第1話 紙飛行機

 春のにおいを乗せたやわらかな風が、ときおりレースのカーテンをなびかせる。


「はあ」


 僕はため息をこぼしてから、周囲を見まわす。

 まっしろの壁。小型のテレビ。サイドテーブル。見なれない子機。

 そして、


「・・・・・・」


 おしりに体重をかける。ぎしりと音が鳴った。

 この無機質なベッド以外には、これといったものはなにもない。


 僕はベッドから立ち上がって、すぐそばの窓に歩みよる。

 窓の外はいっぱいのピンクで色づいている。四月も上旬になれば、八坂市はきほん桜が満開だ。雲ひとつない晴天。野鳥のさえずり。今日は絶好のお花見日和といったぐあいである。


「はーあ」


 いっそう深いため息がこぼれる。

 僕がこうして入院なんてしていなければ、きっと公園なんかでレジャーシートの上に美味しいものをいっぱい並べて、のんびりお花見を満喫していたに違いない。


 ・・・・・・まあ、いっしょにお花見する友人なんてだれもいないんだけど。


 と、そんなことを考えていたら小腹がすいてきた。

 タイミングを見計らっていたとばかりに、ぐーとおなかからも景気のいい音が鳴る。


 僕は病院内にコンビニが併設されていたことを思いだして、病室をあとにした。


 *


 この八坂市立病院のお世話になるのは、今回がはじめてではなかった。


 一回目は、幼稚園に通っていたころの話になる。

 その幼稚園には、クラスメートとおにごっこをして遊ぶという、ただそれだけの授業があった。なんとも子どもらしい、平和の象徴のような時間だ。

 

 ある日、その授業のなかで僕は頭から出血をともなう怪我をした。


 理由はじつに単純だった。

 おに役から逃げるのに必死になるあまり、前方不注意でアスレチックと激突したのだ。


 それまたなんとも子どもらしいことだろう?

 まあ、ぜんぜん平和的ではないのだけれど。


 そうして、ハイエースバンで先生に連れていかれたのがここだった、というのが一回目だ。

 ちなみに四針も縫うことになったくらいには、けっこうな怪我であった。


 そして二回目は、一七歳になってすぐの話になる。


 ただの風邪で、幻覚を見て、救急車で運ばれて、とくに異常はなかったけれど、念のため経過観察となり、そのまま二週間の短期入院。

 以上だ。


 いささか端的すぎやしないかって?

 僕だって文字どおりのことしか知らないのだから、むちゃ言わないでほしい。



 一階のエントランスホールで、僕は受話器を耳に押しあてる。かれこれ一〇〇円分くらいは、一〇円玉を入れているのではないだろうか。

 

 周囲一帯には白を基調とした、清潔感のただよう空間が広がっている。数えるのもおっくうになるほどの待合席。ときおり数字が表示される電光掲示板。ぽつぽつとある観葉植物の緑がまた、いい感じに有彩色と無彩色のコントラストをつけている。


『それじゃあ、あとで下着とか持っていくから』

「はいはい。あ、僕のスマホも忘れずにね」

『うるさい。ただの風邪で幻覚なんか見て、ほんとお騒がせな息子だよあんたは』

「それちょっとひどくない?」

『知らないよ。もうほんとうに心配したんだから。とにかく悪いところがなにもなくてよかったわ』

「それな」

『それな、じゃないよまったく。じゃああとでね』


 僕は受話器をフックにかける。

 それから、あらためて公衆電話のスタンドに置いていた一枚のメモ用紙に視線を落とした。


『あんたただの風邪で幻覚見て救急車で運ばれて、とくに異常なかったけど念のため経過観察になってそのまま二週間短期入院することになったから。とりあえずこれを読んだなら今すぐ電話かけてきなさい。一階に公衆電話あるから』


「これじゃだれが書いたかわからんでしょうが」


 僕はそうぼやいてから、メモ用紙をガウンのポケットにつっこんだ。

 まあ、なぜだか瞬時に母さんからだと理解できたのだけれど。あと読んでからしばらくぼーっとしていたのは、ほんの少しだけど反省しております。


「ともあれ・・・・・・」


 と、おもむろに片手を顔の前まで上げる。

 半透明のそれが、ゆらゆらと揺れうごく。


 公衆電話用のお金だったんだろうけど、二千円も置いていってくれてありがとう母さん! おかげでコンビニで買い物できたよ!


 そうして、用事を済ませた僕は家路ならぬ病室路に向かう。

 菓子パンとお菓子、それから飲み物でぱんぱんのレジ袋を片手に。


 *


 長々とした廊下を進んでいく。

 僕の病室は、この廊下のつきあたりを左に曲がって、さらにそのいちばん奥に位置している。つまり角部屋である。

 

 ちなみにここ七階の上には、院内地図によるとどうやら『屋上庭園』なるものがあるのだそうだ。退院するまえに一度は見ておこうと思う。


「・・・・・・」

 

 頭に包帯を巻いている人。点滴スタンドを押している人。車椅子を漕いでいる人。

 ほかにもじつにいろんな特徴のある人が、まばらながら行き交う。

 その人たちの邪魔にならないよう、僕は体をなるべく右端へ寄せるようにしていた。


 もう言うまでもないだろうけれど、さっきの二回目の話は、つまるところ現在の僕のことであった。

 起きたら知らない天井だった、なんてそれまではアニメかヤンキーの武勇伝のなかだけの話かと思っていた。もしかしたら僕は、現在進行形でけっこう貴重な体験をしているのかもしれない。まあ、不本意ではあるけれど。


 ・・・・・・しかし、今日から二週間もこんななにもないところで過ごさなければいけないとは、まったく困ったものである。


 さて、今後どう時間を潰したものか。

 僕は考えてみる。


 趣味という趣味はとくにない。

 読書はきらいだ。読んでると眠くなるから。

 ゲームはやらない。というかまずゲーム機を持ってない。

 テレビは見ない。シンプルにつまらないから。


 と、僕はつきあたりを曲がろうとしたとき、


 「いて・・・・・・」


 後頭部あたりに、なにかぶつかった感触。

 まったく痛くなかったけれど、反射的にそんな言葉がこぼれた。


 振り返ってみるが、なにもない。

 それから、ふと足下に顔を向けると、


「・・・・・・紙飛行機?」


 ぽとっと転がっている、ひとつの紙飛行機を見つけた。

 僕は小首をかしげて、それを手に取る。


 見たことのない形状の紙飛行機だった。

 先端が折られていて、なんだかカタパルトみたいな見た目をしている。


 と、そのときだった。


「――あ、ごめんなさい!」


 横手にあった病室から、そんなきれいな声が聞こえた。

 そのあとすぐ、また声が聞こえてくる。


「それ、風に飛ばされちゃって!」


 僕は目をしばたたく。

 それというのがこの紙飛行機のことをさしているのだと、その声のタイミングから瞬時に理解できた。


「あ、はい」


 そう事務的に言って、開け放たれた病室の前まで向かう。

 一歩、また一歩と。


 そして、


「あれ……? きみ、見ない顔だね」


 室内に顔をのぞかせると、そこには僕と同い年くらいの少女がいた――。

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