬉しさを噛み締めながら、涙が枯れるまで泣かせてほしい。



 そしたら、次はちゃんとキリハを応援する。

 たとえキリハがルルアに行くという結論を下しても、ちゃんと背中を押してあげられるようにするから。



「大丈夫。」



 キリハの穏やかな声が、鼓膜を通して脳内に広がっていく。

 決してこちらを否定しないキリハの優しさに甘えて、サーシャは心が訴えるままに泣き続けた。



「………っ。ご、ごめん…なさい…っ」



 どれほどの時間が流れたかは分からない。

 未だに止まらない涙を拭いながら、サーシャは真っ赤になった鼻をすする。



「大丈夫だって。俺こそごめんね。こんなにサーシャのことを追い詰めてたなんて、知らなかったよ。一緒に戦おうって言ったのは、俺の方なのにね。」



「ち、違うの! それは私が、キリハに甘えてただけで…っ。私の方こそ、いつもキリハに迷惑かけてばっかで、キリハの重荷にしかならないのに―――」



「サーシャ。」



 ふいに言葉を遮られる。



 見上げた先にある、キリハの綺麗な微笑み。

 それが自分から、言葉という言葉を奪っていった。



「違うよ。」



 サーシャの目尻から涙をすくい、キリハは告げる。



「俺はサーシャのことを、迷惑だとも重荷だとも思ったことないよ。今のこともね、俺はとっても嬉しかったよ? 他の人にもいっぱい、行くなって言われた。俺は色んな人に、これだけ必要としてもらえてたんだね。本当に俺には、知らないことばっかりだよ。」



 照れたように、頬をほのかに赤らめるキリハ。



「俺もね、サーシャと離れるのは寂しいよ。サーシャにルカにカレンに、ディア兄ちゃんやミゲルやジョーに、色んな人たちと一緒にいるのが楽しいよ。離れるのは嫌だなって思う。だから、ちゃんと考えるよ。みんなのことも、ノアのことも、自分のことも。ちゃんと考えて、俺が決めたことだからって、胸を張れるような答えを出すよ。」



 ああもう、本当に……

 なんて綺麗な姿なのだろう。



 サーシャは思わず見惚みとれてしまう。



「ありがとう、サーシャ。」



 こんな時でも、キリハはこうして笑ってくれるのだ。



 行かないでほしいとわがままを言った自分に、どこまでも向き合ってくれる。

 こんなに近くから、真摯しんしな心を注いでくれる。



 もう少しだけ、近くに行きたい。

 もう少しだけ―――



「サーシャ?」

「………へ?」



 ふと声をかけられて我に返る。

 キリハは不思議そうに、目を丸くしていた。



 そして彼の首には、自分の手が回されようとしていて―――



「~~~~~~~~~っ!?」



 瞬間、自分が彼に何をしようとしていたのかを悟った。



「え、サーシャ? 急にどうしたの?」



 突然顔を真っ赤にしてうつむいたサーシャの頬に、キリハが戸惑った様子で手を添える。

 そこで今の体勢が、色々と誤解を生みかねないことに気付き……



「―――――――」



 完全に、頭の中がショートした。



「………ごっ……」

「え…?」

「ごめんなさああぁぁい!!」



 これ以上はキリハの顔を直視できなくて、サーシャはその場から、脱兎のごとく逃げ出したのだった。


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