すれ違う思い

 シングルモード、時間指定コース。

 時間百五十分。



 長い時を刻んでいたモニターが、もうすぐ役目を終える。



 残り時間が十秒を切り、やがてゼロ秒へ。

 低いブザー音と共に実践場の証明が一度落ち、すぐに蛍光灯の明かりが点灯する。



「また無茶苦茶してる……」



 自動ドアの向こうから姿を現したルカのことを、カレンは苦笑を浮かべて出迎えた。



「まだ起きてたのか。」



 深夜三時を回ろうとしている時計を一瞥いちべつし、ルカは椅子にかけてあったタオルを取って、流れてくる汗を拭く。

 カレンは、そんなルカをじっと見つめていた。



「ねえ、ルカ……」



 手を伸ばし、そっとルカに寄り添う。

 触れた背中は汗で濡れていたが、それも相手がルカだというだけで不快には感じなかった。



「なんでまた、こんなことしてるのよ。最近、しなくなってたじゃん。」

「………」



 ルカは答えない。



「お決まりのだんまりだ。……まあ、言われなくても分かってるけどさ。」



 ずっとルカのことを見続けてきたのだ。

 彼の思考など、自分のもののように分かる。



「キリハがこうなったの、自分のせいだと思ってるんでしょ?」



 訊いてみるも、ルカは頑なに口を閉ざしている。

 だが、一度だけ微かにその背が震えたのが手を通して伝わってくる。

 それが、答えを明確に語っていた。



「あたしも、目の前で見てたから分かるよ。分かるけどさ……あんなの、誰のせいでもないじゃん。たまたまあそこにルカがいただけで、たまたまドラゴンがしぶとかっただけでしょ。なんで、ルカが自分のことを責める必要があるの?」



 カレンはルカの服をぎゅっと握る。



「ねえ……もう、帰ろうか?」

「……は?」



 ここでようやく、ルカが反応らしい反応を見せた。



「もういいじゃん。どうせあたしたちはほむらが使えないんだし、望んでここにいるわけでもないんだもん。帰ったって、誰も呼び戻しにこないよ。」



「お、おい……」



 ひどく狼狽ろうばいしたルカの声。

 しかし、カレンは口を止めない。



「だって、怖いんだもん。キリハがこんなことになっちゃって、次は自分かもしれない――― ルカかもしれないって思うと…。もう、ここにいたくないの…っ」



「カレン……」



「帰ろうよ! ルカがキリハの代わりなんてする必要ないでしょ!? あたしと一緒に、中央区に帰ろうよ!!」



「おい、落ち着けって……」

「嫌よ!」



「カレン!」

「嫌ったら嫌! 帰るって言うまで離さない!!」



「―――っ! いい加減にしろ!!」



 操作室の中に響く、乾いた音。



「お前は、オレに尻尾巻いて逃げろって言うのかよ!?」



 振り払われた手を見下ろすカレンに向かって、ルカは激情で震える声を叩きつける。



「今ここで逃げたら、それこそ世間の笑い者だ。あいつらを見返すどころか、一生後ろ指を差されて生きていくことになるんだぞ!? それでいいのかよ!?」



「いいわよ、別に!!」



 キッと顔を上げ、カレンは強い口調で言い返す。



 こちらの反論に、ルカが動揺して言葉に窮した。

 そんなルカを見ていると、なんだか自分のことがみじめに思えてきて、目頭に熱いものが込み上げてくる。



「もうこれ以上……あたしを馬鹿な女にしないでよ……」



「は? 何言って……」

「はっきり言うけどね!!」



 だめだ。

 止められない。



 あふれてくる涙も。

 ずっとこらえていたこの気持ちも……



「あたしは、キリハのことなんてどうでもいいの! これ以上、あんたのそのつらそうな顔を見ていたくないのよ!! ルカがそんな顔しないで済むなら、別に笑われたって、ののしられたって構わない!!」



 心の底から叫ぶと、ルカは大きく目を見開いて言葉を失ってしまった。



「せっかくこっちが、自分のわがままってことにしようと思ってたのに……台無しじゃん。こんなことまで言わせないでよ。」



 こんなことを言いに来たわけではないのに……



 拭っても拭っても、涙は止まらない。

 それはまるで、自分の心を表しているかのようだった。



 ルカもサーシャも弱っているから必死に我慢してきたけど、本当は自分だって限界寸前なのだ。



 キリハを襲ったドラゴンの爪の威力も、地面が血で染まっていく真っ赤な光景も忘れられない。

 このままキリハが死んでしまったらと思うと、恐怖で膝が笑いそうになる。



 次にこうなるのは、ルカかもしれない。

 それが怖くて仕方ないのだ。



 もうルカのつらそうな顔を見たくない。

 ルカに自分の身を削るようなこともしてほしくない。

 そして何より、ルカを失いたくない。



 その気持ちだけが、自分を突き動かす原動力。



「いい加減察してよ……あたしがなんのために、竜騎士隊に立候補してまであんたについてきたのか。」



 竜騎士隊選定のあの日、真っ先に選ばれたのはルカとサーシャだった。



 自分も一緒に選ばれるなんて、都合のいいことが起こるはずない。

 これから一年は、彼と一緒にいられなくなってしまう。



 そう、心の中で覚悟を決めていた。



 でもフールが迷う素振りを見せた瞬間、その隙をのがすまいと口を開いていた。

 理由なんて、一つしかない。



「もう嫌……ルカの、そんな顔見てるの。ルカ、つらいくせして、あたしに何もさせてくれないんだもん。必死にここまでついてきたのだって、どうせあたしがあんたの傍にいたいだけって、きっとそれだけで……ただの自己満足なんでしょ…? こんなことなら、こんな所に来なきゃよかった。馬鹿にされても、中央区にいた方がよかった。逃げたくもなるよ……もう…っ」



 必死に絞り出す声が涙に遮られ、そして飲み込まれていく。

 静まり返る室内に、カレンのすすり泣く声が小さく木霊こだまする。



「――― オレは……」



 少しの無の時間を経た後、ルカの唇が微かに震える。



「オレは、逃げるわけにはいかない。」



 口腔から吐息のように小さく零れたのは、カレンを拒絶するというよりは、自分自身に向かって放たれた、そんな独白のような、頼りなく揺れる声。



 ルカは両手で顔を覆うカレンに、ゆっくりと手を伸ばす。

 伸ばして、肩に触れかけて、怯えたようにその手が痙攣けいれんする。



 そして結局、カレンに触れることは叶わないまま、手は下がっていく。



「………っ」



 唇を噛み締めるルカ。

 そのままルカは深くうつむいて、無言のままカレンの横を通り過ぎていった。



 自動ドアが静かに開き、そして静かに閉まる。



「………分かってるもん。」



 一人取り残され、機械の駆動音すらなくなった部屋。

 その中で、カレンはぽつりと呟く。



「あんたが逃げないことくらい分かってるよ。でも……でもさ……」



 ルカは逃げない。

 いや、逃げられない。

 そんなことを自分に許せるような性格じゃないのだから。



 でも、時には逃げることも一つの選択なのではないだろうか。

 自分が壊れてしまうくらいなら、逃げたっていいじゃないか。

 そんなの、きっと誰も責められない。



「あんたが壊れちゃったら……あたしは、なんのために生きていけばいいのよ……馬鹿…っ」



 カレンはまた顔を覆う。

 そして息を殺して、たった一人で、小さく泣いた。


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