第2話 魔王さまのハートは世界でいちばん強い、のかもしれない
仕事が終わらない。
いや、日常業務はかろうじて終わっている。しかし、そこに加わった新たな業務に職場はてんやわんやの大騒ぎであった。
「あああん? それで? ユーイエさまはいつ帰って来やがるんですか!」
病院から上司が連絡事項を伝えるために魔術で飛ばしてきた依り代――小鳥のぬいぐるみで、強く握るとプゥと間の抜けた音で鳴る――を握りしめながら、同僚が罵声を上げている。ふだんは良家の出身者らしく品のいい物腰が板についている彼がここまで取り乱すとは、自分たちの状況は思っていた以上に厳しいのかもしれない。
自席で臨時予算のたたき台に目を通しながら、サリーユもそちらの会話に耳をすませた。上司の復帰がいつになるかで、ここから先の予定がだいぶ変わってくる。
『えぇ~、それがですね、こっそり仕事してることがばれて、入院期間ちょっと伸ばされてしまったんですよ』
すみません、と依り代から聞こえてくる上司――月燐花の宰相ユーイエ――の声がぼそぼそこもって聞こえるのは、布団にでももぐって話しているせいか。
「ふざけないでくださいよ! ジラッドの姫君が来るまでには復帰してもらわなくちゃ困るんですよ!」
同僚が強く握りすぎたのか、小鳥のぬいぐるみがプププゥーーーと非難するような音を立てて鳴った。
「わかってます! わかっていますから、そんな大声出さないでください!」
ばれちゃいますから、とあわてふためくユーイエの声を聞きながら、これはだいぶぎりぎりの復帰になりそうだな、と腹をくくる。
数日前――あの「世界の半分」なんてお戯れの二日後だった――に、月燐花の西にあるジラッド王国から、第一王女リリシャの訪問の打診があった。予定日時は半月後である。
本来であれば王族が他国を訪問する予定は歓待側の予定もかんがみ、もっと早い時期に連絡されるべきであるが、今回は非公式扱いの訪問であること、ジラッド王国が月燐花にとって無視できない友好国であることから、受け入れが決定した。
ジラッド王国の別名は魔術大国。国土はそれほど大きくないが、国民のふたりにひとりが魔術師であり、魔術研究の最先端を行く。
魔術は最低限の素質が必要とはいえ、魔族・魔物から人間まで、誰もが訓練次第で使えるようになる技術だ。もちろん、発動できる術の大きさや強さはもともとの素質に左右され、魔術師と呼べるものはひとにぎり。ジラッドほど国民における魔術師の割合が高い国家は他にない。
とはいえ、魔術はあくまでも技術、人間ができることの延長線上を実現するもの。対して、主に一部の魔族が使用する魔法は「世界の律」すら歪め、壊し、変化させることすらある一種の「奇跡」もしくは「禁忌」だ。
だが、同じく魔素を使う魔法と魔術の共通点は多く、魔術大国であるジラッドと、魔法を使う魔族の暮らす月燐花は古くから交流があった。
月燐花の友好国の中でも古い歴史と強いつながりがある国なのだ。
そんな国の第一王女が来るのだ。非公式の訪問、と言われても、何もしないわけにもいかない。
半月後までに歓待の準備を万事整え、月燐花の面目を潰さない出迎えをしなくてはならない。
たとえ、その実現のために残業に次ぐ残業が待ち構えていようとも。
「ぼくぅ、この山を越えたらぁ、長期休みをいただきますぅ」
「おっ、いいですねぇ。わたしもそうさせていただこう」
「あはは。いっそのこと、ここ締めちゃいましょうか!」
目の下にクマをつくり、うつろな目をした同僚たちが猛然と書類をさばきながら会話をしている。
『ええっ、ちょっと待ってください! みんなに一度にお休みとられると、ボクがまた倒れますよ!』
あわてふためくユーイエの声(小鳥経由)に同僚たちが「ユーイエ様もいっそ休んじゃいましょ」とそそのかす。
「あははは無理だってわかっているくせにそんなこと言うなんてひどいですよ」
「言うだけならただじゃないですかぁ」
「ぼくたちだって無理だってわかってますよあははは」
とても心がすさんでいるのが透けて見えて痛々しい。
「サリーユは? もしお休みがもらえたら、したいこととかあるの?」
隣の席のスーリンから声をかけられ、首をかしげる。
スーリンは職場では年の近い人型魔族の青年で、こめかみに二本真珠色の角がある以外は人間と見た目は大差ない。朗らかな性格で、よくサリーユのことを気にかけてくれる。
「そう、ですね。わたしの場合は、帰る家もありませんし――」
そう告げたところでスーリンの顔にあからさまに「失敗した」と浮かぶ。
サリーユの故郷は、一年前、月燐花にちょっかいをかけてロンシンの不興を買い、滅んだ。そのことは人間であるサリーユがこの職に就職する際にユーイエから同僚たちに説明されたので、別に隠されていることではない。
滅んだ、とは言っても、支配体制と名称が変わっただけだ。故郷のほとんどは被害なく月燐花の支配下に収まったが、サリーユの実家は被害を受けた「一部」に含まれる。あの街に行ったところで、サリーユの生家はもうない。その際に家族も離散したため、他の家族がどこでどう過ごしているのかも知らない。
ロンシンに聞けば簡単に教えてもらえそうな気もするが、もともと家族との縁は薄い方だった。いまさら会いに行きたいとも思えない。
「王立図書館で過ごすか、城下町に出て物価調査を兼ねて買い物をするか、少し遠出して地方の街の魔素濃度について調べるか、だと思います」
「勉強か、ほぼ仕事じゃん」
特に暗い顔をすることもなく話を続けたサリーユにスーリンはほっとしたように表情をゆるめ、その後顔をひきつらせた。
「だめだよ、サリーユ。若人がそんなことじゃだめだ。休むときはもっとちゃんと休まなくちゃ」
「ちゃんと、休む?」
「そうだよ! たとえば同じ城下町に出る、でも――」
「流行りのお菓子を食べる、とか」
「そうそ――うぅわ、陛下、いつの間に!」
横から入った合いの手にうんうんとうなずいてから、その合いの手の主が国王だと気づいてスーリンがのけぞった。一方、いつも通り勝手に部屋に入ってきていたロンシンはにこにこしながら腰をかがめ、サリーユの顔をのぞき込んでくる。
「サリュが行きたいって言うなら、案内してあげる」
まるで城下町にあるお菓子屋を思い出すように、形いい唇を指でとんとんと叩きながら彼は魅力的な単語を続けざまに語る。
「焼きたてのバターたっぷりのパイとか、あふれちゃいそうなくらいいっぱいクリームの詰まったシュークリームとか? 味付けや付け合わせをアレンジできる焼きリンゴの店、なんてのもあるよ。見た目の華やかさなら、ホテルのレストランで提供しているパフェもいいかも」
「パイ……シュークリーム……焼きリンゴ……パフェ……」
「ああ、サリュはチョコレートが好きだったよね? じゃあ、ひとつひとつ別の果物のリキュールが入ったボンボンの食べ比べができる店はどう? それとも、これからの季節だったらふわふわの雲みたいな飴菓子が上に乗った氷菓とかがいいかな?」
想像するだけで気分が高揚する。
「ね、サリュ。行きたい?」
「行きたいです!」
珍しく――ではない、初めて――色よい反応を寄こしたサリーユにロンシンは目を見開き、花も恥じらう麗しい笑みを浮かべた。
「よかった。じゃあ、今度の休みにいっしょに――」
「いえ、ひとりで参ります。お店だけ教えてください!」
続いたサリーユの返事に、ロンシンも、成り行きを見守っていたスーリンも、どうしてだか職場全体も(小鳥のぬいぐるみすらも)凍りついた。
「上げて落とすぅ」
ぽつり、と部屋のどこかでもらされた誰かのつぶやきが響き渡る。
「――サリュ? どうせなら、いっしょに行かない? おごるし、ひとりよりふたりのほうがいろんなもの頼めるよ? 半分こしたりとか」
やや強ばっていたものの笑みを浮かべなおしたロンシンに、サリーユははっきり首を横に振った。
「いえ、使い切れないくらい十分なお給金はちょうだいしておりますし、お腹の丈夫さには自信がございますので」
ひとりで参ります、と繰り返せば、ロンシンは額に手を押し当てて、しばらく固まった。
想像以上にショックを受けている様子に、少し申し訳ない気分にならないこともない。
「……陛下。では、ひとつだけ、お願いをよろしいでしょうか」
目を伏せ、少し口ごもりつつ切り出すと、ロンシンはぱっと顔を上げ、身を乗り出してきた。
「えっ、なになに、何か欲しいものでもあるの?」
こくり、とうなずくと、彼は藍色の目をきらきらさせ、こちらを甘やかす、やさしい笑みで首をかしげる。
「私にできることなら、何でも叶えてあげる」
「陛下にしか叶えていただけないことですので」
つつしんでお願い申し上げます、と頭を下げると、やんわり肩をつかまれ顔を上げさせられた。
「そんなにかしこまらないで。言ってごらん?」
ね、と至近距離からきらきらしいかんばせに見つめられ、まぶしさに目を細めつつサリーユは「では」と口を開く。
「わたくし
またしても部屋の空気が凍りついた。
うぅっ、とちいさくうめいてロンシンが両手で顔を覆った。
「上っげて落とすぅ」
「もはや職人」
「でも、ぼく、サリーユが常識人でよかったってずっと思ってます」
「「「「「それな」」」」
さざなみのようにぼそぼそと言い交される同僚たちの言葉を聞き流し、サリーユは目の前で顔を覆ったまま固まっているロンシンに声をかけた。
「陛下」
「……うん」
声はくぐもっているが、いちおう返事はあった。
「お願い、叶えていただけるでしょうか」
追い打ち、と誰かがどこかで言ったが、彼は休みたくないのか。
「叶えるよ。当たり前だろう。君の願いだ。それに、ユーイエのところはそもそもちゃんと休むべきだよ。ちょうどテコ入れしようと思ってたところだし」
「ありがとうございます、陛下」
ぺこり、とスカートの裾をつまんで礼をする。
「あと、先ほどのお店の名前も後ほど教えてください」
お願いします、と付け加えれば、両手をわずかに降ろして目をのぞかせたロンシンに恨みがましい目で見られた。
「やっぱりいっしょに行ってくれないの?」
「参りません。わたくしと陛下は、そのようなことが許される関係性ではありませんので」
それだけ告げると、机の上で待つ書類の山の処理に戻ろうとしたのだが――。
「サリュ……」
唐突に背後から椅子の背もたれごと抱きしめられた。びくんと跳ねそうになった全身を意地で抑える。
同時にぶわり、と自分の中から湧きあがりそうになった熱を腹に力を込めて押しとどめた。ちりり、と左の手につけた金の鎖のブレスレットがちいさく震える。
「……どうなさったのです、陛下」
サリーユの首筋は髪を上げて頭の後ろでひとまとめにしているため、あらわになっている。そこにロンシンが顔をすり寄せてきた。
こそばゆさと、どこかぞくぞくする感覚に、きゅっと全身が強ばる。
「私だって、今回の訪問は気が重いんだ。でも、ちゃんとしようと思っているし、仕事だってがんばってる」
「陛下はいつもご立派です」
本当にそう思ってる? とその姿勢のままささやかれて、身をよじりたくなるのをぐっと我慢する。
「本心より思っております。陛下ほどお仕えするにふさわしい方を、わたくしは知りません」
それは本当の本当だ。
ロンシンは完璧な存在ではない。横に立つにふさわしくないサリーユにこんなに構ってきたり、気まぐれに視察に出かけてしまったり、自分の働きすぎに無頓着だし臣下の働きすぎにだってなかなか気づかない。
でも、彼ほど国民に慕われ、国民を愛している王をサリーユは知らない。
「お仕えする、か」
その言葉に宿るさびしさに気づかなかったわけではないが、あえて無視する。
一文官であるサリーユにできることは、「お仕えする」ことだけ。
「じゃあ、がんばってる私は誰にいたわってもらえばいいのかな」
軽口めいた言葉とともに、甘えるようにぐりぐりと額を肩に押しつけられた。
ふつうであれば、それは家族の役目だが、現在のロンシンの身近にそう呼べる存在がいないことはサリーユも知っている。
圧倒的なカリスマで月燐花を治めたロンシンの母・先代魔王は王位をロンシンに(半ば無理やり)ゆずって以来伴侶であるロンシンの父と辺境の地で悠々自適の生活を送っており、滅多に王都にはやって来ないと聞いている。実際、この一年でサリーユは見かけたことがない。
そして、ロンシンには兄弟もいない。
ならば――。
「それは――やはり、陛下の隣に立つにふさわしい方をお迎えして、その方に――」
妻を迎え、新たな家族をつくる、というのが一般的なのではなかろうか。
そもそもロンシンももう二十三。王族の婚期としては遅いくらいだし、魔族の子が生まれにくいことを考えれば結婚は今すぐでもいいくらいだ。
今回のリリシャ王女の訪問だってそういった背景があってのことだと、誰もが理解している。月燐花には下手に手出しができないためどの友好国も手をこまねいていたが、もっとも関係性の深いジラッド王国が口火を切り、それを非公式とはいえ受け入れたことで、これから先、各国貴人女性の訪問は増えることだろう。
国家間において、婚姻は立派な外交政治で、月燐花ほど味方につければ心強い国もない。魔法および魔族を禁忌とするエリム教の影響がよほど強い国でない限り、月燐花の力は喉から手が出るほどに欲しいに決まっている。
加えて、魔族とはいえ、ロンシンの見た目はほとんど人間と変わらず、むしろ圧倒的に見目麗しい。人間と魔族の間に子が生まれることも歴史が証明している。
ここ数代の魔王は国内から伴侶を選んだが、他国から姫を迎えた魔王はいくらでもいるし、そもそも数百年前にエリム教が魔族追討を打ち出し、人間と魔族がわかれて暮らすようになるまで人間と魔族の家族などいくらでもいた。今だってエリム教がそれほど浸透していない地域では人間と魔族が共に暮らす村や町は残っているという。
もし、ロンシンに妻ができれば――ちくり、と痛む胸を無視して、サリーユは想像する。
きっと彼は誠実な夫となり、やさしい父となり、幸せで満ち足りた家族をつくるはずだ。彼が今感じているさびしさだって、未来の「家族」が埋めてくれるはず。
そのためにサリーユは、彼のためにやって来る各国の姫君を無礼がないようにお迎えする。
それでいい、はず、なのに――。
「サリュのいじわる」
物思いにふけっていたサリーユは吐息まじりのささやきを耳元に吹きかけられ、とっさにロンシンの腕の中から逃げるべく大きく身を傾けようとした。だが、彼女の胴を拘束するしなやかな腕はそれを許さず、身体を椅子の背へとさらに引き寄せる。ちくん、と首筋に軽く走った痛みに全身が麻痺したようにぴりぴりした。
この痛みを与えたのが何なのかはわからない。痛い、のに、甘くて、しびれる。
ちりちりちり、と細かく震え続けるブレスレットが熱を帯びているのは、自分の上昇した体温が伝わったせいか。
「な」
するり、とロンシンの腕が引いていく。自由を取り戻した身体をぎしぎしとぎこちなく動かして背後を振り返った。
「どうかした?」
いたずらっぽく笑ったロンシンの唇から八重歯がのぞき、先ほどの痛みがそれに由来することを確信する。
「……っ」
ぱんっ、と音がしそうなくらいに勢いよく首筋の例の箇所に手を押し当てる。
あまりに多くの感情がぐるぐる渦巻いて、声にならない。
自分を見つめる藍色の目が熱を帯び、甘く歪み、潤んでいる。
「顔、真っ赤。かわいい、サリュ」
ふふふ、と余裕の笑みを浮かべて自分の頬へとロンシンが伸ばしてきた手を反射で勢いよく叩き落し、さらに席から立ち上がると二、三歩飛ぶように後ずさる。
「虫が!」
主君の手を叩くなんて「不敬」、いつものサリーユならば行わない。
苦しい言い訳だ、と思いつつ、ぷいっと赤くなった顔を背け、やけくそで言い放つ。
「悪い虫が! おりましたので!」
ぱちくり、と目をまたたかせたのち、ロンシンがぷっとふき出した。
「そっかぁ。悪い虫がいたのかぁ。かじられちゃうなんて、サリュがよっぽどおいしそうだったんだね」
けらけらと心底たのしそうに笑うロンシンを見つめ、彼の雰囲気がいつもどおりに戻っていることを確認して内心胸をなでおろす。
甘えられるのも、色っぽい目で見つめられるのも、心臓に悪い。
手のひらの下でじんじんと熱を帯びる首筋を意識しながら、目の前の相手をじとりと睨む。
彼はいつだってサリーユをつれない、となじるけれども、本当は彼の望むがままに踊らされているのかもしれない、と思うことがある。
「サリュにそんなに見つめられると照れる――」
「サリーユ嬢はこちらにいらっしゃいますか?」
またしても軽口を叩こうとしたロンシンの言葉をさえぎるように凛とした女性の声がその場に響いた。
「はい、ここに」
戸口から顔をのぞかせた紺色のお仕着せ――女性文官の灰色の制服とは少し違う――に身を包んだ女性に向かって、優雅に礼をして応えた。
「エンファ」
「あら、陛下。護衛もつれず、またこちらで油を売っていらっしゃったのですか」
ロンシンに名を呼ばれたエンファ女官長は切れ長の目を細めた。光の加減で彼女の肌の表面を透明な鱗が覆っていることがわかる。
「タイタイが探しておりましたよ。歓待の宴の打ち合わせから逃げていらっしゃったのでしょう?」
「陛下?」
じとり、とサリーユが半目になると、彼は両手を挙げた。
「戻る。すぐに戻るから、そんな目で見ないで」
「別に陛下の休憩を責めているわけではございません。休んだ分、お仕事をがんばってくださること、わたくしは存じております」
すずしい顔で言い放てば、ロンシンが苦笑を浮かべる。
「もちろん。私は君の『仕えるに足る』陛下だからね」
「さすがでございます」
まいったなぁ、と頬をかきつつ、彼は「でもその前に」と付け加えた。
「エンファは何の用があってここへ来たの? サリュを呼んでいたけれど」
ちらりとエンファがサリーユに視線を送ってきた。本来ロンシンへの報告義務もない案件だが、話してしまってもいいか、という意味での確認だろう、と理解してうなずき返す。
「リリシャ王女の訪問にあたり、こちらでも準備は進めてはおりますものの、人間の若い姫君――それも非公式の訪問とのことで供連れの少ない貴人をお迎えするのはずいぶんと久しぶりですので過不足がないか、サリーユ嬢に監修していただくことになっているのです」
「サリュに?」
ぴくり、と眉を動かしたロンシンに「ええ」とエンファがうなずく。
「サリーユ嬢ならば、監修役に不足ないでしょう」
「監修役だけ?」
何かを窺うようなロンシンの問いかけに、サリーユ自身も口を開いた。
「いえ。同じ人間どうしのほうが気安く話せることもあるかもしれない、とエンファさまがおっしゃるので、ご滞在中には『お話相手』としてそばにお仕えすることになるかと――」
「侍女にも人間はいるよね? どうしてサリュが」
あからさまに渋るロンシンにエンファも片眉を上げた。
「おりますけど、王族の姫君の前に出せるほどの礼儀作法をわきまえた者はおりません」
「じゃあ、それこそサリュに指導させれば?」
「作法は一朝一夕に身につくものではありませんもの。おいおいそうできたら、とは思っておりますけれど、今回のリリシャ姫のご訪問には間に合いませんよ」
「でも――っ」
珍しく声を大きくしたロンシンの身体が急に宙に浮いた。
「陛下ぁ、ちょっとって言ったっきり帰ってこないから心配してたんですよぉ」
「……タイタイ、降ろしてくれないか」
自分の身体を軽々と担ぎ上げた小柄な少年――ふっくらとした頬が赤く染まっており、どこか人形みたいな愛嬌がある――の名を呼んだロンシンだったが、その願いはあっさり却下された。
「だぁめですよ! やらなきゃいけないことがいいぃっぱいなんですからぁ」
ほら戻りますよぉ、とそのまま歩き出したタイタイの肩の上で必死に身をよじってロンシンがエンファに声をかける。
「この話はもう一度、また夜にでもしにいくから――」
「本人と直属の上司の承認は受けております。陛下が口を出すべき案件ではないかと存じますが」
「そこも含めて、話し合う必要を感じるから、とにかく、保留ということに……」
ずんずんとタイタイが進むごとにロンシンの声がちいさくなっていき、廊下の角を曲がったところで聞こえなくなった。
廊下に顔を出してそれを見送ったサリーユとエンファは顔を見合わせる。
「では、わたくしたちもまいりましょうか」
「はい」
抜けます、と職場に声をかければ、エンファからの依頼について連絡済みだった同僚たちは手を振って送り出してくれる。
文官の仕事も、歓待の監修も、礼儀作法の指導も、自分がかつての生活の中で得たもの――あまり自分で望んで身につけたものではないとはいえ――を発揮できる。サリーユとしてはうれしいことなのだが。
ロンシンは何がそんなに気に食わなかったのだろう。
廊下を進みつつ、サリーユは首をかしげた。
「さー、休みももぎとってもらったことだし、お仕事がんばりますかー」
「「「「「おー」」」」」
ロンシンとサリーユが去った部屋で、残された同僚たちはそう声を上げた。
各々自席に戻ると、勢いよく書類をさばいていく。
手と目は猛然と動かしつつも、ぽつりぽつりと雑談がこぼれる。
「陛下、今回もわたしたちのこと空気扱いでべたべたしてましたねー」
「えっ、あれ、軽くけん制かけられてるのかと思ってたんですけど」
「うぇっ? わたしたち、そんなこわいもの知らずだと思われてたんです?」
「あんな『かわいいかわいい私のお姫さま』みたいな扱いされてるサリーユに手を出せる強心臓の持ち主なんているわけないのに、陛下、余裕ないですねぇ」
「ねぇ。世界を壊せる魔王に喧嘩売る阿呆なんてここにいるわけがないのに」
「強心臓と言えば、陛下、心臓強すぎないですか? あんな塩対応連発されてよく耐えてますよ……」
「被虐趣味ってわけでもないでしょうにねぇ。むしろ、あの人、いざとなったら笑って国のひとつやふたつ潰す人ですよ……」
「家を壊滅させられたのに、その相手にあんな対応続けるサリーユもサリーユですけどね……」
しん、といったん部屋が静まり返り、書類にペンを走らせる音や計算機の珠をはじく音だけが響く。
「ぼくさ」
その静寂を破り、スーリンがつぶやく。
「陛下のへこたれなさに感心すべきか、サリーユの鉄壁の精神をたたえるべきか、毎回悩むんだよね」
全員が書類処理の手を止め、視線を交わし合い――。
「「「「「わかるわ」」」」」
深く深くうなずいたことを、当人たちは当然知らない。
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