第4話 土砂降りの中を その4
『合格発表、一緒に見に行こうね』
『ああ』
志望校の受験を終えた帰り道で
一緒に合格して、一緒にお祝いして。
その場で綾乃に告白する。
――予定だった。
――どっちかが落ちてたらヤバかったなぁ。
彼らを見守る大樹としては、彼らの無敵な発想に唸らざるを得ない。
目を覆いたくなるような未来の可能性なんて、この時の自分たちはこれっぽっちも考えていなかったのだ。
『若いって凄いな』とため息をつく今の大樹は、まだ17歳。
眼前(夢)の光景から、まだ一年と少ししか経過していないと言うのに。
中学三年生の彼らが、あまりにも眩しかった。
それはともかく。
このころには、大樹は綾乃への恋心を完全に自覚していた。
いつの間にやら当たり前のように繋いでいた手、その感触にいつの間にやらドキドキするようになっていた。最初はそんなことなかったはずなのに。
顔色ひとつ変えない綾乃に悟られないよう、ずいぶんと苦労していた気がする。
――大変だったな。色々と。
『勉強の妨げになってはダメだ、綾乃の迷惑になってはいけない』と表に出さないようにしていたつもりだったが……実際はフラれるのが怖かっただけだろう。
今ならわかる。
フラれたらショックで何も手につかなくなっていたであろうことは想像に難くない。
『なぁ、
『どうしたの、
『……何でもない』
『最近そういうの増えたよね。変なの』
『……悪い』
『ううん、別に嫌じゃないから』
『そ、そうか?』
綾乃のどこを好きになったのか、実のところよく覚えていない。
綾乃に抱いた感情が恋だと気づいた切っ掛けすら定かではない。
気が付いたら好きだった。振り返ってみてもそんな感じだった。
――何なんだろうな、こういうのって。
似合っていない眼鏡で隠されていた顔は、傍でよく見ると可愛いと思った。
隣に並んで歩いていると、思いのほかに彼女の胸が大きいことに驚いた。
同時に、どうやら綾乃は自らの容姿に強いコンプレックスを抱いているのだと気づかされた。
優れているとか劣っているとか関係なく、話題にされることそのものを嫌がっていた。
特に同年代に比してボリューム感半端ない胸を物凄く気にしているようだった。
『黛の胸、あれ、すげーな』
『それな。どんな感じなんだろうな』
『頼んだら触らせてくんねーかな』
『黛さん? ウザ。眼鏡似合ってなさすぎ、ダサすぎ』
一緒に行動する機会が増えたせいか、彼女の周りで囃し立てる雑音は大樹の耳にも届いてきた。男も女もとにかく喧しい。
話しかけたいなら話しかければいいのに。
陰口なら本人に聞こえないところで……いや、陰口なんて叩かないでほしい。
無性に腹が立って仕方がなくて、机を叩いて立ち上がって、煩わしい連中を睨みつけて。
そのたびに『いいから』と俯きながら呟く綾乃に袖を引かれて椅子に腰を下ろす。
内心では『何がいいんだよ!?』と言いたかったが、言えなかった。
『おいおい楠、お前やっぱり黛のこと好きなのかよ?』
揶揄われることはあったが、すべて無視した。
本人の前でそんなことを聞ける無神経さが理解できなかった。
大樹は自然とうるさい連中から距離を置くようになった。中にはそこそこ親しくしていた友人もいたのだが、キッパリ関係を断ち切ったら却って清々した。
『楠くん、あの……』
『気にすんな、黛』
申し訳なさげな綾乃を見ていられなくて、堂々と胸を張った。
同時に、せめて大樹だけは綾乃の容姿を意識しないよう殊更に気を遣った。
『かわいい』とか『きれい』とか、たとえ誉め言葉であっても外見に関する言葉は口にしないようにしていた。
本能的に目が吸い寄せられる豊かな胸も、絶対に見ないようにしていた。
大樹が思い当たる唯一の失敗は、受験直前に訪れた深夜のコンビニでの一幕ぐらい。
『そっか……楠くんも、こういうのが好きなんだ』
たまたま本棚に陳列されていた雑誌のグラビアアイドルに目を奪われた。
鼻の下を伸ばしているところを綾乃に目撃されて機嫌を損ねた。
感情を交えない冷たい眼差しと冬の風を思わせる声は、今でも記憶に刻み込まれている。
――あれは綾乃とは関係ないと思ってたんだがなぁ……思い出すだけでゾッとするわ。
さて。
大樹は別に綾乃の見てくれだけで彼女を好きになったわけではない。
どうして好きになったのかわからないとは言いつつも、そこは主張しておきたい。
『黛って、いい奴だよな』
『いきなり何、楠くん?』
共に過ごす時間が長くなるにつれて、彼女の内面を垣間見ることになったことも好意を抱くに至った重要なファクターであることは間違いない。絶対に間違いない。
『黛 綾乃』は素っ気ないように見えるけれど、人を寄せ付けないように見えるけれど……実際は割と情に厚い。
例をひとつあげるならば……ふたりの成績を比べると綾乃の方が上だった。
同じ高校を目指していたが、最終的に綾乃はA判定で大樹はB判定どまり。
彼女が第一印象どおりの冷淡な人間ならば、自分がA判定になった時点で協力関係を解消していただろう。A判定とは言え合格確定ではない。自分のことを後回しにしてまで他人の面倒なんて見ていられるはずがないし、大樹としても最後まで付き合えと口にできるほど厚かましくはなれなかった。
ましてや彼女の母親は勉強に関してはうるさくて、第一志望に落ちたらどれほどの怒りが綾乃に降り注ぐか……想像することは難しくなかったが、想像したくはなかった。
もちろん、綾乃が気づいていないはずはなかったのだ。
黛家に足を運ぶ回数は受験が迫るにつれて減っていったが、最後までゼロにはならなかった。家に上がるたびに姿を現す彼女の母親の表情は、目に見えて変化していった。
明らかに大樹を歓迎していない。
言葉はなくとも顔を見れば一目瞭然。
そんな母親が娘に何も言わないわけはないと思った。
でも――
『ほら、ここ間違ってる。ここはこっちの公式を……』
『なぁ、黛』
『……何』
『お前、自分の勉強はいいのかよ?』
『楠君の方がギリギリでしょ。余計なこと考えなくていいの』
『でも、お前さ……お前のお袋さん』
『……余計なこと考えなくていいの。自分のことに集中して』
『それをお前が言うかなぁ』
机を並べて向かい合って腰を下ろして変な顔をしていた大樹の額に、綾乃のシャープペンシルが突き刺さった。
『痛い』とおどけるとブスッとした綾乃の顔がほころんだ。
あれはもう、試験の直前だったはずだ。
――こんなこともあったな。
他にもあれやこれやと……彼女は大樹を見捨てることは絶対にしなかった。
人生がかかった一幕で、ここまで他人に気を回せる人間が冷淡なわけがない。
何はともあれ無事に受験を終えることができた。
でも、綾乃との約束を守ることはできなかった。
合格発表当日、大樹はインフルエンザでぶっ倒れていたのだ。
このインフルエンザ、相当に質が悪かった。
意識は朦朧としていて、時間の感覚もなくなって。
冗談ですら『これはもうダメかも』なんて悲嘆する余裕もなくて。
ようやく熱が下がりかけたあたりで、綾乃がお見舞いに来てくれたと聞かされて、申し訳なさはあったものの、正直なところ心が躍った。
母親の顔に浮かんでいた困惑の表情には気づかなかった。
『大樹、アンタ合格してたわよ』
『お、おう。わざわざありがとな』
インターネットで合格発表が行われていたから、母親が教えてくれていた。
大樹自身も意識が戻ってからスマートフォンでチェックしていた。
もちろん綾乃が合格していたことも知っていた。
――ふたりで一緒に高校生活って、喜んでたよな。
死ぬかもしれないと覚悟した病魔を追い払うことができたのは『せっかく綾乃と同じ学校に通えるのに、こんなところで死んでたまるか』と気合が百倍くらいになったからだと思う。
綾乃がわざわざ教えに来てくれて嬉しかった。
部屋を片付けておかなかった自分に腹を立てたり頭を抱えたくなったりもしたが……それどころではなかった。
『黛?』
『ん?』
『黛……だよな?』
『……ああ、これ?』
短くなった髪をそっと指で梳いて、綾乃は微笑を浮かべた。
目の前に立っているのは綾乃のはずなのに、その姿が一変していた。
眼鏡がなかったし、見覚えのない服を着ていた。いつもの彼女なら絶対に身につけないような、イマドキの女子っぽい服を。
あと、しゃべり方も変わっていた。
――名前で呼ばれるようになったのって、ここからか。
一緒に勉強していた時は、ずっと『楠くん』だった。
いつの間にか『大樹』に変わっていたが……どうやらこのタイミングからだった模様。
こうして夢で見直してみて、ようやく気付くことができた。
色々変わりすぎていて見落として(?)いたらしい。
――驚いたよなぁ。
綾乃を見間違えなかったのは、大樹がずっと傍にいてずっと彼女の顔を見てきたからに他ならない。ほとんど交流がなかったとしたら、きっと同一人物とは気づかなかった。
イメージチェンジとか高校デビューとか、その手の陳腐な言葉では表現しきれないほどの変貌。
夢でも見ているのかと思った。
吉夢なのか悪夢なのか判断に苦しむ。
高熱にうなされた末に正気を失ったと説明されれば納得してしまうレベルだった。
衝撃は連続してやってきた。
『合格発表、一緒に見に行けなくて悪かった』とか『何かあったのか?』と聞く前に、綾乃の口からとんでもない言葉が齎されたのだ。
『私、グラビアアイドルにスカウトされたから』
何を言われたのか、ちょっとよくわからなかった。
こうして夢で見直してみても、やっぱりわけがわからなかった。
合格したら告白するとか一大決心を固めていたはずだったのに……何もかも頭の中から吹っ飛んでしまったことだけは間違いなかった。
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