んだの。

ぴとん

第1話 んだの。

「インクきれった」


高橋がポスター紙にカスカスの線をなんども引き直すが、一向に濃い線が浮かび上がらない。


「でってまんず…」


 先ほどまでバカ話で騒いでいた渡部も、それを聞いて嫌な顔をする。もうすぐ完成で帰れると思っていたところにこれだ。気落ちするのも無理はない。


「出ね〜」


 諦めきれない高橋は、ペン先を指で擦る。わずかに残ったインクが、指だけを汚す。


「ちょすなちょすな」


 私は、高橋からペンを取り上げて、ゴミ箱に捨てる。


「工藤、なしてピンクで書いたな」


 ポスターの書き始めを担当した私に、非難の目が集まる。私は口を尖らせた。


「こっちのほう見やすろ」


「んー……そうでもねな。最初から赤の方よかったんね」


「今更文句言うなちゃ」


 ポスターの文字はここまでピンクマーカーで統一して書かれている。中途半端な段落から別の色に変えるのは違和感だった。


「しかたね。隣のクラスに借りてくっさげ別のことしてれ」


「もっけだ」


 高橋は、重い腰を持ち上げて、他のクラスにピンクのマーカーペンがないか聞いて回ってくれた。


 でも私と渡部はその間、とくに他の準備班の手伝いをすることなく無駄話に花を咲かせていた。


「えー?あのふたり付き合ったんね?」


「んでねって。太田は中林さんこと好きって言っとったっけ」


 私たち2人は、クラスの中でも不真面目な方であった。この文化祭の準備の役割分担でも、いかに楽な仕事で済ませられないかと考えを巡らして、このポスター係に立候補したのだ。


 高橋が帰ってくるまで、ついに私たちは1ミリも作業を進めず待っていた。


「……なんもやってねの。期待はしてねかったけど」


 高橋が白い目で私たちを見てくる。渡部は悪びれることなく、手を出す。


「ペンねがったらなんもできねし。んで、あったっけ」


「ね」


「ねな?一本も?」


「ねって。どこのクラスもピンクはインク切れったけ。あんま使わね色だし」


「んだの。ピンクは使わねよの」


 高橋と渡部は、また私を見る。責任の押し付け合いが始まりそうだった。


 不毛な争いを避けるため、私は提案する。


「んだば、じゃんけんして負けたひとがマーカー買ってこいばいじ。予算でったしお金もらえるろ」


「……外あっちの〜」


「でも誰かが行かねばの……」


 露骨に嫌そうな顔をする渡部。高橋もこれ見よがしに、額に浮かんだ汗を拭った。


 こいつらは許し難いことに、か弱い女子である私に買いに行かせようとしているようだった。


 これは負けられない戦いだった。


「せば。じゃーんけんぽん!」


 私たち3人は、拳を思いっきり振るって手を出す。チョキ、チョキ、パー。


「いてこい」「んじゃの」


 手を振る高橋と渡部。


「地獄さ落ちれ!」


 私はギリギリ歯を食いしばりながら、教室から出て行った。




 自転車置き場で鍵を解除しながら、頭の中で地図を思い浮かべる。


 学校近くの文具屋は2年前つぶれた。コンビニは周辺にない。となると、マーカーペンが売っていそうな最寄りのスポットは100均くらいだ。


 自転車で約15分くらいかかるだろうか。往復なら30分。こんな真夏に酷な話だった。


 こうなったら、帰りに自分だけアイスを買ってきて、あいつらの前で食べて羨ましがらせよう。心に決めて、ペダルを蹴る。


 校門を出ると、すぐ川沿いの土手道に出る。涼しい風がわずかに頬を撫でるが、並木にしがみついた蝉のうるささに、爽快感は打ち消される。

 

「あーもうー」


 誰ともすれ違わない土手道を、ぶつくさ文句を言いながら、自転車で走る。制服のスカートを履いてスピードを出すのは、すこしはしたなかったが、気にしてもいられない。


 この日は皮肉なことに、青空だった。太陽は容赦なく照らしつけてきて、冬場ではあんなに嫌だったはずの曇り空のありがたさを知る。


 橋を横切ると、また橋に差し掛かる。大きな川なので、至るところに橋がかかっているのだ。


 幾台もの車が、自転車道を走る私を追い越していく。


 はやく私も免許をとりたい。そうすればもっと好きなところに行けるのに。


 そんなことを考えながら、自転車を漕いでいくと、いつのまにか100均にたどり着いた。見慣れた風景は時間の感じ方をバグらせる。


 店内は冷房で涼しく、天国のようだった。すぐさま文具コーナーにあったピンクのペンをむんずと掴み会計するが、外の暑さを考えると、途端に出たくなくなった。


 夕日が沈むにはまだ早い時間。太陽は口を開けて笑っている。


「…………」


 私は出入り口の自動ドアまで来て、踵を返すと、アイスクリームコーナーに直行した。100円の、見たこともないようなメーカーのアイスバーを手に取る。


 ついでに熱中症も心配になったので、レジ横の塩タブレットも一緒に会計する。


 駐車場の日陰で封を開けて、私はアイスバーに齧り付く。ひんやりとした甘みが口に広がる。


 コンクリートの地面がジリジリと揺らいで見える。こんな日に外に出るなんて、馬鹿のすることである。


「……………。よし」


 アイスを食べ終わって、伸びをした私は、覚悟を決めて、日向に踏み出す。


「さぁいぐか」


 ペダルをまた漕ぎはじめた。


 復路でまた長い橋に差し掛かると、前方にランニングしてる運動部がいた。こんな真夏に正気ではない。何部だろうかとメンバーの顔を覗くと、最後尾に知り合いの顔を見つけた。


「杏ちゃん部活がんばったの」


「……ん、ミナミちゃん!どこさ行くな?」


 クラスメイトの杏ちゃんは、足を止めた。私も自転車を止める。


 ランニング集団、他のテニス部の連中は最後尾のサボりに気づかず、そのまま学校の方向へ走っていく。引き離されているのに、杏ちゃんは余裕そうだった。内心、休む口実が見つかって喜んでいるのかも知れなかった。


「私もがっこさ戻るとこ。マーカーペン買ってきた」


「あー文化祭準備な。ありがとの、やっでくれて。私の当番は明日ださげ」


 杏ちゃんはにこっと笑った。私は彼女の頭を撫でる。


「めんこいの」


 杏ちゃんは背が低く、小動物のようなので、クラスのみんなに可愛がられている。さきほど後ろから走る姿を見たときも、まるでリスのようだった。


「あ、これあげっか。け」


 私は塩タブレットを一粒手のひらに乗せて、杏ちゃんの口元に差し出す。彼女は、きょとんとそれを見ていたが、求められている仕草を察して、ひょいっと犬食いで塩タブレットを口に入れた。


「んめの」


 頬袋で転がす杏ちゃん。ほんとにかわいい子だ。


 部活中にあまり足を止めさせても悪いので、そろそろ私も去ろうとする。


 が、自転車を押すと、違和感が生じる。タイヤを確認すると、空気が抜けていた。


「パンクしった……」


 絶望感のある目で、杏ちゃんを見ると、笑いを堪えていた。


「あんら、めじょけねのー」


「笑いごとでねって……」


 ため息をつく。ここから学校まで自転車で10分の距離。つまり、自転車を押しながら歩いたとしたら倍くらいの時間がかかる。


 見かねた杏ちゃんが、助け舟を出す。


「お父さんに迎いきてもらえば?マーカーは私もってくから」


「いな?」


「いで。塩タブレットもらたし」


 杏ちゃんは、バトンのようにマーカーを握って学校に走って行った。


「高橋と渡部によろしくのー」


 小さな背を見送って、さてどうしようかと考える。


 親にはもうLINEはした。17時半くらいに車で迎えに来てくれるそうだが、どこで時間を潰そうか。


 川の向こうに視線を動かすと、目に入ったのは、砂浜に続く道であった。この川は海につながっているのだ。


「海さ行くのもいの」


 私は鉄の塊となった自転車を押した。


 

 パンクした自転車を倒して、草木の生えた小道を進む。


 小道を抜けると、一面に砂浜が開けていた。

 

 この砂浜は、いちおう砂丘とも呼ばれているらしい。海沿いに何キロも続く砂浜は、果てしなかった。風が吹くと砂が舞うので、口を閉じながら、波打ち際まで行く。


 靴を脱いで、靴下もその中に押し込める。


 裸足になった私は、水に足を浸けた。


「やばち……はっこい〜」


 水の中のザラザラとした砂の粒の感触は少し気持ち悪かったが、冷たさの快感のほうが勝った。


 私は年甲斐もなく、はしゃいで、パシャパシャと水平線に向かって足をすすめる。


 スカートをたくしあげて、膝元まで水に浸かる。ゾワゾワと波がふとももを撫でてくすぐったい。


 このまま服をぜんぶ脱いで海に飛び込みたかったが、後始末を考えて断念する。


 この砂浜は、大昔は海水浴場だったが、近くに整備された別の海水浴場ができたため、いまはなににも使われていない。


 あたりを見渡しても、ひとっこひとり歩いていなかった。


 だだっ広い灰白色の砂浜と、嘘みたいに青い海。そして、風の吹くままに羽を回す、真っ白な風車が、向こうにいくつか並ぶ。たったそれだけの光景。


 絵に描くのなら、手抜きかと思われるほどにシンプルなものしかない景色だった。


 それだけに、なにもものを考えずにいれた。


 この街に生まれて、この街で生きてきた。新しい建物なんて滅多に作られず、どこもかしこも見飽きたものばかりの田舎町。刺激なんてどこにもない。


 ただ綺麗なだけ。ただ、ただそれだけ。


 文化祭が終われば、受験シーズンに入る。大学に進学すればもうこの街に戻ってくるのも年に2〜3回程度になるだろう。


 ぼーっとしていたら、水面がキラキラと光り始めた。太陽が海に沈もうとしているのだ。


 茜色に染まる空を目に焼き付けて、私は海からあがった。


 ピコンと通知音がして、スマホを見ると、杏ちゃんからLINEが来ていた。


 開くと、完成したポスターの画像が貼られていた。


『できったけ。後輩のクラスから借りてきたんだと』


「えぇ……」


 げんなりとした私の気を晴らすためか、続いてもう一つ画像が送られてくる。ピンクマーカーで顔を落書きされた高橋と渡部の画像だった。


「ふふっ……」


 思わず笑いがこぼれてしまった。


 杏ちゃんは、スタンプとともに、『もっけだの』と続ける。


 既読をつけた私は、それに対して、海の写真を撮って送ろうとする。


 と、送信ボタンを押す指が止まる。


「…………ふふっ」


 なんでもないただの寄り道だけど。


 なぜか内緒にしたくなったのだ。


 私は杏ちゃんに、ぷんぷん怒ってる犬のスタンプを送った。


 すると同時に、渡部からもLINEが来た。


『ケサランパサラン見つけた』


 白い綿毛の画像が添えられていた。


「………」


 これは既読無視して、私は夕焼けを見ながら、お父さんのお迎えを待ったのだった。

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