自分が思ったままにしか―――

「ここから先の情報料は高いよ? キリハ君も、こっちの世界に来る? なかなか、えげつない世界だけど。」



 ねっとりと絡みつくように。

 やたらとゆったりとした口調で、ジョーはそう問いかけてきた。



「………っ」



 ぞっと背中を這い上がっていく怖気おぞけと、本能が鳴らしてくる警鐘。

 キリハは息をつまらせ、必死に首を横に振っていた。



 なんだかよく分からないけど、これ以上は踏み込んではいけない領域だ。



 ジョーの言葉が何を示しているのかは理解できなかったが、そんな漠然とした危機感だけが全身を満たしていた。



「ん、正直でよろしい。」



 ジョーはあやしさを引っ込めて、にっこりと笑った。



「でも、今の気持ちは忘れないで。」

「へ?」



 気が抜けかけた状態のまま顔を上げると、いつの間にかジョーの顔が間近にあった。

 それに驚いて思わず身を引いたが、ジョーから逃げようとした体は椅子の背もたれにぶつかって、それ以上の動きを許してはくれなかった。



「君は人を信じすぎる子だから、僕から一つ忠告。今、少しでも僕を疑った気持ちを忘れないで。僕は自分の気まぐれで、好きなように動く人間なの。気が変われば、明日にはここにいないかもしれない。だから、僕をあまり信用しすぎないこと。」



「で、でも……ディア兄ちゃんは―――」



「ディアは僕の本性を知ってるよ。っていうか、ほとんど最初から見抜かれちゃってた。ディアは僕との付き合い方をわきまえてるからいいの。」



 ゆっくり。

 一言一句。



 ジョーは、幼子を諭すような口調で語りかけてくる。



「よく見てみるといいよ。ディアとミゲルの間には一切の遠慮がないけど、ディアと僕との間には一定の距離がある。それが僕らに一番合った関係なの。ディアって単純バカのくせに、結構抜け目ないんだよ?」



 そこまで言って、ジョーは戸惑った様子のキリハの頭をぽんぽんと叩いた。



「じゃ、今日の話はここまでにしよっか。ゆっくり休んでね。」



 ジョーはくるりときびすを返し、ドアへと向かう。



「で、でもさ!」



 その背に向かって声をかけていたのは、ほとんど無意識での行為だった。



「えっと……」



 声をあげてから、自分が何を言おうとしたのかを考える始末。

 それでも、とにかくジョーに何かを言いたくて、キリハはどうにかこうにか言葉を探した。



「俺の目には、ディア兄ちゃんがジョーに、わざと距離を作ってるようには見えなかった、かな…? 一定の距離感があるのが一番自然ってのは、確かにそうなのかもしれないけど、その……ディア兄ちゃんは、ジョーのことをちゃんと信頼してると思うし……ジョーだって、進んでディア兄ちゃんやミゲルを裏切ることはしないよ。」



 その場で立ち止まったジョーは、こちらを振り返らない。

 でも、立ち止まってくれたということは、彼が自分の言葉に耳を傾けてくれている証拠。



 だから、必死に言葉を紡ぎ続けた。



「だって、俺見てたもん。ジョーがドラゴン討伐のために、一生懸命情報部の人たちと話してるとこ。」



 ドラゴン討伐が始まってからというもの、自分が見てきたジョーは、常に何かしらの資料と睨み合っていた。

 ドラゴン討伐の後は休むことなく、情報部の人々と共に得られたデータの解析と、今後についての議論を進めていた。



 それに、自分が怪我で眠っていた時、意気消沈していた皆の仕事のカバーを、ほぼ一人でやり通していたのが彼だったと聞いた。



「ジョーが頑張ってやってくれてることって、気まぐれだけでできることなの? 俺だったら無理。そこまでやってて、飽きたからって途中で放り出せない……と、思う。」



 自分でも、何を言っているのかが分からなくなってきた。



 要するに、自分がジョーに伝えたいことは……



「だから、多分、俺……今はジョーをちょっぴり怖いって思っちゃったけど、すぐに忘れてジョーのことを信じちゃうと思うんだよね。ちゃんとした理由は上手く言えないけど、ジョーはみんなを裏切らないと思うんだ。だから、今日のこともちゃんと黙っとく。黙っとくから……急によそよそしくなったりとか、そんなことしないでよ?」



 自分は馬鹿だから、ここで受けた忠告などすぐに忘れてしまうだろう。

 慣れと共に、ターニャが神官であることすらも意識から抜け落ちてしまうくらいだ。

 その自信は大いにある。



 どんなに頭で考えたとしても、他人と真正面から向き合うことしか知らない自分は、自分が思ったままにしか相手を信じられないし、自分が思ったままにしか相手を疑ったりすることもできない。



 だからジョーがこんなことを言ってきたとしても、自分はきっとジョーを信じてしまう。

 今まで自分が見てきたジョーは、信じるに値する人間だったから。



 今怖いのは、ジョーが身を置いている底はかとない裏の世界よりも、このことがきっかけでジョーとの関係が歪んでしまうことだった。



「……もう。ディアの言うとおり、純粋な子って怖いなぁ。そんな寂しそうな顔しないでよ。」



 どこか呆れたような吐息が耳朶じだを打つ。

 こちらを振り返ったジョーは、進めた歩を戻して自分の前に立った。



「好きと実益は、必ずしも一致しないんだよ。分かる?」



 その表情に苦笑ぎみの色をたたえ、ジョーはキリハの頬をつんつんとつつく。



「いや、分かんない。でもそう言うってことは、ジョーはみんなのことが好きなんでしょ?」



 ふるふると首を振り、キリハはきっぱりと断言。



 強気な様子で目に力を込めて見上げてきたキリハに、ジョーは虚を突かれたように固まって――― 次の瞬間、大きく噴き出した。



「あははっ。キリハ君って、なんていうのかな……本当にディアと血が繋がってるんじゃないの? そのくらい、ディアにそっくり。まあ、ディアの方が生粋きっすいの馬鹿って感じがするけどさ。ほんと、見てて飽きないな。ディアも君も。」



 ジョーは笑いながら、キリハの髪を優しくなでる。



「キリハ君のそのまっすぐなところは好きだけど、だからこそ忠告してるんだよ? 油断してると、君もこっちの世界に引き込まれちゃうからね。気をつけて。」



 そう告げたジョーは、今度こそドアに向かってすたすたと歩いていった。



「おやすみ、キリハ君。」

「あ……お、おやすみなさい。」



 答えると、パタンとドアが閉まる。

 流されるままにジョーを見送ってから、そういえばこちらの質問にもお願いにも、返事をもらえていないことに気付いた。



「なんか今日は、すごく意外なものばっか見てるな……」



 感情を大きく乱したターニャ。

 怖くなるような裏の顔を見せたジョー。

 そのどちらも、自分がすぐに適応できる範疇はんちゅうにはなかった。



 でも、不思議と悪い気はしない。



 二人が普段見せない顔を見せてくれたのは、彼女たちが少なからず、自分に気を許してくれている証拠だと思う。

 そしてそんな二人に、自分の気持ちは正直に伝えられた。



「結局俺って、頭で考えてしゃべれないんだな。人って難しいや……」



 ターニャにもジョーにも、自分が伝えられたのは頭で考えた言葉ではなく、心から感じたことだけだった。



 これまで直感で動くことに違和感を持ったことはなかったし、自分を偽って得をしたこともなかった。

 だがそれは、レイミヤという、ある意味とても恵まれた場所で暮らせていたからこそ通用したことなのだと。

 レイミヤからフィロアに出てきて、つくづくそれを実感する。



 ディアラントの帰国をきっかけに見えてきた、宮殿の中に渦巻くどす黒い闇。



 それは自分が想像していたよりもずっと深くて、宮殿にいる皆の肩に重たくのしかかっている。

 ここにいる時間が長くなればなるほど、自分もそれに飲み込まれていくのかもしれない。



『すでにお前は奴らのターゲットになってるってことだ。』



 脳裏によぎるのは、あの夜のミゲルの言葉。

 それとこれまでの経験を思い返すと、やっぱり怖くなってしまうけど。



「どうすればいいのか分かんないけど、とりあえず俺は、大会で勝っていくしかないよね……」



 考えてもらちが明かないので、ひとまずは目の前のことからこなしていこう。

 そんなことを呟くキリハは気付いていない。



 ドアの外からこっそりとキリハの様子をうかがっていたジョーが、その顔に参ったとでも言いたげな苦笑いを浮かべて、静かにその場を離れていったことに。


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