【第一章】マタタビになった旦那様②
油断した。
そう確信したときには
薄暗い部屋。
じっとりと肌が
「く──っ」
アリステアはその不快感を
ろくに声も上げられないまま
古ぼけた机と
どうやら悪あがきに男が投げた物の正体は、ここにある器具のひとつのようだ。
現状
「団長、そっち終わった~?」
そこへ、ひとりの青年が
男の名は、ヴィオ・ウェリタス。
「よっこらせ。あ~、
相変わらず
「団長」
「なんだ」
しかし、ヴィオの呼び声によりアリステアは再び顔を上げることとなった。
と、振り返った矢先、ヴィオの
ふざけるな。そう口にするよりも早く、アリステアは抱き
「なっ!? ヴィオ、いきなり何をするんだ!」
「いやいやいやいや! 俺が聞きたいよ! 団長こそ何されたんだよ!」
「意味がわからん! してるのはお前のほうだ!」
「それはわかってる! 俺だって男になんて抱きつきたくないっての! ……でも、あー、駄目だこれ、
国王の剣として
「いいから! 早く離れろ……!」
ありったけの力を込めてひたすら押し返した。
「……『離れろ』……ああ、そういうことか」
ぼそりと
「……ふぅ」
「ふぅ……じゃない! なんなんだ今のは!」
「ちょっと待って団長! いいって言うまで
問い詰めようとしたアリステアの眼前に、ヴィオが手のひらを
ヴィオは、肩から胸にかけて垂れ下がった
「うぇ、にが……この薬って、
「おい……」
舌を出して顔をしかめているヴィオに、
「団長さ、この部屋入ったとき、何かされなかった?」
棚や机の上を物色し始めたヴィオの質問に、今度はアリステアが顔をしかめた。
(まさか、あのときの……)
すっかり臭いも消えて忘れかけていたが、アリステアは抵抗した男が投げた容器の液体を浴びた。
「すまない。おそらくここにあるひとつを浴びた」
「ぐぅッ!? ごほっ、ごほっ!」
タイミング悪く吸い込んでしまった臭いは、強烈な
「悪くないな。むしろ好ましいくらいだよ」
ヴィオが肩を
「この液体の
「ごほっ……なんだそれは。もっとわかりやすく説明してくれ」
「う~んと、そうだなぁ……たとえるなら、この薬は人をマタタビに変えるもので、俺たちはそれに飛びつく
「つまり……俺は今、マタタビだと?」
「そうそう」
本気なのかふざけているのか、ヴィオはくつくつと楽しそうに笑う。
学生時代からの友人同士、変に態度が変わらないのはありがたいが、上司としての
だが、その話を信じるなら、見るからに怪しげな液体は効き目が限定的らしい。
今さらながら、道行く人が
「にしても、これって洗い流してどうにかなるものなのかな。もしくは自然に効果がなくなるとか。まずは同行してる王宮
「問題って、俺がお前に注意すれば」
「は? それ本気で言ってる?」
発言を
「君、誰の妹と
──エメラリア・ウェリタス。
ヴィオの
アリステアは友人の妹と結婚したのだ。
しかし、政略に等しいその
共通の知り合いがいるとはいえ、彼女とは数度会ったことがある程度の
印象は、あの適当そうな兄と比べて、ずいぶん
彼女も同じような認識なのか、結婚式のときですら
もちろん仕事を優先し、彼女を
──そして、それは
「エ、エメラリア……」
情けないくらい
目の色を変えて抱きついてきた妻に、そこはかとなく
もしかしたら家に帰るまでには、あの
ヴィオに聞いた話では、これは本来の意思とは関係なく液体を浴びた人間に
ならば、今の彼女の意思は他にあるかもしれないのだ。そう考えるだけで
(やはり手紙を送ったときに先に伝えておくべきだったか……)
途中立ち寄った村で、アリステアはエメラリア
「だ、
そうこうしているうちに、エメラリアが兄と同じ色の
エメラリアは、アリステアの知る
ともあれ、謝るエメラリアはそれでも
「いやぁ、そうなるよな」
「……ヴィオ」
声に振り返れば、ずっと後ろで見物していたらしい
「さぁ、我が妹も交えて、真面目な話をしようじゃないか。アリスくん」
● ● ●
「それでねエメル、
アリステアの指示で
「あの、お兄様。これが真面目な話なのですか?」
まだ
ヴィオに目線を送るものの、相変わらず考えの読めない顔でニコニコしているだけだ。
エメラリアは仕方なく言われた通りにすることにした。
「……ちょっと甘いでしょうか。でも、気持ちが安らぐ感じがして私は好きです」
「だよな」
これでいったい何がしたいのだろう。
「アリスはどうだった?」
「……正直、二度と
「うんうん、むせてたもんな」
「それはお前があんな不意打ちしてくるからだろ!」
腕を組んで
「ヴィオ、お前はこの液体の正体を知ってるんだろ? いい加減教えたらどうなんだ」
「まぁ、そんなに
「できれば、そうしていただけると助かります」
あまりにも訳がわからなすぎる状況に
要するに、アリステアがこの紙に付いた液体を頭から
「お兄様はこれが何かご存じなんですか?」
「まあね。結論から言うと、これは『
──精霊。
その単語を聞いて、エメラリアは一気に血の気が引いた。
「あ、あのっ、お兄様……!」
「さすがエメル、
「そうなのですか? でしたら、いいのですけれど……」
ヴィオの話に、胸を
それもそうだろう。急に国のトップが話に出てきたのだから。
「……陛下?」
案の定、アリステアの口からその言葉が飛び出す。
「今回は特例。本来であれば『ウェリタス』の血を
「わかった」
少しの間のあと、そう答えたアリステアは居住まいを正した。
「じゃあ、まずは質問。ここレシュッドマリー王国では身分に関係なく必要最低限の
「え!? えっと……昔、大陸全土で大規模な戦争があったからです。魔法が原因で
あの流れでまさか自分に質問がくるとは思わず、答え終わったエメラリアはふぅと
「すごいな」
気が付けば、アリステアがこれ以上ないくらい目を丸くしてこちらを見ていた。
まだあの
「うちの教育は男も女も関係なくスパルタだからね。答えられて当然」
だが、妹の心情など知らない兄は、自分が答えたわけでもないのに得意げに胸を張る。
そもそも、説明こそ簡単ではあるが、元来魔法は
知識はもとより、魔力の量や想像力、制御など
法の成立から三百年。そうした
それでも使いこなせば便利な力は悪用される。魔法事件は、案件自体そう多くはないものの、
この国では主に、アリステアたちが所属する騎士団と、王宮魔法使いと呼ばれる難関試験を
「さて、話を戻すけど、つまり魔法とは世界の
ヴィオは、自身とエメラリアを指差す。
「じゃあ、今度はアリスに質問。魔力に反応する
「精霊」
「正解」
「その顔はそこはかとなく理解したかな。きっとご想像通りだよ。俺たちは人間だけじゃなくて精霊の子孫でもある。王国はそれを
許可があるとはいえ、一族の秘密をさらりと言って
「俺たちが精霊の子孫でもある
ヴィオの言う精霊とは、自然界に存在する聖なる生き物のことだ。人間の魔力と彼らの力を合わせることで、魔法の
そして精霊の愛し子とは、その名の通り彼らに愛された存在のことを指す。様々な
そんな
まったく
「人工物だからかわからないけど、精霊を
「あのタイミングで離れたのはそういう理由があったのか」
「そういうこと。でもうちだってそれなりに歴史があるから、対愛し子用の特効薬がちゃんとある」
「私が飲んだ薬ですね」
「一時的に愛し子に
さっきは急を要したため兄から貰うことになったが、自分も父から受け取ったものを
「
「わかりました」
「それから、父さんと陛下には全部説明してあるから。困ったことがあったら力になってくれると思う」
「陛下が?」
アリステアが意外そうな声を上げる。
「そう。父さんも陛下もちゃんとわかってくれてるよ。アリスに精霊のことを話す許可をくれたときだって、お
なんと
物静かな父から「決して
エメラリアは、その約束を守っていくつもりでいただけに、どう返事をしたものかと迷ってしまう。
「そうか。ウェリタス
ややあって先に口を開いたのはアリステアだった。
なんとなく彼の
「本当に。
「ああ、善処する」
何を考えているのか、少し
「エメルもね?」
「は、はい。最善を
返事をしつつ、様子が気になるアリステアを
● ● ●
「……エメラリア、これは?」
ちょうど
「私は長椅子で寝るので、
ぱふっとエメラリアは長椅子に移動させた自分の
そう考える理由は、ウェリタス家という秘密ある一族の出身であることが関係している。
エメラリアは、物心つく前から普通の
「……念のため聞くが、理由を説明してくれるか?」
ただならぬ
「説明不足でご気分を害されたなら、申し訳ございません。決して旦那様を
人とは
眠って意識がなくなろうとも、同じベッドで寝ていれば、彼にすり寄ってしまうくらい容易に想像がつく。長椅子で寝ること自体、エメラリアは
「別の部屋で寝ることも考えたのですが、それですとあのようなことを仕出かしてしまった手前、逆に
あの騒動現場に居合わせた使用人たちには、それとなく秘密がバレないように事情を説明したが、寝る部屋を別々にすれば余計な心配をかけてしまうだろう。
「くっついて寝ることを
「旦那様? ……あっ」
頭を
「こうなったのは俺の失態だ。エメラリアが
「そういうわけにはまいりません! 旦那様は長旅で
一日のほとんどを家の中で過ごしていたエメラリアと、二十日も仕事で遠方に
休息の
エメラリアは
「意外に
「だ、旦那様が
「だが、俺も自分はベッドで寝て、女性を長椅子で寝かすのは主義に反する」
「ご
「そういう問題じゃない」
ではどういう問題だと言うのだろうか。
ただ安心して休んでもらいたい。たったそれだけなのにうまくいかない。
(お母様、夫に尽くすというのは難しいことなのですね)
もうすでに
まだそれほど遠くない日、父と母のやり取りはどうだっただろう。口論など
(うぅ……この未熟者!)
エメラリアは心の中で自分を
「申し訳ありません……私が
「なんだ、
「はい。あ、でも、少々お願いが……」
そう続けたエメラリアは、ベッドの真ん中──より少し自分側にクッションを縦に並べた。
「ベッドが
「ああ、それくらい構わない。もともとふたりで寝てもあり余る広さだ。クッションが
「ありがとうございます」
次は問題なく丸く納まったことに胸を
「ああ、そうだ」
ところが、ふと思い出したようにアリステアがベッド
「俺は寝相が悪かったか?」
「え? いえ、そのようなことはない、かと……?」
まだ結婚初日の夜しか一緒に寝てはいないが、
確信はないが
「それは何よりだ。じゃあ、これは真ん中に置くぞ」
「あ……」
エメラリアはそこでやっと質問の意図がわかりクッションを
「俺は寝相、悪くないんだろう?」
もし、ここでエメラリアがクッションを引き寄せれば、アリステアの寝相が悪いことを
本当に彼には
エメラリアは、得意げなアリステアの表情を前に、今度こそ無駄な
(……いろいろあったからかしら……眠れない……)
あの寝る前のやり取りからだいぶ時間が過ぎたように思う。
エメラリアは何度目かわからない寝返りを打った。
「眠れないのか?」
「旦那様……」
後ろから
「申し訳ありません。起こしてしまいましたか?」
「いや、ずっと起きていたから問題ない。それよりあの薬、初めて使ったんだろう? どこか体調が悪いから、眠れないとかではないよな?」
顔は見えないが、
「薬は……おそらく、ちゃんと効いています。痛いところもおかしなところもありません。ただ、少し目が
「……なら、少し話さないか?」
「え?」
「俺も眠れないんだ。それにこうやってふたりきりで話すことなんてほとんどなかったからな。いい機会だと思って付き合ってくれないか?」
彼のことだ。自分も眠れないというのは方便だろう。
「わかりました。何をお話ししましょうか?」
ここで断るのもきっと彼の意にそわないだろう。エメラリアはそう判断し、寝返りを打つ。
「話題か……そうだな。エメラリアさえよければ、聞きたいことがあるんだが」
「私に答えられる
エメラリアが
「……なら、ヴィオが言っていた精霊について教えてくれないだろうか?」
「精霊、ですか?」
「あ、いや……精霊と言ってもウェリタス家のことだ。
なるほど。彼が遠慮するような
「言いづらいことなら無理にとは言わん。知りたいのは半分
「いえ、その件でしたらお兄様が許可をいただいているので、お話ししてもよろしいかと」
「そうか? ならいいんだが……」
「何からお話ししましょうか?」
「本当に
「はい。私も父から聞いた話なのですが、まだ戦争でこの国が
「精霊を目視できるとは……当時の当主は
「それは……少々
感心するアリステアに、どう説明すべきかエメラリアは考えを
精霊が『
しかし、残念ながら精霊と出会った先祖は、魔法とは
「だったら、なおさら不思議な話だな」
「ええ……ですが、答えは簡単です。人間に見えるほど強い力を宿していたのは彼女のほうだったのです。代を重ねるごとに必然的に
エメラリアに至っては内面的なものだけでなく、外見も口承されている彼女の容姿と同じ、白金の髪に金色の瞳を持っている。
「
「……すまない。聞いたことはあるが、あまり植物には
「暖かい地域で育つ、とても大きな樹です。幹は白っぽいのですが、外見は
古代精霊とは、
「お前の先祖はよくそんな相手と結ばれたな。精霊を題材にした書物はけっこう読んできたが、初めて聞くぞ」
「私たちも詳しい
「そうか。確かに可能性としては、あり得なくないな……」
聞き
「旦那様、考えるのもいいですがちゃんと休んでくださいね?」
やんわりと
ふっ、とアリステアがおかしそうに笑う。
「お前は本当に真面目だな。心配しなくても、もう寝る。お前が俺のことを心配して寝られないようじゃ困るからな」
「わ、私はいいのです。旦那様の
「エメラリアの話は楽しかったぞ。それに、お前のことも少しは知れたからな。やっぱり聞いてよかった」
室内に再び衣擦れの音が
「お前も……俺のせいで生活が大変になりそうなんだから、しっかり休むんだぞ」
「はい……」
少しだけ遠くなった声に、エメラリアは返事をする。
彼が言うように、自分たちは
(旦那様のためにも
エメラリアは改めて決意すると、きゅっと
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