第3話 土砂降りの中を その3
机があった。
椅子があった。
少女が座っていた。
――何だ、これ?
真っ暗な空間のように思えた。真っ白な部屋のようにも感じられた。
地面に立っているようにも、宙に浮かんでいるようにも思えた。
いずれにせよ現実味がまったくない。
ここに至るまでの記憶を遡ってみる。
撮影会のスタジオを後にして
つまり、これは――
――夢か。
頬を抓ってみたら痛くなかった。
『なるほど、これは夢だ』と腑に落ちた。
ならば、目の前で俯いている少女の姿にも納得がいく。
おさげと眼鏡、懐かしい姿。
大樹が知る中学三年生の綾乃だった。
記憶の中に初めて刻み込まれた綾乃の姿だった。
当時の彼女はずっと俯いていて、あまり顔を見たことがなかった。
何かに耐えるようにあるいは身を守るように、いつも小さく身体を縮こまらせていたことをよく覚えている。
綾乃の前にひとりの少年が現れる。
誰あろう大樹だった。
こちらも中学三年生の頃の姿だった。
今よりずっと身長は低かったが、それ以外はあまり変わらない。
我が事ながら『パッとしないな』というのが、かつての自分に対する第一印象だった。
いつの間にか大樹はふたりを後ろから見守るポジションに移動していた。
もちろん、中学生時代の姿をしたふたりは、現在の大樹に気づいていない。
不思議というかご都合主義というか……まぁ、夢だとわかっていたから、別に驚くには値しない。
――懐かしいな。
当時の記憶がありありと甦ってくる。
高校受験を控えた中学三年生の春、大樹は苦手な科目が足を引っ張っていて成績が志望校の合格ラインに届いていなかった。
通っていた塾は有名な進学塾だったが、率直に言って落ちこぼれには優しくなかった。
苦手教科を克服しなければならないと頭の中ではわかってはいた。
学校の教師も塾の講師も当てにならないとすれば、後は得意な生徒に協力を仰ぐぐらいしか手段は残されていなかった。
でも――大樹は人に借りを作るのが嫌だった。
追いつめられているくせに何を拘っているのかと笑われそうなものだが、嫌なものは嫌だった。
何故と問われても困る。単にめんどくさい性格だっただけなのだ。
見栄っ張りだったのかもしれない。
だから、借りを作らずに済む相手を探した。
つまり、大樹の得意科目を苦手としていて、大樹の苦手科目を得意としている生徒。
ふたりで手を組んでお互いに教え合う。これなら貸し借りはナシだ。
いいアイデアだと思ったけれど、条件に合う生徒が見当たらない。
塾の廊下に張り出される試験結果を何度もチェックして、唯一見つかったのが『
条件に該当する生徒が見つかったからには早速相談してみよう……と実行に移す前に迷いを覚えた。
『黛 綾乃』という名前に聞き覚えがなかったから。
そして……それ以上に、その名前はどう聞いても女子のものだったから。
同い年の女子と一緒に勉強するというシチュエーションに気恥ずかしさを覚えはしたものの、最終的には『志望校合格のため』と割り切った。
『なあ、黛、ちょっと話があるんだけど』
勇気を出して話しかけた大樹に向けられた眼差しは虚ろだった。
光のない目は大樹に対する煩わしさがまったく隠れていなくて。
大きな眼鏡に隠されて見えなかった顔には、まるで生気がない。
ホラー映画の幽霊とかゾンビの方がマシ……なんて本人には絶対に言えない。
『なに? 邪魔しないでほしいんだけど』
『いや、あのな……』
『邪魔』
――懐かしいな。
夢を見ている今の大樹は苦笑を浮かべていられるが、当時の大樹は面食らっていた。
お互いにとって利得があるからと話しかけてみたのに、メチャクチャ無視された。
他の人を探そうかと思いはしたが、条件を満たしている人はいなかったし、あまり時間的な余裕もなかった。
『ちょっとだけでいいから話を聞いてくれよ』
『嫌』
『黛、折り入って相談があるんだが』
『邪魔。って言うか……あなた誰?』
二度三度と話しかけて、そのたびに鬱陶しげに断られて。
三度目にして名前を知られていなかったことにショックを受けつつ、それでも尋ね返されたことに心の中でガッツポーズした。
限りなくゼロに近かった彼女の興味を引けたことが、シンプルに嬉しかったのだ。
なお、提案は聞いてもらえなかった。
『黛、一緒に勉強しようぜ』
『えっと……』
『
『そう、その人。嫌』
取り付く島もないとはまさにこのこと。
生まれてこの方、ここまで邪険にされたこともなかった。
しかし、人の心とはおかしなもので断られれば断られるほどガッツが湧いた。
絶対に綾乃と一緒に勉強しようと思ったし、気恥ずかしい的な当初の感情はどこかにすっ飛んでしまっていた。
最後の方はほとんど意地になっていた。
――このころの俺は頑張ってたんだなぁ。
こうして夢で見ていても、驚くほどの熱意だった。
『何が何でも一緒に勉強してやるからな』なんて漫画の捨て台詞みたいだ。
『絶対に損はさせない』なんて誘い文句は詐欺師みたいだ。
他にもあれやこれやと手を変え品を変え……
どれだけ誘ったかは覚えていない。どれだけ断られたのかも覚えていない。
『……わかった。そこまで言うならやってみる。私もこのままだと危ないし』
『よっしゃ』
『試してみるだけだから。ダメだったら、すぐやめるから』
結局、綾乃が根負けしてくれた。
過程はともかく、その事実こそが重要だった。
本人の目の前でガッツポーズしたら、白い目で見られた挙句に無言でフェードアウトされかけたが。
何はともあれ、こうした大樹と綾乃の協力関係がスタートしたわけだ。
微笑ましくて、面映ゆい。
あと、ちょっと痛々しかった。
客観的に自分を顧みるのは、結構心にくる。
『楠くん、この間のテストどうだった?』
『おう、黛に教えてもらったところ、バッチリだぜ。サンキューな』
『私も。楠くんに教えてもらったおかげでちゃんとできた』
お互いに苦手科目を教え合って成績が伸びてくると、綾乃の態度は急速に軟化した。
ぎこちなく微笑む同い年の少女にドキリとさせられて目を合わせられなくなることが増えたのは、多分この辺りからだったように思う。
なお、当の綾乃は首を傾げていた。
いいことばかりではなかった。
ふたりで一緒にいる時間が増え、お互いの家を行き来するようになると色々見えてくるものがある。
綾乃の家は――というか、綾乃の母親はいわゆる教育ママだった。
娘の成績に一喜一憂するような可愛らしい人間ではなく、強圧的に娘を支配していた。
綾乃が四六時中憂鬱な顔をしていた理由の少なくない割合が母親に起因していることは明らかだったが……いまだ中学生に過ぎなかった当時の大樹では、余所の家の事情に首を突っ込むことはできなかった。
『なぁ、黛……』
『私は大丈夫だから』
ちなみに大樹の家は割と適当で『進学校なんて無理して目指さなくてもいいのよ』などと生暖かい眼差しを向けられていた。
要するにあまり期待されていなかった。
子ども心に親の態度にカチンときたから頑なに志望校を変えなかったという、これはこれで物悲しい裏事情があった。
『羨ましい』
『え?』
『ごめん、何でもない』
楠家を見た綾乃が『羨ましい』とこぼしていた姿が痛々しかった。
『何でもないと』呟いた綾乃の声は『それ以上は聞かないで』と聞こえた。
何も聞かなかったけれど……今にして思えば彼女は聞いてほしかったのかもしれない。
――ん?
ふいに違和感を覚えた。
目の前の光景は確かに記憶と一致しているのに、何かが引っ掛かる。
『なんだ?』と首を捻りはしたが、考えている暇はなかった。
悩む大樹に構うことなく、夢は勝手に進んでいく。
夏、秋、そして冬。瞬く間に時が過ぎて。
しかし、大樹はそのすべてを彼女と共有していたわけではない。
ふたりは同じ塾に通って同じ高校を目指していたが、異なる中学校に通っていたから。
受験が近づくにつれて学校のクラスメートたちの顔にも焦燥が浮かび、瞳がギラギラと輝き始めたが、大樹はどこか上の空になることがあった。
『黛、なにしてるかな?』
ぼーっとしたまま考えるのは、いつも綾乃のことだった。
綾乃は自分の学校生活についてあまり語ろうとはしなかった。
だから、大樹がいないところでどんな生活を送っているのかは杳として知れなかった。
ふたりの時間が交わるのは主に放課後。
塾に行って勉強して、綾乃を家に送るまでのわずかな時間だけ。
――いや、それだけじゃなかっただろ。
あとは休日にお互いの家で勉強することもあった。
何をするにも勉強ばかりで、どこかに遊びに行ったりはしなかった。
不思議なもので、綾乃と一緒にいるときには綾乃のことはあまり考えなかった。
昼間の学校で授業を受けている時とか、家に帰ってひとりで机に向かっているときとか、ベッドに寝っ転がって目蓋を閉じた後とか、そういうときにこそ大樹の脳裏には常に綾乃がいた。
そんな自分は今にしてみれば不思議で……でも、当時は違和感なんてなかった。
大樹の前を歩くふたりは、いつの間にか手を繋いでいた。
『ねぇ、楠くん』
『なんだよ、黛』
記憶の中の大樹と綾乃は、ずっと名字で呼び合っていた。
土砂降りの雨の中、大きな傘をさして。
ふたりで寄り添うように歩いていた。
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