もう一度、約束を。



 ――― あと一歩だ。





 ぼんやりと、そう思う。



 辺り一面には相変わらず、平衡感覚が狂うような闇が広がっている。

 それでも、なんとなく分かるのだ。



 今の自分は崖っぷちに立っていて、この下にはさらなる闇が口を開けて待っている。

 もう引き消すことはできない、無の世界が。



 ―――――――――………ハ



「?」



 なんだろう。

 ふと思う。



 この空間で、初めて何かの音を聞いた気がする。



 ――――――……リ………ハ



 いや、違う。

 これは音じゃなくて、誰かの声だ。



 気付いた瞬間に、胸が締めつけられるように痛んだ。



 誰だろう。

 きっと、自分はこの声を知っているはずなのに。



 もどかしさと不快感が全身の末端から集まって、喉元にせり上がってくる気分だった。





 ――――――――― キリハ!!





 今度ははっきりと、子供のように可愛らしい声が脳裏に響いた。



「キ…リ、ハ…?」



 無意識になぞる、その言葉。



 知っている。

 これは……



「俺の……名前……」



 そして、この声のあるじは―――



「!!」



 自分の中で、何かが盛大に弾けた。

 意識にかかっていたもやが、綺麗に晴れる。



「何やってんの、俺……」



 何が正しいのか。

 何を求めているのか。

 どうして帰らなければいけないのか。



 そんなこと、今はどうでもいいではないか。

 理屈や意味づけなど、帰ってからいくらでも考えればいい。



 とにかく、今は―――



「行かなきゃ!!」



 感覚だけで振り返って、闇を蹴った。

 しかし。



「あ…」



 引き返そうとした体が、見えない何かにぶつかった。

 思ってもみなかった衝撃に、体がよろける。



 足を引いた先に、確かな感触はなかった。



「!?」



 がくんと膝が砕けて、バランスが一気に崩れる。

 一瞬の浮遊感は、すぐさま落下感に変わる。





 ――― もう、帰れない。





 否応なしに理解した、その時だ。



「あっつ!!」



 背後から上がってきた風のように柔らかい何かに、体を力強く持ち上げられた。

 体が空中に放り投げられるような感覚がして、今度は固い闇の上に落ちる。



「いったー…」



 痛む体に顔をしかめつつも、頭を上げる。

 すると、目の前が真っ赤に染まっていた。



「―――っ!!」



 思わず息を飲んだ。



 自分の周りを、赤く揺らめく炎が取り囲んでいたのだ。





 ――― 覚悟は、あるか?





 問いかけてくるのは、あの時と同じ声。



 ――― 背負う覚悟が。守る覚悟が。全てを受け入れて裁きを下す覚悟が、お前にあるか?



 ああ、そうだ……

 約束したじゃないか。



 全て背負ってやると。



 戦う覚悟は決めていたし、色んな責任がのしかかってくることも承知していた。

 全部分かっていた上で、それでも手を伸ばしたのだ。



 誰かに強要されたわけじゃない。

 紛れもない、自分の意志で。



(そっか……それでいいんだ。)



 なんのためとか、誰のためとか、そんなところに答えを求めても意味はなくて。



 自分が自分の意志でそう決めたから、剣を取った。

 きっと、理由なんてそんな単純なものでいいのだ。



 自分を抑え込める必要はない。

 エリクがああ言った意味が、ようやく分かった気がした。



「ははっ、ばっかみたい……」



 なんだか笑えてきた。



 自分で決めたことなのだから、仕方ないじゃないか。

 それで何かが悪い方向へ変わっていってしまうのなら、新たな変化で塗り潰してしまえばいい。

 ただそれだけなのだ。



 やっと、胸と頭のつかえが取れた気がする。





 ――― 行こう。





 いつまでも、ここで座っているわけにはいかない。

 そう思って立ち上がると、周囲の炎が己の存在を主張するように高く燃え上がった。

 それに、苦笑が込み上げてくる。



 これはどうやら、この炎のお望みを叶えてやるしかなさそうだ。

 やるべきことは分かっていたので、赤々と燃える炎の中に手を突っ込んだ。



「背負うよ。」



 炎に向かって言ってやる。



「自分でそう決めたんだもんね。逃げてちゃ意味ないよね。周りが変わっていくのはやっぱり怖いけど……それでも俺は、俺が守りたいものを守るだけ。今度はちゃんと向き合うよ。」



 そこで一度、言葉を区切る。

 深呼吸をして、覚悟と共に再度口を開く。





「だから、俺に力を貸してね――― 竜血剣りゅうけつけん焔乱舞ほむららんぶ》。」





 紡ぎ出す一言一句に、決意を込める。



 すると、炎がさらに大きく燃えて揺らめいた。

 炎の中でゆっくりと手を握ると、その手は固いものを掴む感触を返してくる。



 それに安堵して目を閉じると、意識がぐっと遠のいていった。



 恐怖はない。

 進む先にあるのは、無ではないから。





 次に目を開いた先にあるのは、きっと―――




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