お前の目は―――

 遠く。

 遠く遠く、海の向こうよりも遥か遠く。



 そこには、一体何があるのだろう。



 穏やかに寄せては返す波の音を聞きながら、ぼんやりとそんなことを思っていた。



「こんなところにいたのか!」



 ふと、後方の茂みが揺れる音がする。

 それで背後を振り返ったキリハは、そこにいた予想だにしない人物の姿に心底びっくりしてしまった。



「ノア!? なんで、こんなところにいるの!?」



「なんでって、お前に用があったからに決まっているだろう。部屋で休んでいるはずだとジョーから聞いたのに、ノックしても返事がなかったから捜したぞ?」



「ええ…。来るって分かってたら、ちゃんと部屋にいたのに。」

「ははは。まあ、それは私にも非があるから仕方あるまい。」



 鷹揚おうようにノアは笑い、キリハの隣に腰を下ろした。

 高級そうな服に砂がまとわりつくが、当のノアはそんなこと気にもかけていないようだ。



 誰とでも同じ視線で接したがるノアらしいといえばノアらしい。

 キリハは淡く微笑み、また水平線へと視線を戻した。



「ルーノがかなり世話になっているようだ。礼を言うぞ。」

「え?」



 唐突にそんなことを言われ、キリハはきょとんと目をまたたく。



「さっきジョーに、昼間の映像データを見せてもらったのだ。ルーノは、ロイリアが相当気に入ったらしいな。あんなに活き活きとしたルーノを見るのは、初めてかもしれん。」



 なるほど、そういうことか。

 納得したキリハは、表情をなごませる。



「レティシアが言ってたけど、ロイリアもルーノにすごく懐いてるみたいだよ。ノアがお礼を言ってたってことは、ロイリアとレティシアに伝えとくね。」



 自分はルーノのことについて、特にレティシアたちに何かを頼んだというわけではない。

 ルーノが楽しく過ごせているのは、レティシアたちがルーノを思いやった結果なのだろう。



 それなら、ノアからの礼を受け取るのは自分じゃないはずだ。



 そう思って告げた言葉だったのだが、ノアはそれを聞くと、何故か不満そうに唇を尖らせてしまった。



「別に、私はそういう意味だけで礼を言ったわけではないのだがな。」

「あれ…? なんで怒ってるの…?」



 じろりと横目に睨まれてしまい、キリハは困惑して頬を掻くしかなかった。



「あのな…。お前は、自分がやったことの意味をちゃんと理解するべきだぞ?」



 彼女にしては珍しく、嘆かわしげな溜め息をつくノア。



「確かにルーノが楽しそうなのは、レティシアたちの配慮があってこそだろう。だけどそれ以前に、このセレニアという国でレティシアたちを守り抜いたお前の功績は、相当評価できるものだ。お前がレティシアたちを守れなかったら、ルーノはそもそも、レティシアたちと出会うこともなかった。私はそれを踏まえた上で、お前に礼を言ったのだ。」



 一体いつ、そんなことを知ったのだろう。

 驚くのと同時に、胸の中には苦い気持ちが広がっていく。



「ありがとう。でもね……俺は、ちゃんとした意味ではレティシアたちを守れてないよ。今はまだ譲歩してもらってる状態だし、レティシアたちを完全に自由にしてあげられたわけじゃないから。」



「それでも、彼女たちを殺させずに、譲歩に持ち込むことはできたのだろう?」



 ノアは間を置かずにそう告げた。



「あまり高望みすると、身を滅ぼすぞ。ドラゴンを異様に敵視するセレニアにおいて、人間の領域に踏み込んだドラゴンを殺さずに保護したというだけで、十分に異例中の異例なのだ。分かるか? お前が他をねじ伏せてターニャに踏み出させた一歩は、歴史に残るほどに大きな変革の一歩なのだぞ。」



 変革の一歩。

 そう言われてしまうと、否応なしに自分がやったことの重大さが身に染みる。



 確かにレティシアたちが保護されると決まった後、しばらくはターニャやディアラントたちが事後処理に忙殺されていた。



 会見で説明するために構想は立てていたとはいえ、ゼロから管理体制や緊急時の対処を組み立てるのだ。



 皆が納得してマニュアルを運用できるまでに、相当な議論を重ねたことだろう。



 後で確認として話を聞いただけの自分には、その大変さを想像することしかできないけれど……



 そう思うと、胸が少しばかり苦しくなる。



「………」



 キリハは感情をやり過ごすように目を閉じて、遥か前方へと目をやった。



 レティシアたちを保護したことに関する責任は、ターニャとドラゴン殲滅部隊が担うと告げられた。



 ドラゴンを国の中枢で保護したのは、結果的にはターニャの政治的決断になるし、今後のドラゴン討伐にレティシアたちが協力するならば、その管理にはドラゴン殲滅部隊が責任を負わなければならない。



 竜騎士とはいえ、民間人にその重責を負わせることはできない、と。

 ターニャには、そう説明された。



 結局自分は、彼女たちにわがままを押しつけただけになってしまっているのだ。



 この数ヵ月でレティシアたちが国にもたらした恩恵は大きいと、世間はそう認めざるを得ない状況に落ち着いている。



 ターニャやディアラントからも、自分に責任がないことを気にする必要はないとも言われた。

 ノアも、高望みは身を滅ぼすと言ったばかり。



 今はこれが、セレニアの人々にとっての最良。

 そう納得して、飲み込まなければならない。



 そして、考えなければ。



 今のこの立場で。

 今持っている自分の力で。



 一体何ができるのだろう、と。



「キリハ。」



 黙り込んでしまったキリハに、ノアが静かに声をかける。



「もう一度訊かせてくれ。私と一緒に、ルルアに来ないか?」



 一度は軽口のように告げられた、数日前と同じ問い。

 それが今は、波の音のように引いては、大きな余韻を残す勢いで脳内に響き渡っていく。



「………」



 すぐには答えられなかった。



 行くとも、行かないとも。



「では、質問を変えよう。」



 ノアは答えを強要せず、すぐに話の方向を変えた。





「今、お前の目はどこを見ているのだ?」




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