第3話 劇的ビフォーアフター その3

「あっつ……」


 コンビニ目指して夜道を歩く大樹たいじゅの口から、愚痴めいた声が漏れた。

 一学期の中間考査を間近に控えた高校二年生の五月の夜半だった。

 暦の上では春なのに、うだるような暑さがまとわりついてくる。

 ポケットから取り出したスマートフォンの時刻表示は午後十時。

 高校生になった大樹にとっては深夜と呼ぶほどではないものの、世間的には十分夜遅い扱いな頃合いにも拘らず、箪笥の奥から引っ張り出しておいた薄手な夏服を着ていても、季節外れの熱気に包まれた夜の道を歩けば、身体は勝手に火照りを帯びた。

 コンビニに足を踏み入れて、ホッとひと息。

 汗だくになった身体を撫でる店内の冷房が最高すぎた。


「さて……どうすっかな?」


 大樹は考える。

 このクソ暑い夜を快適に過ごすため、何でもいいから冷たいものを身体が欲していた。

 家には買い置きの麦茶しかなくて、冷えてはいても味気なくて物足りない。

 だからコンビニ。ちょっとした買い物にはちょうどいい。


 ここはシンプルにジュースか。

 あるいはアイスクリームも悪くない。

 冷麺も美味そうだが、時間帯を考えると重いか。

 さすがに未成年なので酒は無理だ。興味はあるが、売ってくれるはずもない。

 他にもあれやこれやと、夜のコンビニはとかく若者の気を惹くものばかり。


 ……などと最もらしく悩んでいたつもりだったのに、大樹の足はするすると本棚に向かい、手は書架に飾られていた雑誌を掴んでいた。

『週刊少年マシンガン』

 業界第2位のシェアを誇る週刊少年漫画雑誌だった。

 表紙をチラ見して、汗が滲んだ指でページをめくる。


「お、おう……これは、また……」


 自分でもよくわからない声が勝手に口から漏れた。

『暑い夏を先取り! ジューシー最旬ヒロイン『まゆずみ あやの』ちゃん大特集!』なんて頭悪げな文章がデカデカと紙面に踊っている。

 カラフルなページの主役は、あられもない姿を披露している少女だった。

 シミひとつない透明感のある白い肌を申し訳程度に覆う青いビキニの面積は極小。

 本当に見えたらヤバい部分を除いて、生唾モノの肌が白日の下に大胆にさらされている。


「こんなに小さな水着で大丈夫か?」


 心配が募って眉を寄せながらも、目は水着ではなく少女の肢体に吸い寄せられる。

 豊かに盛り上がって柔らかそうな曲線を描く胸。

 一転、贅肉なんてかけらも見当たらないおなか。

 きれいにくびれたウエストから程よく膨らむ尻を経て、肉付き良くスラリと長い脚に向かう絶妙なカーブ。

 完璧だ。

 首から上も絶品と呼んで差支えない出来栄えだった。

 白い首筋が見える程度にカットされた黒髪はつやつやでサラサラで。

 ほとんどメイクが必要ないほどに際立った造形の顔立ちに浮かぶ様々な表情が眩しい。

 スーパー美少女。

 ナイスバディ。

 大胆な水着。

 とてもとても目の保養にはなるのだが――同時に罪悪感じみた感情が込み上げてくる。


――はぁ……


 見るべきではないと頭の中で理性が叫んでいる。

 叫んでいるのは理性ではなく良心かもしれない。

 ……にもかかわらず、大樹はグラビアをガン見しているし、ページをめくる気にもなれない。

 もう一度キャッチコピーに目を走らせた。


『暑い夏を先取り! ジューシー最旬ヒロイン『黛 あやの』ちゃん大特集!』


 見覚えのある名前。

 見覚えのある顔。

 そして――見覚えのない肢体。

 すべてが大樹の目を捉えて離さない。


「はぁ」


 熱病に浮かされたような声が、だらしなく開かれた口から漏れた。

 冷房が効いているにもかかわらず、肌にじんわりと粘着質な汗が浮かぶ。


「何見てるの、?」


 弾むような声が大樹の耳朶を震わせた。

 耳慣れた響きの中に、ほんのひと匙の甘さが混ざっている。


「……何でもない」


 唇の端から零れた声には、まるで力が籠ってなかった。

 説得力のかけらも見当たらない言葉を発した後で、びっくりして身体を震わせた。


――は?


 ひとりごとに返事があった。

 しかも、まるで違和感がない。

 これが驚かずにいられようか。無理だった。

 何で? どうして? いつの間に?

 声がした方に雑誌を持ったまま顔を向けると――見覚えのある美少女がいた。

 スーッと通った鼻梁と瑞々しい唇をはじめ、感嘆のため息が出るほどに整いすぎた顔立ちに浮かぶ闊達な笑顔。

 煌めく大粒の黒い瞳は、かつては眼鏡のレンズを通してしか目にすることができなかったもの。

 かつてと言っても古い記憶を掘り返す必要はない。

 ちょうど今、手元にそっくりな笑顔があったから。


『黛 あやの』

 すなわち『黛 綾乃まゆずみ あやの


 大樹とともに高校受験に挑んだ同志であり、今は大樹と同じ高校に通う高校二年生であり、そして現在ブレイク真っただ中のグラビアアイドルでもあった。


 艶やかな黒髪。

 豊かに盛り上がった胸。

 キュッとくびれたウエストから腰回りを経て、スラリと伸びた長い脚。

 わざわざ肌を露わにせずとも存在感が半端なかった。


「あ、


 自分を捉える漆黒の瞳はキラキラと輝いて、艶めく唇は柔らかい曲線を描いている。

 それはとても魅力的な表情であるはずなのに――大樹の背筋を冷や汗が伝った。


――タイミング最悪すぎるだろ……


 声には出さず、心の中で舌打ちひとつ。

 綾乃の水着グラビアに目を奪われているところを、綾乃本人に見られる。

 率直に言って物凄く気まずかった。隠したエロ本を親に見つけられるよりヤバかった。


「ふ~ん」

 

 当の綾乃はと言えば、特に機嫌を害している様子でもなかった。

 彼女の視線は大樹の顔と手元の雑誌を行ったり来たりしている。

 

「ん? どうかした?」


 綾乃が小首をかしげる。

 短く切り揃えられた黒髪が、さらさらと揺れる。

 些細な仕草があまりにも似合いすぎていて、思わず目を奪われる。

 あざといけれどワザとらしさはない。

 かわいい。

 可愛すぎる。

 口から零れかけた本音を飲み込んだ。


「……何でもないって言ってるだろ」


「そう? 変な大樹」


 綾乃がクスリと笑った。

 屈託のない笑みは、あまりにも眩しかった。

 薄手のシャツとパンツという無防備な格好は、さすがに水着グラビアよりは露出が抑えられているものの……十七歳の肢体の魅力をまったく隠せていない。


――隠す気ねーよな。


 今の彼女は周囲の視線に怯えていた昔の彼女ではない。

 そっと胸元あたりを見つめると、目じりを緩ませた綾乃と目が合った。

 深まる笑みに心の内を見透かされている気がして、反射的に視線を逸らしてしまった。

 顔が熱い。

 勝手に暴れ回る心臓がうるさい。


――くっそ……人の気も知らないで……


 声には出さずに、ため息ひとつ。

 ここ一年近くもの間……彼女と顔を会わせるたびに、こんな感じで落ち着かない。

 綾乃に素直な恋心を抱いていた中学三年生の頃よりも、状況は悪化している。

 なぜなら、今の大樹は――綾乃に強烈な欲望を抱いているから。

 それも、かつての彼女が倦厭していた類の欲望だ。

 ズバリ、性欲。

 自覚はできても制御はできない。

 傍にいると眼が勝手に動き、綾乃の肢体を舐めるように観察してしまう。

 ギリギリ理性で押さえているが、ふとした拍子に手が伸びてしまいそう。

 気付かれていてもおかしくないのに、目の前の少女の態度は変わらない。

 気付かないふりをしてくれているのなら、情けないけどありがたかった。


「こんな時間まで仕事か?」


 内心の動揺をごまかすために口をついて出た質問は、どうにもパッとしないものだった。

 問いかけるまでもなく、あらかじめ知らされていることだったから。

 大樹は綾乃と連絡先を交換している。交換したのは中学の頃だ。

 仕事が忙しい日は『学校に行けない』

 仕事がオフの日は『学校に行ける』

 いずれにしても、必ず綾乃から連絡がある。

 今日は前者で『夜遅くまで忙しい』と付け加えられていた。

『頑張れよ』なんてサラッと返信しておいたが……今を時めくグラビアアイドルの連絡先がスマートフォンに登録されているなんて、よくよく考えてみれば凄いことだ。

 自分のスマホに表示されている『黛 綾乃』の名前から、まるで現実味を感じない。


「まぁね。あ、でも、明日は学校に行けるから」


「おう」


『仕事』という単語が、奇妙な焦燥を持って大樹の胸を灼いた。

 綾乃は高校生であり、同時に社会人でもあった。芸能人は社会人だ。

 出席日数こそ確保しているものの、仕事のために学校を休む日も少なくない。

 せっかく頑張って合格した高校なのにもったいないという気持ちもなくはなかった。

 でも……いまだ両親の庇護下にあり、アルバイトで小遣いを稼ぐのが精々な大樹からすると、一足先に社会に身を投じた綾乃が置かれている境遇はまるで想像がつかない。

 だから、何も言わない。

 何も言えない。

 応援するのが精いっぱい。


「ノート、明日でいいか?」


「うん。いつもゴメンね。ホント助かってる」


「気にすんな。俺たちは……」


「俺たちは?」


「……何でもない」


 喉元まで出かかった言葉は、形にはならなかった。

 戦友。盟友。仲間。相棒。他にもあれやこれや……

 どれも間違ってはいないけれど、胸中を正確に表しているとも言い難い。


「ふ~ん。あ、そうだ。それ、アンケートもちゃんと書いてね」


「言われなくても書いてる。綾乃の出番を増やせって」


「さすがは大樹、話が早い」


 踊るような足取りでレジに向かう『黛 綾乃』の背中を追いながら、ふと手元の雑誌に視線を落とすと、表紙を飾っている『黛 あやの』と目が合った。

 誰のものでもない笑顔に向かって、心の中で独り言ちる。


――どうしてこうなった……


 もちろん、答えてくれる者などいなかった。

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