第8話 思ってたんと違う!

 市営団地の三棟が見える駐車スペースで、二時間ほど待ってみるが、その日は、初子を見ることがなかった。


 築五十年以上の団地に、見慣れない高級車が運転手を乗せたまま長時間停まっていては目立った仕方ない。かと言って、三棟の二階住人を、用も無いのに当てずっぽうに訪問していては、すぐに通報されることだろう。ゴール目前にして暗雲が立ち込める…


 かと思われたが。


 意外にもあっさりと機会は訪れた。


 団地に通って三日目、腰を八十度近く曲げた老婆が、手押し車を杖代わりに、三棟の階段に向って、窓に張り付いた蛞蝓のようにゆっくりと歩いている。初子だった。


 良一は、即座に車を降り、偶然を装って初子に近づいた。


「手伝いましょう」


「これはどうも。でも、もう着きますから」


「お宅までお持ちしますよ」


 良一は初子の手押し車を片手で持ち上げ、もう一方の手を初子に差し出した。


 初子も悲鳴を上げる腰と膝の痛みには勝てないようで、見知らぬ若い男の親切に素直に応じた。


 玄関前に着くと、初子は礼を言って手押し車のポケットから鍵を取り出した。


「あの、僕、小さい頃ここに住んでいまして、中間さんではないですか?」


 初子は曲がった腰を七十度まで起こして顔を上げた。


「決して不審な者ではありません。息子さんのお仏壇に手を合わせても構いませんでしょうか?」


「善人のお知り合いか?」


「あ、はい、生前父親が親しくして頂いて、僕も小さい頃に何度か遊んでもたいました」


 初子は皺だらけの目尻を一層下げて、嬉しそうに微笑んだ。


「そうね。それはあの子も喜ぶでしょう。汚しとりますがどうぞ」




 初子は家の中に良一を通すと、冷蔵庫から麦茶を取り出し、曇ったガラスのコップに注いだ。その麦茶は煮出して何日も経っているのか滑って濁っていた。


  良一は仏前に置かれた遺影で前世の自分の顔を思い出した。そう悪くはない。自分で自分を拝むのもおかしなことで、安らかに眠って下さい。とか、天から見守って下さいという参拝のセリフが出てこない。


 なにしろ、善人は二十年前からあの世にはいないのだから。


「罰当たりな息子よ。親より先に行って」


 初子は溜息と一緒に、憎しみを込めた声で言った。


「お寂しいでしょう。お気持ちお察しします。善人さんも天からお母様のお幸せを願っておられます。亡くなられてから精一杯親孝行をされているのではないでしょうか」


 良一は、眉毛をハの字にして精一杯の慰めの言葉をかけたつもりだった。




「フッ」



 初子は鼻で息を吐いた。



「えっ?」



「なにを、それらしいこと言ってから。死んだら終わり。うちはね、天国とか地獄とか信じとらん」


「あ、いえ、そうとも言い切れないのでは…?」


(実際にあったんだって。ちょっと聞いていたのとは違ったけど)


「それにあんた、うちが寂しいって? 見縊ってもらったら困るね。うちはね、あの子が行ってからが一番いい人生やった。できの悪いこぶつきで男が寄って来なかったけど、早く死んでくれたおかげで、うちは婆さんになる前にもう一回女として生きられたんだからね」


 初子は、さっきまでの老弱ぶりから、どこにこんな気力が残っていたのかというほど、瞳を燦燦と輝かせて楽しそうに思い出話を語りだした。



「そりゃあ、もてたよ。もともと器量は良かったのに若気の至りで一回目はろくでなしに嫁いでな、ぼんくら息子の世話で自分の楽しみは後回し、あの三十年はもったいなかったね。あいつは社会人になってからも迷惑の掛け通しで、心も財布も休まることがなかった。 けどね、あいつが行ってからは、一人息子を亡くした哀愁が人を惹きつけてね、地主にスナックを買ってもらってからは、毎晩のように客にきれいだ、いい女だって誉めちぎられて。スナック閉めてなければ、今頃こんなしみったれた団地で独居老人してないよ」


 初子の顔色はみるみる血色良くなり、十歳は若返って見える。


 だが、初対面の若い青年に好色話をペラペラと聞かせている時点で、頭の方はだいぶ弱ってきているのだろう。


 良一は驚きと失意で今にもここを逃げ出し、枕に頭を押し付けて泣き喚きたい気分だ。



(うそでしょ…この婆さんマジで言ってるのか? 目の前にいるのは仮にも元その息子だそ。息子を亡くして、さぞ、人生に絶望したことかと思っていたら、第二の人生満喫できましたって言わないばかりの、この語りよう)



「でもね。今になってわかったよ。浮かれて口先だけの男に走って、ちゃあんと弔いしてやれなかったから、罰が当たったって。スナックのママなんて五年も続きはしなかった。雇った若い子にあっさり乗っ取られて、貯金もなし、身内もなしであるのは明日の不安だけ。今更、あの子に早く迎えに来てくれと仏壇拝んでもね」


 若い頃の武勇伝の語り草とは打って変わって、焦点の合わない目で仏壇の方をぼうっと見ている初子は、指先一本で倒せそうなくらい小さく、骨と皮だけの体からは魂も半分抜けているのではないかと思うほど生気を感じられない。



(一体どっちなの? 僕が死んで良かったけど、年老いたら頼る人間いないから困っているって、都合良いよな。とは言え、この人は紛れもなく、僕を女手ひとつで育てたし、俺が一人ぼっちにしてしまったのだ。今の僕にはお金の支援はいくらでもできる。でもどうやって? 理由は? 傍からから見れば何の縁故もない老人の足長おじさんならぬ、足長青年になれるのか? 第一この世代は人の世話にはなりたくないって思っているんじゃないのか?)




 良一は、初子の曲がった背中を見つめながら、どうするべきか考えていた。




『コンコン』


 

 暫しの沈黙が漂うなか、玄関扉をノックする音が響いた。






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