帰郷

尾八原ジュージ

第1話

 県境をみっつ超えて、もう何年も帰っていない実家に帰った。一週間前、同じく何年も近く会っていない妹から電話がかかってきたからだ。

『もう実家を売ろうと思って』

 ひさしぶりに聞く声は、それでも確かに妹の声だとわかった。『いいでしょ、全然帰ってこないんだから。半分は兄さんの名義なんだから、とにかく一度帰ってきて』

 そういえば父の相続のとき、そういう面倒なことになっていた。父は闘病の末に死んで、母はとっくの昔に家を出て行ったきり音沙汰がない。

 帰省は父の葬儀以来だ。ひさしぶりに見る故郷は、一言でいえば田舎だった。美しい日本の原風景という感じではなく、町が寂れ続け、世間から取り残されて物悲しい土地になったという風情だった。車に乗って通り過ぎた通りの両脇にはシャッターを閉めた店が軒を連ねている。人通りはない。まるでゴーストタウンのようだと思った。

 実家は一軒ぽつんとはぐれて建っている。子供の頃からひどいボロ家だった。何せ土間があるのだ。今風のお洒落なものではなく、単に古い建物を改築もせずに使い続けているというだけだった。風呂と便所は母屋から独立して庭の中にある。便所は当然のようにぼっとん便所で、夜尿意で目が覚めたときなどは絶望感を覚えたものだ。

 この家に妹は何年もたった一人で住み続けている。よくもまぁと思うが、こんな家でも妹の心のよりどころだったのだろうか。

 おれは建付けの悪い玄関の引き戸を開け、少しとまどいながら「ただいま」と声をかけた。

 返事はなかった。玄関を見ると、女物と思われる色あせたサンダルが一足置かれていた。中にいるのだろうか。自分の実家だからかまうまいと考え、三和土で靴を脱いで勝手に上がった。

 家はしんと静まり返っていた。妹はどこかに出かけているのだろうか。数年ぶりだというのに懐かしい匂いがした。台所を覗くと薄緑色の古い冷蔵庫がまだ稼働しているのを見つけた。何年働かされているのだろう。電子レンジだけは新しいものになっており、こういうものを買い替える余裕はあるんだなと少し安堵を覚えた。

 喉が乾いていたことを思い出し、冷蔵庫を開けた。扉のポケットに麦茶を入れたガラス容器があるのを見つけた。この容器も相当年代物のはずだ。食器棚からコップをとり、注いだ麦茶を勢いよく飲んだ。

 途端におれはそれをタイル張りの流し台に吐き出した。おかしな味がする。少量飲んでしまったようで、喉の奥がむかむかした。腐っていたのだろうか? 一体いつ作った麦茶なのだろう。それか、同じ容器で麺つゆでも保存していたのか。そういえば昔、祖母がそういうことをよくやっていたと思い出した。

 祖母は陰気なひとだった。気づくと土間の隅に蹲って恨み言を呟いているような女だった。ああいう女に妹もなったのだろうか、とふと思ったとき、どこからか視線を感じた。

 おれは妹の名前を呼びながら振り返った。返事はない。誰かに見られている気がする、と思ったのだが。

 覗き込んだ土間に妹の姿はなかった。居間にも仏間にもいなかった。仕方がないので、おれは懐かしい家をのんびりと歩き回った。

 昔のことがとめどなく思い出された。良い思い出はあまりない。朝帰りしていぎたなく眠っていた母のだらしない姿。父がなにかというとおれたちを怒鳴りつけたこと。出て行った母への呪詛を妹だけに浴びせ続ける祖母の声。

 自分も良い息子、良い兄ではなかった。介護が必要になった父を妹に押し付けて家を飛び出した。父の遺言に「財産はふたりで公平に分けろ」と書かれていたのをいいことに、遺産はきっちり折半した。介護の苦労のためにすっかり窶れて老けた妹に、金銭面で報いてやろうともしなかった。一円でもいいから金が欲しかったのだ。当時、おれは横領がばれて勤務先を馘になっていた。

 今もろくな仕事にありついていない。今日も妹に会えば金を無心するだろう。実家を売却するなら一円でも取り分を増やしたい。自分でもあさましいと思いながら止められなかった。

 妹はまるで姿を見せなかった。そこここに生活の気配が残っているような気はするが、空き家のように森閑としている。時折視線を感じた気がしたが、勘違いかもしれなかった。居間に置きっぱなしになっていた新聞を拾い上げ、ページをめくってみた。

 その時である。

 腹がグルルルルルと音を立てた。ただならぬ気配――というか水っぽい大便が一気に腹を、腸を下ってくる。さてはさっきの麦茶がまずかったか。そんなことを考えている間に奔流はあっという間に直腸へと達し、中から外へと門をこじ開けようとし始めた。

 おれは腹筋に力を込め、内股でよちよちと廊下に出た。トイレは庭である。靴を履いて出なければならない。今この非常時にこの距離は遠い。あまりに遠い。だが超えねばならない。さもなければ、ひさしぶりに会った兄が家の中でうんこを漏らしていた、などという悲劇が妹を襲うことになるし、おれの尊厳もそのとき死ぬ。たとえもう半分がた死んでいるような尊厳であってもだ。たとえ実家であろうと、しかるべき場所以外での脱糞のインパクトは軽くない。早々に流して忘れることなどできまい。糞のくせに流せないとはクソである。

「フウゥゥゥ」

 さながら闘いの前に呼吸を整える武術家のように呼吸を整えながら靴を履き替え――ている途中にちょっと出た。油断した。慌てて肛門をキュッと閉じ直し、靴のかかとを踏みながらペンギンのような歩き方で外に出た。

 便所だ。ともかく便所に向かおう。もはやぼっとんがどうとかと言っていられる場合ではない。漏らしたくない。その思いだけがおれを支え、前進させていた。

 家の角を曲がって少し歩くと、ようやく栄光の扉が目の前に現れた。便所である。ここまでの距離がおれには果てしなく長く思えた。おれは神仏に感謝しながらその扉を開けた。

 途端に臭気が鼻をつき、蠅の羽音がブゥンと耳を襲った。壁にぶら下がっているスイッチを切り替えると、天井の電球がぱっと明るくなった。

 相変わらず酷いトイレ――いや、トイレという感じでは到底ない。かわやと呼ぶ方がふさわしい。土間と共にタイムスリップしてきたかのようなぼっとん便所には、もはや便器すらないのだ。板の間に細長い穴が空いているだけの、おそらく博物館でしかお目にかかれないような代物である。片隅には便所紙の束が置かれている。トイレットペーパーなどという洒落たロールペーパーはない。四角く切った紙が重ねて置かれているのだ。何も変わっていない。こんな場合だがうんざりして溜息が出、呼気と一緒に何かが出そうになってぎゅっと口を閉じた。

 この穴に何か落としたら終わりだ。ズボンを脱ぐ前にスマートフォンを取り出し、近くの床に置くほどの余力は残っていた。いよいよベルトを外し、ズボンとパンツを下ろす。パンツになにか茶色いものがついているのは見なかったことにして、縦穴の上に跨ろうとしたその時、おれの足が床板を踏み抜いた。

 あっという間に暗い穴の中に足が吸い込まれ、おれは脱糞しながら便壺の中に落ちた。こんなときでも脱糞は快楽である。軽やかな自由が頭の中に満ちる。開放感に浸っているうち、あっという間におれは糞の中に胸まではまって動けなくなった。

 頭上には長方形の穴が見える。おれが踏み抜いた分やや歪になっているが、ひどく小さいものに見えた。

「おーい!」

 おれは便所の外に向けて叫んだ。息継ぎをすると臭気が胸の奥まで入ってきて、思わず嘔吐した。口の中でブンと音が鳴った。蠅だ。おれは慌ててそいつも吐き出した。

 呼びかけに応えるものはなかった。妹はまだ帰っていないのだろうか。近くには民家も商店もなく、人通りも極めて少ない。もしも妹が戻る前に顔まで沈んでしまったらどうしよう。そう考えるととてつもない恐怖がおれを襲った。おれはパニックに陥りかけ、大量のブツの中で漕ぐように手を動かした。

 その時、何か硬いものが手に引っかかった。

 引き寄せると、それは糞まみれになった人間の頭だった。腐敗して骨が露出しかけているが、長い髪が残っている。どうやら女らしい。

 とっさに思い出したのは妹のことだった。そうか、いくら呼んでも返事がないのはこういうことだったのか。冷蔵庫の中の麦茶が古くなっていたのも、交換する人がいなかったからなのか。

 妹はここで一人死んでいたのだ。普通なら落ちるはずもないが、おそらくおれと同じように古くなった板を踏み抜いたのだろう。そして孤独と絶望の中で死んでいったのだ――怖ろしいほどの孤独と哀れさを覚えた。家の中で感じた視線は、彼女の幽霊だったのかもしれない。おれに助けを求めていたのではないだろうか。

 ひさしぶりに、小さな頃そうしていたみたいに、おれは頭蓋骨を撫でてやった。あたたかい涙がぼろぼろとこぼれた。

 そのとき、頭上でみしりと音がした。

 誰かがいる。そう思った瞬間、雷に打たれたようにおれはあることを思い出した。

 おれが妹から電話をもらったのは一週間前だ。いくらなんでも死体の腐敗が進みすぎているのではないか。それに、もしも妹が便所の床板を踏み抜いたのだとしたら、それを元に戻したのは誰だ?

 頭の上に人間の顔が覗いた。

 今度こそ妹だった。

 何年か越しだが間違いない。助けを求めて手を伸ばすおれに、妹は薄ら笑いを浮かべると、

「それ、お母さんだよ」

 そう言った。

「お茶に薬入れて、トイレの踏み板を薄いやつに変えておいたら、兄さんみたいに簡単に落ちてったよ。わたしに何もかも押し付けて出て行ったこと、ずっと恨んでたって知ってた? どいつもこいつも、この家とくそ親父をわたしにおっつけやがって」

 双眸に憎しみが輝いていた。

 おれは妹の名前を呼んだ。息が続く限り何度も呼んだ。詫びるつもりだったが、そんなことは無駄なのだろうとわかってもいた。

 妹は薄ら笑いのままこちらを眺めていた。が、やがてその顔が引っ込み、灯りが消えて、便所の戸を開閉する音が聞こえた。もう何も見えなくなった。

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