第5話『黛 綾乃』 その1

 写真が大嫌いだった。

 無理矢理撮られた、もしくは勝手に撮られた写真(体育祭や文化祭、あるいは修学旅行と言った忌々しいイベントの数々)を見せられると、それだけで虫唾が走る。

 中学校の卒業アルバムなんて最悪すぎて、永久封印の刑に処した。

 写真が嫌いだったし、誰かに見られることそのものが嫌いだった。

 何かにつけてどころか、何もしなくても揶揄われたりやっかまれたり。

 不躾に向けられる人の目が疎ましくて、投げつけられる言葉が不愉快で、悪意が怖かった。

 息を潜めて日々をやり過ごしていた自分が今やグラビアアイドルとは――人間、変われば変わるものだとつくづく思う。


「は~い、『あやのん』こっちむいて~。目線よろしく」


 カメラマンの指示に応えて眼差しを送る。

 直後、光の雨が降った。フラッシュだ。

 そして断続的にシャッター音が響く。

 横たわっていた身体に熱が溢れる。


 綾乃あやのは――写真が好きになった。

 プロのスタイリストやヘアメイクの手によって美しく装われた自分。

 日々のトレーニングによって無駄な贅肉を削ぎ落した自分。

 多くの人の手によって、そして自らの手によって磨き上げられた『まゆずみ あやの』を誰かに見られる……のではなく、見せつけることに言語化し難い不思議な高揚すら覚える。


(ふう)


 魅せるか、見られるか。

 イニシアチブを握り、意識を前向きに切り変える。

 ほんのわずかな心構えの違いの影響には、計り知れないものがあった。

 肌も露わな水着の類はいまだに恥ずかしいものの、人目を惹くことの重要性は理解している。この仕事に最も適した衣装だと納得している。

 もちろん、いいことばかりではない。

 スタジオ入りするとき、バスローブを脱ぐとき、カメラの前に立つとき。

 いずれも強烈な羞恥心に襲われるし、そこかしこから強烈な視線を感じる。

 いつまでもビビっていてはいけないし、恥ずかしがっている場合でもないとわかっていても、なかなか心はついてこない。

『初々しい』なんて褒められることもあるが、未熟さを指摘されているようで落ち着かない。


(ダメ、集中しなきゃ……)


 ぼんやりした思考に喝を入れた。

 スタジオはいつも真剣勝負の場だ。

 益体もないことを考えている余裕はない。

 視線を胸元に感じた。いい『絵』を求められている。

 左右の胸を隠している三角形を結ぶ紐に指をかけて、軽く揺らす。

 もはや武器みたいな様相を呈しているカメラ、そのファインダーの向こう側には何万、何十万、もしかしたら何百万(サバを読みすぎか?)の瞳がある。

 シャッター音に、自分に向けられる数えきれない眼差しを感じる。

 想像するだけで――身体が火照る。こんな自分は知らなかった。


「はぁ……」


 熱い吐息が唇から零れた。

 肌にじっとりと汗が浮かぶ。


 興奮している。

 いつものことだった。

 撮影が続くと昂ぶりを覚える。

 この感覚は、他の人には説明し難い。

 ぬるま湯にずっと浸かっている感覚に似ている。

 オフの日に自室のベッドで微睡んでいる感覚にも似ている。

『彼』のことを想って、夜ごとにひとり心身を震わせる感覚にも似ている。

 辛い物を食べてカーッとなる感覚にも似ているし、サウナで整う感覚にも似ている。

 緩やかに仕上がっていく快感と刺激的な快感の双方がないまぜになっていて、いつまでも身を委ねていたくなる危うさを孕んでいる。


「ん……」


 かつては誰かに見られるどころか自分でも厭わしく思えていた、年齢に比して豊かに成長しすぎた胸のふくらみは、今や『黛 あやの』にとって欠かすことのできない武器となっている。

 小さな水着に覆われた乳房を挟み込むように腕を左右から寄せると、たわんだ胸の柔らかさが一層強調される。

 またフラッシュ。

 シャッター音。


「ラスト! 今日イチの笑顔よろしく!」


「はい、お願いします!」


 声に合わせて笑顔を作る。

 毎日鏡と向かい合って、あるいは先輩であるグラビアアイドルたちが刊行してきた写真集を見て練習してきた、ファンを魅了するための笑顔だった。

 笑顔とは喜びとともに勝手に浮かんでくるものではなく、試行錯誤と訓練で身に着けられる技術であることを学んだ。

 溌溂とした笑顔。

 クールな笑顔。

 妖艶な笑顔。

 ひと口に笑顔と言っても様々で、シチュエーションによって求められる表情は異なる。

 ギャップを狙うこともしばしばあって、何をもって最高と称するのかは時と場合による。

 なお、作り物っぽさを排除して自然な表情を作ることは基本中の基本。

 シャッターの後に沈黙が続いた。

 緊張感が高まり――


「よし。『あやのん』もみなさんもお疲れ様。今日の撮影、これで終わりです!」


 スタジオのそこかしこから、ほうっとため息が零れた。

 ネガティブな響きは感じない。熱のこもった視線は感じた。

 傍に寄ってきたマネージャーの麻里まりが肩にバスローブをかけてくれる。

 彼女は元グラビアクイーンであり、綾乃をスカウトした張本人でもある。

 麻里に付き添われ、案内されてパイプ椅子に腰を下ろす。

 揺蕩う意識と昂っていた身体が、緩やかに落ち着いてきた。

 撮影が終わったと実感できて、ようやく身体から力が抜ける。

 ストローを差したウーロン茶を口に運んでひと啜り。光を浴び続けた身体に水分が染み渡る。


「綾乃、お疲れ様。今日も良かったわよ」


「ありがとうございます、麻里さん」


 ふわりと表情を崩すと、『それを見せればいいのに』などと苦笑される。

 飾り気のないプライベートな笑顔をカメラに収められるのは、まだ苦手だ。


「これからインタビューだけど、大丈夫?」


 問われて頷く。

 質問の形式を装ってはいるが『NO』とは言えない。

 未熟とは言え自分はプロで、これはれっきとした仕事だから。


「大丈夫です。行けます」


「そう……いい子ね。じゃあ、お願いします」


 麻里の視線の先には、ふたりの男性の姿があった。

 今回のグラビアが掲載される雑誌の編集者だった。

 年齢はひと回りほど離れているが、すっかり顔なじみの相手。

 営業用の笑顔で迎えると、相好を崩しているのが見て取れた。


(もうひと仕事、頑張らなきゃ)


 水着を着て、写真を撮られて、それで終わりではない。

 誰にも聞こえないように、心の中で気合を入れ直した。





「出席日数は足りてる?」


 ぼんやり見つめた時計が示す時刻は午後九時に近かった。

 インタビューを終えて駅に向かう車の中で麻里が問いかけてきた。


「問題ないです」


「成績は?」


「キープしてます」


 現役JKという肩書は大きな武器のひとつだ。

 グラビアアイドルという肩書と組み合わせると格段に破壊力が増す。

 決してどちらも手放せない。少なくとも制限時間が来るまでは存分に活用したい。

 本当はもっともっと仕事を入れたいが、働き過ぎで退学なんてことになったら元も子もないし、未成年者を就労させている事務所にも迷惑がかかる。

 退学は綾乃にとっても人生をリスタートさせる際に大きな足枷となる。

 だから麻里はしばしば高校生活について尋ねてくる。実の母より母親らしい。

 口うるさいとは感じるものの、自分のためを思ってくれているのは疑いようもなく、同時にグラビアアイドルとしてのキャリアアップを考慮していることを隠す気もない。

 明け透けな彼女の話の切り出し方は嫌いではなかった。


「悪かったわね。インタビュー伸びすぎちゃって」


「別に構いませんから。初めて私に仕事をくれた方たちですし、少しぐらい融通を効かせる方がいいと思います。次も巻頭カラー回してくれるって言ってましたし」


「……アンタってそういうところ、ホント優等生よね」


「それ、褒められてますよね?」


「褒めてる褒めてる。ちょっと売れてきて調子に乗って、そのまんま転落する子もいるから。あなたの大人な対応は美点よ」


「別に大人じゃありませんけど」


 窓の外に目を向けると、もう真っ暗だった。

 グラビアアイドルと高校生の二足の草鞋は、華やかではあっても決して楽ではない。

 麻里に示されなければ気づかなかったとは言え自分で選んだ道だから、文句を垂れる筋合いでもない。


(まぁ、『大変だな』って思うこともあるけど)


 毎日は忙しくて、それ以上に充実している。

 車は駅前で停まった。ここから電車に乗って地元に帰ることになる。

『黛 あやの』は急速に人気を集めているとはいえ、マネージャーに自宅まで送迎させるほどのポジションには至っていない。


「ほら、これ」


「ありがとうございます。でも……ここまでする必要あります?」


 差し出されたのは色の薄いサングラスと帽子、そしてマスク。

 ささっと身に着けて変装すれば、そうそう見破られることはない……はずだ。

 ……こんなものを自分が使うことになるとは思いもしなかったが。


「『週マシ』の巻頭飾ったんだから、気付く人は気付くわよ」


「そこまでですか?」


「……はぁ、あなたはマンガ読まないものね」


「最近は読むようにしてます」


 漫画雑誌は大切なクライアントだ。

 週刊誌ともなれば露出度(エロい意味ではない)も注目度も他の媒体とはひと味違う。

 編集者に顔を覚えてもらうだけでも大仕事なのに、打ち合わせの段階で『御誌の漫画を読んだことがありません』なんて口にしているようで話にならない。

 無理に話を合わせたり、ウソをついても見破られる。

 相手だって、その道のプロなのだ。

 漫画を読むのも仕事で勉強。

 この業界に足を踏み入れるまで、そんな世界を想像することすらできなかった。

『黛 綾乃』にとっての『勉強』とは、堅苦しい文章を読んだり公式を用いて問題を解くことであり、『仕事』はその延長線にあるはずのものだった。


「……駅まで誰かに迎えに来てもらうのは?」


「難しいですね。ふたりとも弟に掛かり切りですから」


 綾乃は軽く肩を竦めた。

 嘘はついていないが真実でもない。

 確かに弟はいる。ふたつ年下の中学三年生。

 現在の黛家では、綾乃より弟の方が優先されている。

 連絡しても、きっと両親は迎えに来てはくれない。確信があった。

 麻里に余計な心配をかけたくはなかったから、家の事情を白状することは憚られた。


「大丈夫ですよ」


 微笑み返すと、余計に心配そうな顔をされた。

 業界の人間相手には、笑顔の効果は薄かった。

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