リモニウムの日傘

@kaisei910

リモニウムの日傘



君は昼が苦手だった。


太陽を見てしまうと生きられないから。


僕は夜が苦手だった。


月を見てしまうと誰かを傷つけてしまうから。



君は昼が好きだった。


私の笑顔がよく見えたから。


私は夜が好きだった。


君と見る花火が綺麗だったから。





僕と君には秘密があった。僕は狼人間で、君は吸血鬼だと言うこと。


僕は月を見ると自分を忘れてしまうし、君は陽の光を浴びると肌が焼けてしまう。


学校に行けば普通の生活。クラスもそこそこ楽しいし、親だって僕が狼人間ってことを知らない。


この秘密を知ってるのは君だけだし、君が吸血鬼だってことを知ってるのは僕だけ。


夜が苦手な僕と昼が苦手な君は、まるでパズルのピースみたいにくっついた。


昼も夜も要らない我儘な僕らの物語。








放課後の鐘が鳴った。高校2年生で部活もバイトも無い僕は図書館で本を読むことが趣味だった。


ヘミングウェイの『老人と海』を読んだ。お爺さんとシイラとの闘いを永遠と読まされた。

未熟な僕には良さが分からない。歳をとってからまた読もうと思った。



ライオンの夢を見る老人に別れを告げると、僕は学校から徒歩10分程度の海へ向かった。


潮風が鼻を刺す。砂を噛み締める足音はテトラポットのある方へと向かった。


そこには花柄の日傘を刺し、テトラポットの上で野良猫とじゃれる彼女の姿があった。


「今日は本、持ってないんだね」

日傘に隠れた優しい口から、花を積むような繊細な声が聞こえる。



「うん。僕にあの本は早すぎたな......。サンチャゴってお爺さんが何日も掛けてシイラを釣ろうとするんだけど、何が面白いのか分かんなかった」


「すごい酷評だね......。何か良い点はなかったの?」


「うーん......。読むってさ、目で文字を追って頭で想像することじゃん。この作品は読んでたら、なんとなく海の匂いがしたんだ。あと潮の満ち干きの音とか、海鳥が鳴く声、貝殻がぶつかる音とかも」


「なーんだ、楽しんでるじゃん」


彼女はそう言うと僕の方をポンポンと叩いた。


「今日から夏休みなんでしょ?彼女とデートとか行かないの?」


彼女は日傘の下から顔を傾けて上目遣いで尋ねた。



「そうだな......強いて言うなら明日から荻原朔太郎って人の月に吠えるっていう詩集と図書館デートだよ」


「文字の塊と見つめあっててもキスはしてくれないよ」


「うわ、キツいこというね」


「そういう君だって野良猫はキスしてくれないだろ?」


「でも頭を撫でさせてくれるもんね」

そう言うと君は野良猫の額を二本指で摩った。


野良猫は目を細め、気持ちよさそうに喉を鳴らす。



休符、約2秒。



「最近、大丈夫?血は足りてる?」

僕も野良猫の喉を二本指で摩る。


「うん。でも魚の血ばっかりだと少し体調悪いかな。塩っけが強くて喉が乾いちゃう」


吸血鬼の彼女は動物の血を吸わなければならない。ご飯を食べることとは関係なく、吸血鬼の彼女にとって血そのものが重要なのだ。


「そっか。今夜は雲が少ないみたいだから......ごめん。また月が隠れてる日なら、いいよ」、


狼としても人間としてもエネルギーを必要とする僕の血はとても栄養価が高く、彼女にとって重要な栄養源だった。



「じゃあ、また今度お世話になるね。いつもありがとう」


彼女は少し後ろめたそうな声でそういった。


「お互い様だよ。僕が狼になりそうな時は君が抑えてくれるんだから」


「私は日光を浴びても、血を吸わなくても、自分が辛いだけ。でも君がもし狼になって周りの人を傷つけたら、その時の辛さは私と比べ物にならないでしょう」


彼女はそういうと、僕の額を野良猫を撫でた時のように優しく摩った。



「日傘を差してばかりの君の方が辛いと思う。せっかく綺麗な笑顔してるのに、皆に見てもらえないんじゃ......」


「だからこそ、私の笑顔の価値は高いんだよ?少なくとも君の質素な笑顔の5億倍は値が張るね」



「その自信ご湧いてくるようならまだ血は要らないね」



「いや、今のはほんの冗談だよ。ほら、隠喩ってやつ、本読む君なら分かるでしょ?」



「ぼくいんゆわからない」


「あー逃げたな」


「逃げてないもん」


「ふーん」



波の音が会話を遮った。



「あのさ、夏休みだし、2人でどこか遊びに行かない?」


僕は引いては押し寄せる波をボーッと見ながら言った。


「珍しいね。遊びに誘うなんて」


「水族館に行きたい。少し遠いけど、鳥羽水族館ってあるでしょ?カワウソのあかちゃんが産まれたらしいんだ。本物のシイラだってみてみたいし、それに」


「それに移動は電車だし、水族館なら日傘も要らないよ。青の世界には太陽とか月の代わりに魚が居るはずだから」



彼女はいつも以上に丸い瞳で、少し日傘を上げて僕を見つめた。


「君のそういうとこ、好きだな」


「じゃあ、水族館は賛成?」


「もちろん」






数日後、僕と彼女はとある駅に集合した。

駅から1時間半ほどで鳥羽駅へと到着し、徒歩数分で鳥羽水族館に到着する。


彼女は白のワンピース姿で現れた。ベージュの帽子を被り、いつも日傘を差しているせいか肌は真珠のような純白だった。いつもの日傘は変わらなかった。



「おはよう。昨日はゆっくり寝れた?」

彼女はいつものように日傘の下から顔を覗かせた。


「途中に乗り換えがあるから間違えないように何回も確認してたら寝るの遅くなった」


「ご苦労さまです」


「君が1人で電車に乗れれさえすればもっと楽なんだけどな.」


「私吸血鬼だもん」


「僕も狼だけど電車くらい乗れるよ」


「バカにしたな。拗ねて帰るぞ」


「ごめん」


「よろしい」


僕は彼女と一緒に券売機へと向かい、乗車券を購入した。


「ホームは屋根があるから日光は大丈夫。ここから先は日傘を差さなくても問題ないよ」


「うん......」

彼女は震えた声少しずつ日傘を畳み始めた。


僕は傘を畳む震えた彼女の手を少し握る。


「大丈夫。僕だって少し不安だよ。狼人間ってバレたらどうしようって。でも、その不安より君と水族館に行ける楽しみの方が大きいんだ。こんなに大きい気持ちだから、ヘミングウェイの老人でも釣れないよ」


僕はもう片方の手で彼女の日傘の先を持った。


「あの本、面白くないって言ったけど一つだけ好きなセリフがあるんだ」


『人ってやつは負けるように造られてない』


「このセリフだけは、好きなんだ。僕は狼だけど人のように大切な誰かと生きてる。だったら僕も負けるように造られてない。君も一緒だと思うな」



彼女の軋むような手は、次第にいつもの野良猫を撫でる優しい手へと戻っていった。


「ありがとう......もう大丈夫。行こう、水族館」

彼女はいつかと同じ目で僕を見つめた。


いつかと違うのは、日傘に隠れないその瞳は言葉なんかでは表せない程美しかった。


1番ホーム、松阪行急行に乗った僕らは通り過ぎる景色に指を指されていた。



「伊勢中川駅って所で1度乗り換えるんだけど、それまで暇だから少しお話しよう」


「どんなお話?」


「そーだな......。僕が本を読むキッカケになった童話の話」


「どんな物語だったの?」



「その本はね、ごく普通の男の子が女の子を好きになるんだ。2人でお菓子の国へ行ったり、ボーッと火を吹くドラゴンと戦ったりして、2人は愛を深めていくんだ。でもそんな幸せは長くは続かなかった。女の子は実は人魚で、人間と関わってはいけないという海の掟を破っていたんだ。海の神様は怒って女の子を殺してしまう」



「自分の最愛の人を殺されてしまった男の子は絶望して自殺をしようとする。するとお菓子の国で買ったクッキーやドラゴンを倒した剣、そして女の子が持っていた真珠のイヤリングを見つけて自殺を辞めるんだ。男の子は3つの宝物を持って前を向いて生きていくっていうお話」



「やっぱりそういうファンタジーのお話が好きなんだね。君はそれを初めて読んだ時、どう思ったの?」

彼女はそう尋ねた。




「最初は酷いお話だと思った。人魚が人と関わってはいけないっていう掟も意味がわからなかったし、なによりクライマックスでヒロインを殺してしまうことが納得出来なかった」


「でも、最近もう一度読んで気付いたんだ。作者が書きたかったのはヒロインが死ぬところじゃない。主人公がヒロインとの思い出のお陰で前を向いて生きていくところなんだ。大切な人とのお別れはいつか突然来てしまうけど、その人との思い出を糧にまた希望を見つけることがあの作品のテーマなんだ」



彼女はずっとこちらを見て話を聞いていた。時折頷きながら、見守るような目で、穏やかに。



「それに気付いてから、僕は物語を読むことが好きになった」


「ごめん、僕ばっかり話してしまって」


「いいよ。良い話だったから。私が思うにだけどさ、男の子は苦しくて自殺をしようとした訳じゃないと思う。女の子に会いたかったんだろうなって」



僕が仮に狼じゃなく、彼女が吸血鬼じゃなかったとしても、僕は彼女と息が合っただろう。彼女の繊細かつロマンチックな価値観には心を惹かれる。



伊勢中川駅について乗り換えを済ませた。あとは数駅で鳥羽駅に到着する。



「じゃあ、私の話をしていい?」


「うん。聞かせて」


「私がいつも使ってるこの日傘の柄なんだけど、この花の名前は何でしょう?」


日傘には小さめで紫色の花がたくさん描かれている。



「うーん......紫色だし、スミレとかヴァイオレット?」



「残念。正解はスターチス。別名リモニウムとも言うよ」


「全然知らない花だった」


「紫って良い色だと思う。情熱の赤と爽やかな青が混ざって出来た色じゃん。深みもあるし、潔さもあると思う。それに………」


「それに?」


「それに、何万年もの年月を生きる私たち吸血鬼にとって、大好きな花言葉なの」


「その花言葉とは?」


「花言葉はね……」


『次は鳥羽駅。鳥羽駅。鳥羽水族館へお越しのお客様は次でお降り下さい』



「あぁ......まぁまた今度にしよ!もう水族館着いちゃうし」


「えぇー。なんだよそれ。気になるじゃん」


「いいのいいの。ほら、君の大好きなシイラが待ってるよ」


「別に好きって訳じゃ......」


「早く早く!」



鳥羽駅を降りると、徒歩3分ほどで鳥羽水族館へ到着した。夏休みということで、少し客は多かった。


入場券を買い、入館するとシーラカンスのアートがお出迎え。順路の無い水族館と名乗りを上げている鳥羽水族館は大きなの人気を誇る。



シーラカンスアートの左手の階段を登ると、そこには

客を一瞬で青の世界観に染め上げる巨大な水槽が広がっていた。水槽と形容していいものかり槽なんて無機質なものではなく、間違いなく青の国だった。



「みてみて、クマノミだ。イソキンチャクモいる。ウミガメもいるよ!」

彼女は僕の袖を引っ張り、青の国へと張り付いた。


「青の世界なのに黄色も赤も白も見える。これだけ沢山居るのに誰も邪魔にならない。1匹1匹が必要とされてる......」


彼女は両手をガラスに貼り付けて目を丸くした。

彼女を俯瞰して見ている僕も彼女の気持ちがよく分かった。非現実的で幻想的な世界。昼も夜もない青の世界は異端な僕達さえも許容してくれている気がした。



「アシカショーのコーナーもセイウチとかがいるエリアも透明の屋根があるから、直射日光じゃないし君も行けるよ」



「ほんとに!?私アシカショーみたい!」


「分かった分かった。まだ時間あるからゆっくり回ろう。魚が逃げちゃうよ」


「シイラが逃げたなら君が困るからね」

彼女は僕の頬をぷにぷにと人差し指でつついた。


「はいはい。いいから急がずに回ろう」


僕の彼女は肩を並べて館内を回った。隅っこで暮らすフラミンゴも、触れ合い体験出来るエイも、産まれたばかりのカワウソの赤ちゃんも、太陽も月も気にしない時間はずっと続いて欲しいと思った。



「すげぇ……フグ怒ってる」


「君に怒ってるんじゃない?」


「失礼だなー」


「ほら、そっくりだよ」

彼女はそういって僕の頬を人差し指でぷにぷにたした。


マヌケな顔をしたエイも、こっちに寄ってきたらやっぱり怖いサメも、ガラスの床に埋もれたアンモナイトも、異質な僕たちに興味はないようだった。それどころか、自分が狼だということも、隣の彼女は血を吸う吸血鬼だと言うことも、僕らでさえも忘れていた。


「時間だよ!アシカショーみにいこ!アシカのリコちゃんだって!」

いつの間にかソフトクリームを頬張る彼女と共にアシカショーのエリアへと移動した。



「アシカって海の犬って言われてるらしいよ」


「じゃあ君の仲間だね」

振り向いた彼女は鼻の先にソフトクリームを付けていた。


「遠い親戚みたいなもんだね」

僕はそういってティッシュを取りだし、悪戯好きなソフトクリームを拭いた。


「女の子でしょ。綺麗に食べなさい」


「いいじゃん。今日は遊ぶ日なんだから」


「アシカのリコちゃんの方が行儀が良さそうだよ」


リコちゃんはヒレを前に出して拍手をくれと言わんばかりにヒレを叩いている。


長距離のフリスビーキャッチやフラフープ、アシカのバランス力を披露する技などを経てアシカショーは幕を閉じた。



館内の水槽が見えるレストランでラッコカレーを食べて、お土産を見に行った。



「これ欲しい……」

僕はチンアナゴの剣を手に取って彼女に見せた。


「あははっ!そんなのいつ使うの!」


「使うとかじゃなくて、男の子は何歳になっても剣とか盾とか好きなんだよ。そういう君は何を買うの?」



「みてみて、真珠のイヤリング。これに決めた」

彼女はそう言って右耳をこちらに見せてきた。


「おお」


「似合ってる?」


「似合ってるよ」


「ありがとう。褒めてくれたしチンアナゴ買っていいよ」


「やった。一応家族用にラッコクッキーも買っとく」


「私はイルカクッキー買う」


お土産を変え終えた僕達は閉店間近に2人で写真を撮った。青に、いや、青を超えて蒼に包まれる幻想の世界は狼人間の僕と吸血鬼の彼女にちょうど良かった。



散々歩き回った僕達にとって帰りの電車の揺れは赤ん坊用の揺りかごそのものだった。



始まりの駅へと戻った僕達は駅付近の公園へと足を運んだ。



「なぁ、今日歩き回って疲れたでしょ?」

今日は雲が多く月の光は差してこない。気分も落ち着いている。



「うん。結構はしゃいじゃったから」


「前言ってたよね、今度、血を吸って良いって」


「うん......」


「今、いいよ。もう夜だから、人も少ないだろうし」



彼女はうしろめたそうな表情をしている。


「ごめん。そんな気分でもなかった……?」



「ううん……。1つ、隠してたことがあるの」

彼女はベージュの帽子を取り、真剣な眼差しでこちらを見つめた。



「吸血鬼はね。古来より個体数がとても少ない種族。その分一人一人は何万年も長生きをするの。吸血という行為にも理由があるの」



「それはね、吸血は血を吸うだけでなく魂の一部分を吸うの。何万年も生きるなんて、心が耐えれない。だから他人の魂を分けて貰うことで魂を補給しないといけない。吸われる側はね、魂の少しを上げる代わりにその吸血鬼の眷属になってしまうの」



「けんぞく?」


「そう。眷属。簡単に言えば、吸われた側は吸血鬼として性質を持つの。陽の光で肌が焼けるようになるわけじゃない。だけど、事実上の吸血鬼とのハーフになるの」




「眷属になるとどんなデメリットがあるの?」

僕は彼女の背中に片手を添えた。



「さっきも言った通り、吸血鬼は個体数がとても少ない。だから、吸血鬼同士がお見合いする状況なんてまず発生しない。その代わり、眷属を残すことで眷属同士が結婚して吸血鬼の子供が産まれてくる。将来もし君が眷属と結婚すれば、君の子供は吸血鬼になってしまうことがデメリットになる……」


「そっか……」

僕は叢雲のある夜空を見上げた。



「もし僕の子供が吸血鬼だとしても、君と過ごした時間があるから何が危ないとかきっと分かるんだ。それに僕はもともと半分人間じゃないし、子供の気持ちも少しは分かってあげれると思うな。結構できたらだけどね」

僕はそう言うと彼女の両肩に手をやった。



彼女はゆっくりと僕の身体に倒れ込んだ。華奢で細い身体は少し抱きしめるだけで折れてしまいそうだった。




「ありがとう」

彼女は少しつま先立ちをして僕の首元に顔を近づけた。




少しチクッとする様な感覚。繊細に、少しずつ。

献血で血を採取するときの感覚。献血と違うのその針には温もりがあって、ほんのり暖かいこと。


揺れるカーテンのようにしなやかな体を感じた。



彼女は首元から顔を話すと甘えた見せんで見つめた。

「あのさ、またどこか遊びに行きたい。私たちがいつも会う海で、花火大会があるでしょ。良かったら、2人で行こう」



「わかった。君から誘うなんて初めてだね」



「リモニウムの花言葉。花火の時に教えるね。」



「うん。楽しみにしてる」



僕達は公園と余韻を後にした。






数日後、僕達は祭囃子で再会した。

屋台の並ぶ喧騒のなか、彼女を見つけ出すのは以外にも簡単だった。


彼女は紺色の浴衣を着ていた。髪も結び、清潔感の塊のような容姿で。




「お待たせ。おめかししてたら遅れちゃって」

彼女は少し頬を照らしてそう言った。



「待ってない。似合ってるよ」


「そう?」



「うん」


「なら良かった。早速回ろう」




喧騒の中、はぐれないように、僕は彼女の手を握った。


舌が優しい赤に染まるりんご飴、当たっても倒れない射的、すくえない金魚すくい、やっぱり紫色の綿飴。


飲み物の屋台に並ぶ君を誘蛾灯の下で待つ。


ポテトとフランクフルトを両手に持った僕達は花火の観覧席へ向かった。



「まだ30分くらいあるのに席埋まってきてるね。早く来て良かった」

彼女は熱々のポテトを頬張りながら言った。



「そうだね」

僕は少し息を飲む。




少し気分が悪い。身体が火照っているような感覚。

落ち着いて、彼女にバレないように深く息を吸う。


血の流れを感じる。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせる。


フードを被り胸を撫で下ろす。



「大丈夫?ポテト苦手だった?」

彼女は心配そうにこちらを見つめる。



「ううん。大丈夫だよ……」

呼吸が荒くなる。


「少し離れた場所行こうか、いつものテトラポットまで行こう」

彼女はそう言うと僕の袖を掴んでたった。



背中をさすられながら、前のめりになり、テトラポットまでゆっくりと歩いた。



呼吸がさらに荒くなる。長距離走を走り終わった後のやうに、自分の息のペースを探す。


「大丈夫。落ち着いて。私は傍にいるから。君は人間」

彼女は僕の背中を未だに誘っている。



視界が揺れる。意識は朦朧とする。霞む目を振り絞って空を見る。



満月だ。



慌てて視線を下げる。背中をさすられていた感覚も感じなくなったいく。


「大丈夫!君は人間!私を大切にしてくれる人のなの!」



彼女は必死にそう声をかける。



身体が熱い。花火開始の放送が頭を煩いくらいに児玉する。手が震える。君の顔も分からなくなっていく。



「落ち着いて!戻ってきて!ーーーーー!!」

必死に叫ぶ彼女の声が、最後の僕の記憶だった。















意識を取り戻した。狼になったのはほんの数分の出来事だったみたいだ。未だに花火は続いている。


冷めた感覚が僕の口元を流れた。両手をみると鉤爪が人間の手に戻り始めている。手の赤い液体を理解するのに時間は要らなかった。



彼女が居た。彼岸花のように首元から血を流し、浴衣は引き裂かれ、微かに呼吸を繰り返す彼女が。


花火の爆ぜる音が児玉する。 花火の明かりは僕の意識を覚ました。





僕が殺したんだ。




狼になって、自分を抑えきれなかった僕が彼女を殺したんだ。彼女が僕の血を吸うより遥かに野蛮で、残酷に噛み付いた。意識はない。周囲の砂が彼女が抵抗したことを無造作に語っている。



「エマ……エマぁッ!!」

僕は初めて彼女の名前を呼んだ。嗚咽を繰り返し、涙を垂れ流し、野生のままに。



「……あれ?初めて……名前呼んでくれたね……」

彼女は今にも途切れそうな細い息で言う。



「エマッァ!」

僕は彼女の身体を抱きしめる。



「せっかく……名前呼んでくれるんだから、もっと笑ってよ……」



「私ね……もう何百年も生きたの……その中でね、君と生きた数十日は……」



「あぁ……あぁっっ!」



「1番楽しかったな……」



「今からでも、病院に行こうっ!対処すればまだ間に合……」


スマホを取り出す僕の手を彼女はか弱く遮った。




「いいの……私は数百年も生きた。自分が何歳かも……わからないの……」


「私……君のことが好きだった……。本ばかり読むから……普段の会話でも言葉使い……が独特で……」



「水族館に誘ってく……れたの、嬉しかったなぁ……」



「気持ちが伝え……られてたら……血を吸う振りをして……キスしてみた……り……」


「このイヤリング…………君に渡しておくね」

彼女はそう言うといつかの真珠のイヤリングを外して僕の手に載せた。


「…………」



「エマ……」


「そんな顔しないで…………。そう……だ。私の日傘……あげるよ……もう……必死ないし……」



「そんなこと言うなよっ!!もっと君と色んな景色をみていたいし、日傘だって、僕が代わりに差してあげたい!」



「そうだ…………。これだけは言っておかないと……」


彼女はゆっくりと、確かに身体を起こした。



「リモニウムの…………花言葉は…………ね…………」



「変わらぬ心……」





彼女は約束を果たし、地面へと倒れた。無造作に、自然の掟のように残酷に。



「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」



僕は彼女の亡骸を抱きしめた。










夏休みの間、僕は1度も外へ出なかった。二学期が始まってからも、暫く学校に行けなかった。



人を殺した。最愛の人を。


本当は気付いていた。僕も彼女のことが好きだったんだ。日傘の下から除く甘えた顔も、クマノミを指差す無邪気な横顔も、全部、全部。



無機質な目で部屋を眺めた。積み重なった教科書、対して減らなかったシャーペンの芯、読むことの無かった荻原朔太郎の詩集。


どれもかも、ムカついて、邪魔になって、僕は机上の物を壁に投げつけた。



壁に当てられた物は棚を経由して床へと堕ちる。



それと同時に落ちてきた物が、僕の目に止まった。



ラッコクッキーの箱、チンアナゴの剣…………、真珠のイヤリング。



僕は何がちぎれたようにその3つを手に取りテトラポットへ向かった。


久しぶりに浴びる陽の光は眩しいどころか僕を痛めつけるようだった。



顔をあげた。いつか読んだ童話の主人公のように。



お菓子の国のクッキーも、ドラゴンを倒した剣も、真珠のイヤリングもあるけれど、いつかの童話とは少し違う。



それはヒロインが吸血鬼ということと、



リモニウムの日傘があることだ。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

リモニウムの日傘 @kaisei910

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る