流れ星を置き去りにして

野村ロマネス子

嶋田先生へ

 高校一年の夏休み、登校日の朝。短パンTシャツ麦わら帽子で校庭に水を撒く人がいた。あれが当校の美術教師だと知った僕は、呆れてるのか羨ましいのか何とも言い表し難い感情がごちゃ混ぜになり、そのままの状態で一晩寝て起きてみたら、まるでオーブントースターで焼き上げたかのように、すとんと恋に落ちていたのだった。


 芸術の選択授業で履修科目を音楽にしてしまったことを後悔はしていない。

 僕には絵心がないし、下手な絵心なりに精一杯製作した絵や彫刻なんかが形として残るのは耐えられないし、歌は音痴でも歌ってさえしまえばその時点で跡形もなく消えるから。だから、音楽の授業の方がマシだと思っただけだ。

 それぞれに挨拶を交わす生徒たちの、ざわめきを背にして歩き出す。美術室は遠い。教室の並んだ校舎から渡り廊下を通って入る特別教室棟の、いちばん奥の突き当たりにある。

 重みのある通用口を押し開けて渡り廊下に一歩踏み出すと、途端に息が白くなって流れた。風がある。胸元に留めたままだった「ご卒業おめでとう」と書かれた札が遠慮なくひっくり返る。

 鋭い北風に制服の襟元をきつく締めて、渡り切ったところで特別教室棟側の通用口も押し開けて、それから、背後で扉が閉まる音を聴きながら襟元に皺が寄ったりしていないかを気にしたりもする。少し迷って「ご卒業おめでとう」は付けたままにした。卒業。つまりは、ここを訪れるのも今日が最後になる。


 美術室の、少し手前にある美術準備室の固く閉ざされた戸を、深呼吸ひとつ分の酸素を取り込んでから右の手で力任せにこじ開けた。左腕に抱えた花束のセロファンがクシャリと派手な音を立てる。こうしないと開かない扉があるとは、この三年弱で学んだことのひとつだ。

 高校生活で手に入れたものはとても多い。学生の本分である勉強はもちろん、委員会活動に精を出す事になった為に後輩からの信頼も得た。ただ、その委員会活動に手を染めるに至った経緯が不純だったきらいはあるけれど、それはそれとして一定の成果を手にすることは出来た。きっと、今後の僕の人生に於いても効力を発揮してくれることだろう。

 しかし、学んだことと言ったら今後の人生に役立てられるような事ばかりでもない。

 例えば。嶋田先生からはいつも不思議な香りがすること。森のような、土のような、お寺のような。一度、何となく聞いたことがある。

「ウードだよ」

「うーど?」

「そ。アラブの王様の香りだよ」

 その頃僕はまだ今ほど頻繁に美術準備室に顔を出したりしていなくて、ウードが何かも知らなければ、アラブの王様と日本のお寺も結びつかず、嶋田先生がすごく偏食なことや、白い猫を飼っていることも、青くて古くて小さなフォルクスワーゲンに乗ってることも知らなかった。それで、クラスメートの女子たちよりもひと回り低い声が告げたその単語を、心のメモに書き留めたのだった。


 そのウードとやらの香りを変わらず纏いながら、でも本日の嶋田先生は珍しくスーツ姿をしていた。愛想のないネイビーのパンツスーツを先生方の列の中に見つけた時、確かに心が躍ったのはここだけの話。

「来たか」

 振り返らずに、嶋田先生が言う。肩越しに描きかけのキャンバスが見えて、そういえば嶋田先生の絵が完成した所にはとうとう遭遇できなかったようだ。イーゼルにはいつも、描きかけの絵か、真っ白なキャンバスがかかっている。

 ネイビーのジャケットは既に脱いでしまってて、シャツの上からポケットのたくさん付いた生成りのエプロンを被ってるだけで、だからパネルヒーターがこれでもかと部屋を温めていた。

 美術準備室はいつも埃っぽくてごちゃごちゃしていて、扉の建て付けも悪いし、コピー機もない。自販機も遠くて、おまけに渡り廊下には天井もない。

「いつも思うんですけど、ここって不便じゃないですか?」

 嶋田先生はカラカラと笑って首を振った。ドラマに出てくる探偵のように椅子ごと振り返る。

「だから人が寄り付かないんだよ。好きに出来るってもんです」

「なるほど」

 僕は何か提案しなくてはいけないような気になって、でも、と言ってみる。

「せめて扉の建て付けくらい直しては」

「いいのいいの」

 ある程度予測できたことだけれど、嶋田先生はめんどくさそうに首を横に振った。

「ある日突然扉の建て付けが良くなってみ? これ、絶対に『ピシャーンッ!』ってやっちゃうでしょ」

 扉を勢いよく開いては眉間に皺を寄せる嶋田先生も、用のある生徒が扉を勢いよく開いてしまって眉間に皺を寄せる嶋田先生も、どちらも容易に思い描ける。

「なるほど」

「でしょ」

 それきり嶋田先生はまたキャンバスに向き直ってしまい、右手に絵筆を取る。僕は、その眉間の皺も実は見てみたいなどと宛てもなく思った。


 そもそも選択授業で美術を選択していない僕が嶋田先生と関わろうなどと思ったら、別のルートを辿るしかないわけで。

 美術部に入るには画力的なものが足りず、おまけに僕には女子生徒ばかりの美術部に潜り込む甲斐性もない。

 それならばと選んだのは生徒会執行部の書記職。あの固い引き戸を勢いだけでこじ開けて、会報に必要な挿絵を提供してほしいなどと交渉に訪れ、部員がイラストを描き上げている間、この部屋でお茶を出してもらえるまでに成長した。

 策士と呼んでくれてもいいが、所属し続けているうち押し出されるように生徒会長まで上り詰めてしまった今となっては、果たしてこれが正しいルートだったのかと不思議な気持ちになる。おかげで取れた指定校推薦枠には感謝しているが、得られた成果がチグハグな印象があるというか。

 ふと、窓際に置かれた物が目に止まる。

「それ、危なくないっすか?」

「何が?」

「水。収れん火災になりますよ」

 嶋田先生はまた少し体ごと振り返り、驚いた顔で僕とペットボトルの水を見比べて、それからふにゃりと笑った。

「難しいこと知ってるね。賢いなぁ、関心だわ」

 賢くはない。もし僕が本当に賢かったならもっと小賢しい手を使って、このままおめおめと卒業するなんて事態は免れたかも知れない。でも、わかってもいたのだ。三年間しかここに存在していない僕が、美術の教師とどうこうなれるわけがない。必要な分の成長をするには三年間は短すぎる。


 窓の外は曇りがちでやたらと風ばかりが強くて、いっそ雪でも降ればいいのにと思う。いつの間にか絵筆を置いた嶋田先生は、代わりに手にしたミネラルウォーターの500ミリリットルペットボトルを弄びながら、淡い午後の日差しの中で俯いた。

「卒業だね」

「ですね」

「長い間お疲れ様」

「いえ」

 とうとうそんな話題になったのは潮時ということだろう。先生もお体に気をつけてなど通りいっぺんの台詞を口から紡ぎ出しながら、平気な顔で背を向けようと然るべきタイミングを伺い始める。と、嶋田先生が可笑そうに噴き出したので虚をつかれた。

「……あの、なんでしょうか」

「いや、あの、さ」

 細い肩を揺らしつつ指で示した先は、件の建て付けの悪い引き戸。

「あれ、実は少なくとも五年ぶりくらいなんだよ」

「五年?」

「そう。開いたのが」

「……は?」

 曰く、この高校に赴任して来た頃には既に開かずの戸と化していて、用がある人はおろか先生本人も美術室経由で入室していたのだとか。

「だから、君があの引き戸を凄い勢いで開けて入ってきた時は、本当に驚いたんだよね」

 たのもーって感じだったとか、ちょうど夕方だったから舞った埃が西陽に反射してなんだかキラキラしてたとか、後日それを絵にしてみようと思ったら「英雄誕生」みたいになってしまったとか、未だにあの引き戸を開けて入って来るのが僕だけなのだとか。

 嶋田先生がいつものペースより心持ち早口に喋るものだから、僕としては「もしかしてこれは卒業を惜しんでくれているのでは」などと邪な考えが頭を掠めたけれど、最終的には「君の良い所はここ一番って場でパワーが出せる事と、こつこつと積み重ねて結果を得られる事だから、今後もきっと……」などと良さげな締めの台詞になってきたところで、これが単なる照れ隠しなのだと知る。

 それで僕は、左手に握り締めたままだった花束の中から、淡い紫色の花を一本だけ引き抜いた。花の名前は知らないけれど、ふわふわと幾重にも重なった花びらが柔らかそうなのに凛としてて、なんだか嶋田先生に似ているように思えたから。

 それを、生成りのエプロンのポケットにそっと挿し入れた。花の匂い。ウードの匂い。入り混じっても素敵で、これはこれで良い。

「あげます、それ」

「……いいの?」

「はい!」

 今は一本だけ。それでいつかきちんと嶋田先生に見合うくらい成長できたら、めちゃくちゃ大きい花束を抱えてあの扉をこじ開けてやる、なんてどうだろうか。

 自分の想像に気を良くした僕の頬は、知らずやわらかな笑みになる。

「卒業おめでとう」

「ありがとうございます」

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