涙に暮れる病室

 カラリ、と静かに引き戸を開ける。



 真っ白な部屋。

 真っ白なカーテン。



 薬の香りが漂う無機質な部屋の中で、キリハは深い眠りについていた。



 どれくらいぶりに、この顔を見ることができたのだろう。

 ベッドの脇に置かれた椅子に腰かけ、サーシャは眠るキリハの頬にそっと手を添えた。



 キリハはピクリとも動かない。

 それでも頬に触れた手に伝わってくる体温と、生命維持装置が刻む一定リズムの電子音が、キリハがちゃんと生きていることを自分に教えてくれた。



 キリハの面会謝絶が解かれたのが三日前。

 それから今まで、我ながらよく我慢できたと思う。



 昨日までは、この病室には常に誰かがいる状況だった。

 ミゲルたちドラゴン殲滅部隊の面々やララたちなど、宮殿でキリハと関わっていた人々が、休憩時間の度にここを訪れていたから。



 皆、やりきれない表情で己の感情を押し殺していた。

 特別に面会が許されたメイやナスカ、エリクに至っては、突然突きつけられた現実に茫然としていたほどだ。



『竜騎士になんて、選ばれなければ…っ』



 真っ赤な目で涙を零しながら、ナスカはそう言った。

 そんなナスカをたしなめていたメイも、心のどこかではそう思っているに違いない。

 そして、悲しみに暮れる二人を見つめることしかできなかった自分自身も、やはりそう思わずにはいられないのだった。



 キリハが竜騎士に選ばれなければ、自分はこの温かくて愛しい人とは出逢えなかった。

 だから、この理不尽な運命の巡り合わせには感謝している。



 だがそんな気持ちも、今目の前にある現実には到底敵わない。



 竜騎士になんてならなければ、キリハは今頃、レイミヤで笑って過ごしていたことだろう。

 メイやナスカたちといった心温かな人たちに囲まれて、自分のことなど知らずに生きていたはずだ。



 そう思うと少し切なくなるが、こうしてキリハが死の淵に立たされるくらいなら、たとえ彼と出逢えなくても、その方が何倍もよかった。

 キリハは、こんなところで消えてもいい存在ではないはずだから。



「あなたの言葉は、まるで魔法ね……」



 ぽつりと呟く。



 分かっていたはずのことだった。

 こんな戦いを強いられる毎日の中で、本当ならいつ誰がこうなってもおかしくはなかった。

 むしろ、特に重傷者を出していなかった今までの方が奇跡だ。



 危険性は十分に知っていた。

 それなのに、不思議なほど皆笑って現場に向かい、強い心で剣を振ることができていた。



〝帰ったら何をしようか。〟



 当然のように笑って、キリハがそう言っていたからだ。

 これを魔法と呼ばずしてなんと呼ぼう。



「ねえ……キリハ……」



 小さく名を呼んで、サーシャはキリハの手を取った。



「みんな、あなたがいないとだめみたい。……ふふ、おかしいよね。あなたはこの中で一番年下で、本当なら私たちがあなたに頼られて、守ってあげなきゃいけないのに。」



 眉を下げてサーシャは笑う。



 こんな状況になって痛感する。

 自分たちは、明るくて優しいキリハの背に、何もかもを預けすぎていたのだと。



 ドラゴンにとどめを刺す責任と義務も、皆の精神状況を左右するほどの影響力も、キリハは苦にすることなく平然と背負っていた。



 キリハのことだ。

 自分の背にそんなものが乗っかっているなんて、気づいてもいなかったに違いない。



 だからこそ、傍にいる誰かが気づいてあげないといけなかったのだ。



 キリハが無自覚で、相当な無理をしていたことに。

 そして、無理をさせているのが自分たちであることに。



 今思い返せば、明らかじゃないか。

 キリハが目に見えて落ち込み始めた頃から、それに引きずられるようにして、宮殿の空気もびついていたのだから。



「ごめんね、キリハ。でも……」



 キリハの手を両手で包み、サーシャは祈るようにそこへ額をつけた。



「私、弱いよね。これ以上、あなたに寄りかかっちゃいけないって思ってるのに……やっぱり、だめなの。あなたの笑顔が見たい。あなたと話したいよ……」



 ずっとこらえていた涙が双眸からあふれてしまい、サーシャはベッドの上に顔をうずめた。



 我慢していたけれど、やはり無理だった。

 こんなキリハを前にして、平常心を保ってなどいられない。



 寂しい。

 苦しい。



 どんなに語りかけても、少し高めの明るい声が返ってこない。

 どんなに塞ぎ込んで弱気になっても、優しい手で頭をなでてもらえない。

 どんなに笑いかけても、あの花のような笑顔を見ることができない。



 つらくてたまらない。

 だめだと思うほど、キリハを求める自分の心を止められなくなる。



「キリハ……帰ってきてよぉ…っ」



 ずっと言うまいと抑えていた本音が零れてしまう。



 こうなると思っていた。

 だから、キリハと二人きりになれるタイミングが来るまではと、会いに行きたい衝動を必死にこらえたのだ。



 不安なのは皆同じなのに、自分だけがいつまでも泣いていられない。

 少なくとも、他の人の前では泣けないと思っていた。

 今こうやって泣いてしまうのも、本当はよくないと思う。



 でも、どうせ誰も見ていないのなら、今だけはこの胸にすがりついたっていいではないか……



「うっ……ひっく……」



 押し殺しても抑えられない嗚咽おえつが小さく響く。



 今までたくさんの恐怖を味わってきたけど、きっとこの先、これ以上の恐怖を感じることはない。

 それほどまでに、キリハを失うのが怖かった。



 相手に溺れていくのが恋だと、カレンはそう言った。

 本当にそのとおりだ。



 キリハを好きだと自覚して、自分を取り巻く環境がぐるりと百八十度変わった気がした。

 足がすくみそうになるシミュレート訓練も、怖くて震える対人訓練も、そこにキリハがいるだけで、まるでイベントのように感じられた。

 一人で寂しい夜も、朝になればキリハに会えると思うといくらでも乗り越えられた。



『一緒に戦おうよ。』



 いつだって、彼はそう言って手を差し伸べてくれた。

 こんなに弱くて怖がりな自分を、温かな心で包んでくれた。



 自分の心を止めることなどできなかった。

 キリハと過ごす時間が長くなるほどに、どんどんキリハのことを好きになっていく。

 もう、キリハがいない毎日など考えられないのだ。



「キリハ……キリハぁ……」



 肩を震わせ、サーシャは涙を流す。





 それを見ていた人物がいたとは気づかずに―――




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る