第6話 母をたずねて4千里

 ―成人期―


 良一は無事、有名私立大学の受験を突破し、善財家を出て一人暮らしを許された。


 とは言え、週に二回はハウスキーパーが来て掃除、洗濯をして行くので、監視は解かれていない気もするが、それでも仮面夫婦に機能設定されたロボットのように、自我を持たない生活からは開放された。お笑い番組を見て、大口開けて笑ったって、カップ焼きそばを食べてジャンキーなソースの匂いを部屋に充満させたって、ティッシュペーパーがゴミ箱からはみ出ていても気にしなくて良い。たまにはセクシービデオだって見たいものだ。


 しかし、これからが本番、これまではあの世間体第一の両親のおかげで良い青年でいられたが、ここで気が緩んで前世のような体たらくになってしまっては、一気に悪ポイントを重ねてしまう。お金は十分すぎるほどある。借金やギャンブルの問題はクリアだ。寄付活動だってできる。


 そもそも、環境が違うのだから悪い友達ができることもない。すでにこの二十年間、欲を捨てて生きてきたので、悟りを開いたようなものだ。あの好色まみれの菩薩の爺さんなんて相手じゃない。もしかして、あの世ですぐに如来様とやらにスカウトされるんじゃないか?


 大学からの帰り道、良一はにやけが止まらない。


 (それにしても大学生って暇だな)


興味のあるサークルもいくつがあるのだが、両親の内偵が済むまでは入部を許されていない。


 ふと、良一は考えた。ふと、というよりは、ずっと考えていたが実行する勇気がなくて忘れていたフリをしていたのかも知れない。




「前の母さん、どうしてるかな」


 中間善人の母親のことだ。


 良一は地図アプリを開くが、住所が思い出せない。たしか、団地だったよな。近くに何があった? 思い出を辿るがこれと言って特徴的な光景は浮かばない。


(たしか、小さい頃、何度か父ちゃんと競艇場に行ったよな)


 その時、目の前で見たボートレースの轟音と白熱するギャラリーに興奮したのを覚えている。


  良一は競艇場を検索する。


(なんだよ。全国に24場もあるのか。あの世でも僕は標準語だったし、東京だった筈だけど、東京だけでも三箇所もあるじゃないか)


 良一は更に考える。ATMのような機械から札束を取り出す光景がフラッシュバックした。その次に、友人ら三人と夜のネオン街で大騒ぎしている光景が続く。



「そうそう。大穴当てて七十万円をゲットした日があった。あれはどこだ?」



 ブーイングと野次が飛び交う中、ボートがゴールして、選手が拳を突き上げている。その向こう側に大きな吊り橋が掛かっている。


「競艇場 吊り橋」


 検索結果 ボートレース戸田 埼玉県戸田市…


「埼玉県民だったのか。探せるだろうか」


 良一は自宅のパソコンで埼玉県の団地とその近辺の画像を片っ端しから検索し、七つの地域に候補を絞った。現地に行けば何か思い出すだろう。


 その週末、初心者マークをつけた最新鋭の電気自動車は法定測度を一キロもオーバーしない安全運転で東京の県境を越えた。運転の練習に付き合ってくれたのは佐納だ。


(さて、現地に到着したはいいものの、それからどうする? 出入りする人をひたすらここで監視するか?)


(いや、サスペンスドラマの刑事じゃあるまいし、都合よく「やつに動きがありました」とは行くまい。不審者扱いされて、通報からの職務質問がオチだ)


(とりあえず、郵便受けでも見てみるか、表札にピンとくるかもしれないぞ。にしても、残っている記憶が抽象的なんだよな。画像としては浮かぶんだけど、活字が全く出てこない。母親の名前どころか、自分の名前さえ思い出せないんだ。戒名が優楽浄人善士だったのは覚えているけど)


 ひとまずコインパーキングに駐車し、各棟の郵便受けを見て回るが、表札があるのは三割ほどで、良一の足を止める苗字はなかった。


 戒名六文字とは、ヒントにもならない。生前、徳を積んで十一文字もあれば、名前が一文字か二文字織り込まれることも多いようだが。徳を積むとは、檀家の渡すお布施のことだ。


 三件の団地の偵察を終え、次に向かう道中、先行の車が続々と右折する交差点で誘導員が赤棒を振っている。元母親探しに早くも限界を感じ、半ば諦めモードの良一は、その煌々と光る赤棒が人生の岐路の道しるべかも知れない、と思い込むことにした。


 実のところは、無計画で無謀な探偵ごっこに飽きて、それを止める理由が欲しかったのだ。百メートルほど先で右折を繰り返すと、前の交差点で誘導された渋滞に合流することができた。運転初心者なうえ、慣れない道で前方以外に目を配ることができずにいたが、渋滞に差し掛かったので外気を吸おうとウインドウを下げる。




 『ゴォーーーーーン』


 いくつかの轟音が重なり、その響きに心臓が共鳴して早鐘を打つ。


「こ、これは…航空自衛隊?」


 良一は渋滞の先にある駐車場入口の看板を確認するより一瞬早く、嘆いた。





(ボートレース場じゃぁ~ん。 まずい、まずい、善良市民はダメなの。ギャンブルダメなの。前世で失敗しちゃっているの。そもそも、僕未成年だし。一発アウトじゃないか)


 引き返そうにも、渋滞に巻き込まれて身動きが取れない。じわりと掻いた冷や汗もひき、次第に頭がずる賢く回転を始める。


(前世では、負けまくってイライラして、八つ当たりしたから悪ポイントが点いただけだよ。賭けなきゃ問題ない。いや、百歩譲って、百歩割込みして、賭けたところで、今世は大金持ち。痛くも痒くもないんだから、八つ当たりなんて、品格を備えた今の僕には有り得ないこと。入場して散らかったはずれ船券のごみ拾いでもしとくぜ)


 なんともポジティブ変換の上手い男。それもそのはず、この世の不都合はお金があれば大抵方がつく。金持ちにネガティブに生きろと言うのは難しい要求だ。 



 交通誘導員のリズミカルな棒降りに踊らされて、車はみるみる駐車場に吸い込まれて行く。 




『SGボートレース オールスター』


 SGとは年に八回開催の大イベント。平日の一般戦とは違い、耳に赤ペンを挿して、スポーツ新聞を握り締め、講釈を垂れる中高年ばかりが客ではない。学生のグループやカップル、子連れのファミリーも多く、一見、気品と仕立てのいい服を纏った良一が紛れていても人目を引くことはなかた。




 いざ、場内に入ると、目の前の大パノラマで繰り広げられている白熱したレースが、それに興じて沸きあがる歓声や嘆き声が、排気量四百CCのモーター音が良一の本能を揺さ振った。


(あぁ、いいなぁ。みんな真剣で、みんな自由だ。自分の運と勘を信じて、この後の食事の中身を決める戦いでアドレナリンを放出している)



 将来は決まっている。一流大学への進学も規定路線。部活動に打ち込むこともなければ、幼い頃に友人と公園で服を汚したこともないし、この年まで女の子とデートもしたこともないから、快感や興奮を味わったことがない。 


 良一の人生はこの先もゴールがはっきり見える水平線で、漣さえ起きることは無いだろう。船の着順を予想するように、自分の人生を自由に選択することはできないのだ。


(ダメだ。普通に考えてこんなラッキーな親ガチャはない。全世界人口の九割以上は僕を羨むだろう。とにかく、このままいけば次は永久ビザ間違いなし。ここで失敗したら次はどんな親元に送られるかわかったもんじゃない。それこそ究極のギャンブルだ)



 良一は引かれる後ろ髪を必死で振りほどき、来た道を引き返すが、途中、四、五人の行列に突き当たり、足を止めた。


「なんだか懐かしい匂いだ」


 揚げ物、コーヒー、煮込みのようなジャンルを問わない様々な匂いが混じり、前世の記憶を蘇らせる。



(売店か。こういうの食べてないな。ソースとマヨネーズがどっぷりかかったギトギトのハムカツ、キャベツと豚肉だけのボソボソしたやきそば、コクがなくて甘いだけのソフトクリーム。外で食べる特別感がまた最高なんだよ)



 良一は行列の最後尾に並んだ。


「はい、いらっしゃい!」


 腰の曲がった高年女性が前の客のもつ煮を紙皿によそいながら振り返った。


「えっと。ハムカツと豚汁と…」



 カウンターのメニュー表から顔を上げた良一に、濡れ手でコンセントを触ったかのような強烈な衝撃が走った。



「母さん?」


「ハムカツと豚汁と、何ね?」


 無論、あちらは良一の姿に見覚えはない。何の反応もないのは当然だ。


「あ、いや、それでお願いします」



(覚えている。しゃがれた声、筆ペンで描いたように跳ね上がった眉尻。鼻の脇の小豆大のほくろ。間違いなく母さんだ…前の)


 カウンターにハムカツと豚汁が出されると、後ろのおじさんが咳払いをして急かすので、会計を済ますと、この日はそれ以上何もできなかった。


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