第7話 運命の前ぶれ

 澄子は本土の高校を卒業し、地元活性化の夢に邁進している。


 大手広告代理店に就職することを目指して東京の大学に進学した。実家は裕福ではなかったし、都会を異国の地のように怖がる両親の説得は簡単にはいかなかったが、一足先に東京に帰った劉生が東京での安全を保障してくれたことで、渋々了承してくれた。実際、劉生の口利きで、独身用マンションとアルバイト先も難なく見つかり、生活の基盤は万丈だった。


 実のところ、葛西建設の管理物件を破格の家賃に値下げてしていたのだが、そのことを澄子は知らない。


 劉生は辺分島で中学まで過ごした後、全寮制の高校に入り、質実剛健、自彊不息の立派な青年に成長していた。


 子宝に恵まれなかった葛西家当主は、劉生を葛西建設の正式な後継者として迎え入れた。それも全て、大人びた感覚で常に自分を先導してくれた澄子のお陰だった。劉生にとって、当時の澄子はまるで救世菩薩のように温かくて強い、心の拠り所となっていたのだ。





 二学年になった良一は、経営学と語学を学ぶため、アメリカに留学して自由と不自由を満喫していた。


 善財家跡取りとして言動を制限される不自由さから解き放たれ、足枷の代わり背中に羽を与えられ、自力で大海原を航海している気分だ。そうは言っても実際は善財家の後ろ盾に保護されているということは言わずもがなだが。


 一年間の留学を経て帰国した良一は二十歳を超えた。二年前、必然か偶然か元母親の健在を確認したは良いが、後期高齢者層でありながら売店で売り子をしている元母親の経済力は大いに不安であった。シングルマザーで息子を育て上げたものの、その息子は不甲斐ない男で、心配は尽きなかったはずだ。挙句、早々に事故死し、嫁も子孫も残せなかったものだから、身寄りもないのだろう。良一は元母親の生活ぶりを確認せずにはいられなかった。



 贖罪という面を被った金持ちの暇つぶしとは言わせない。


 善財家の庇護から、僅かばかり離れた間に、ほんの少し勇気と行動力を手にした良一は、帰国して二週間と経たないうちに、再びボートレース戸田へ向った。


 ちなみに二年前は安心安全高性能の国産EVだったが、今回はメルセデスベンツのSUVだ。EVは父親からの入学祝いで、SUVは派手好きの母親からの成人祝いだ。


 この日は一般戦六日間レースの三日目で、大半は常連客。昨日の最終レースで大勝負しただの、三連単で万舟を取っただの、羽振りの良い話で盛り上がっている。この手の話は大抵が眉唾物で、実際の収支はマイナスであろう。


 例の売店も客は二人で、店員も二人しかいなかった。中年の男女で、遠目でみても元母親でないことは明らかだった。迷いはしたが、海外留学で積極性と少しばかりの度胸を身に付けた良一は、ボス猫に餌場を占領された痩せっぽちの野良猫のように引き返すことはしなかった。


「あの。すみません。今日はいつもの女性はお休みですか?」


「いつもの女性って?」


「その、少しご高齢で中肉中背というか」


「初子さん?」


 そう言えば、「はっちゃん」 という響きに覚えがあった。たこ焼きのコマーシャルソングが何故か耳について離れないのはそのせいだ。


「はい。おそらく」


「初子さんなら大分前に辞めたよ。あの歳で立ち仕事はねぇ」


「辞めた? それで今はどちらに?」


「おたくは?」


 客を捌いた男性の方が、不審者に職務質問をするような態度で割り込んだ。


「僕は、昔、初子さんにお世話になったのですが、その後、日本を離れていましたので連絡先がわからなくなってしまいまして」


「世話になった?」


 男性は尚も、刑事気取りで聴取を続ける。


「初子さんは息子さんを亡くされているでしょう? 二十年ほど前に。僕の父がその息子さんの上司だったというご縁で、まぁいろいろと」


「へぇ」


 疑いは増すばかりという声色だ。


 しかし、良一には奥の手がある。黄門様の印籠だ。


「申し送れました。私こういう者です」


 良一は、父親に持たされている上質紙の名詞と免許証を差し出した。


『善財ホールディングス取締役 善財良一』


「えっ。善財ホールディングス? 取締役?」


 男性は目を瞬いて、自分の目利きがまるで当てにならないことを恥じ、顔を赤らめた。


「そうでしたか。これは失礼しました」


 男性の態度は一変して、愛想の良い万年平サラリーマンごとく媚びるに徹した。


「初子さん、どこの団地だった?」


「初子さんは、うちと一緒の市営。確か三棟の二階やね」


 庶民は金と権力を混同するきらいがる。いや、金持ちの勘違いで、周囲より優れた人間なのだと横柄になる故に、階級が存在しないはずの日本に暗黙の階級が存在するのだろうか。


 税金をたくさん納めているから偉いのか。その恩恵を受けているのであれば、それは否めない現実だ。男女の店員は、あれやこれやと初子がここで働いていたときのエピソードを饒舌に話した。初子と親しくしていたという部分を強調して、この大金持ちとの縁をなんとか繋ごうという魂胆が見え透いた。


 男性など、売店での仕事は薄給でいい仕事はないだろうかとまでお伺いを立てる始末だ。


 良一は、低調にお礼を言って売店を後にし、その足で市営団地へ向う。


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