魔王さまの「ご寵愛の君」は、塩対応で、たまに重くて、まれにデレる

なっぱ

第1話 お戯れと塩対応

「ふはははははは!」

 高笑いとともに、とんっ、とサリーユの目の前――書類の山と積まれた机の、かろうじて空いていた隙間――に腕がつかれる。

「世界の半分を君にやろう」

 また妙なことを。

 どこで何を吹き込まれていらっしゃったのだ。

 処理中だった手元の書類から目の前の腕へ、そこからさらに腕をたどって視線を上げると、ふざけたことを言ってきた相手を見つめる。

 腰まで流れるつやつやの黒髪は、今はゆるく編んで背中に流されている。仕立てのいい詰襟のシャツ、細身のズボン、最高級の皮のブーツ――すべて黒で揃えられ、ボタンや縁飾りといった部分に下品にならない程度の金色が差し色として使われていた――を身にまとうのは、引き締まった長身の青年だ。

 この世界に唯一の魔族たちの王国――月燐花げつりんか。彼はその月燐花の王で、名はロンシン。強大な魔力を持ち、魔族たちが崇め敬う唯一の君主だ。

 人間たちは彼のことを「魔王」と呼ぶ。

 魔族の中でも魔力を多く宿す者が人型をとるように、彼の見た目も人間と大差ない。ただ、やたらと見目麗しくあらせられること、それからふつうの人間よりわずかに鋭く尖った八重歯だけが、「ただの人間」とは違っている。

 深い夜の色――暗いけれども透き通った藍色の目は(いかに突拍子のないことを言いだそうと)思慮深く輝いている。シミも皺もない、なめらかな白い肌。りりしい眉に、切れ長の目、通った鼻筋に、優美な弧を描く薄い唇。

 美しさと雄々しさの完璧な融合を見せるかんばせは、黙っていれば憂いと色気に、引き締めれば近寄りがたい威厳に、ほほえめばとろけるように、千変万化に変化する。

 今は、とっておきのキメ顔(推定)だ。まぶしい。

「その代わり、君は私の――」

「いりません」

「へ」

 短く答えて、サリーユはさっさと視線を書類へ戻した。文面を目でたどりながら、机の上に置いてある計算機の珠をはじく。左の手首に巻いた華奢な金の鎖のブレスレットが、それに合わせてしゃらしゃらと軽い音を立てた。

 検算の結果が合っていることに満足してうなずき、「へ」と声をもらしたきり視界の端で固まってしまった相手に説明する。ちなみに視線は書類からそらさず、手早く確認担当者のサイン欄にペンを走らせる。

「今現在、陛下が治めていらっしゃる国土の経営、およびそのための諸業務だけでこれほど膨大な事務作業が発生しているのです。世界の半分なんて管理することになったら、過労死します」

 月燐花は中央大陸の覇者――アールノア帝国や、世界最大宗教エリム教の総本山である宗教大国――リシェム聖国、比較的浅い歴史ながらも先進的な技術で近年周囲の国々を併呑している軍事国家――ファルモス王国、厳しい環境ながらも豊かな地下資源を抱える北方の辺境大国――ディニラム皇国といった超大国に次ぐ面積を持つ立派な大国だ。国土のほとんどがふつうの人間が暮らすには魔素濃度の高すぎる「魔障の地」だが、魔族にとっては快適な環境のため、経済活動も全土で活発に行われている。国民はほとんどが魔族――人型をとるものは一部だが、誰もが人語での意思疎通が可能――であるが、一割強は人間である。

 国内の環境も様々で、人間の友好国や中立国とは国交が成立しており、民間レベルではより多くの国とも交流がある。さらに国王であるロンシンはこう見えて国の経営には熱心で、政策は細やかだ。結果、月燐花の側近たちは常に忙しく働いている。

 悔しいがロンシンはずば抜けて有能な王で、彼が精力的に働けば働くほど、まあまあ有能程度のサリーユの仕事は溜まっていく。ちなみに、サリーユ自身は側近ではなく、側近配下の一文官だ。上司である若き宰相は日に日にクマを濃くしてついに先日倒れたが、強制入院させられた病院にて医者の目を盗んでは魔術で部下に仕事の指示を飛ばしている。

 と、いうわけで月末締めの書類作成が押しているのだ。正直こんな会話を交わしている一瞬ですら惜しい。

 手にしていた書類を「処理済み(要最終確認)」と書かれた箱に放り込み、「未処理(優先順位高)」と書かれた箱から新たな一束を取り出す。

 と、視界の端に映り込んでいるロンシンの表情が「へ」で固まったところからじりじりと変化していき、不満をにじませ始めたことに気づく。

「失礼ながら――」

 前置きをしつつも、彼が何かを言うよりも早くぴしゃりと機先を制する。

「この類のやりとりをこれ以上繰り返すつもりはございません」

 最初はお菓子や花だった。彼が持ってくるそれらを「もらう理由がない」と断ったら、次は「いっしょに夜会に出席してほしい」とドレスや宝飾品を持って現れた。「そういう場は苦手なので別の方に頼んでください」とかわしたら、「いっしょに遠駆けに行かない?」と高価な騎獣や郊外の別荘を与えられそうになった。「それはご婚約の際にでも送るべきものですよ」とつつしんで辞退したら、「婚約なら、この程度のもので済ませたりしないよ」と王家所有の宮殿の権利書を差し出された。「……そもそもわたしは陛下の隣に立てるような身分ではありませんので」と別の方向からばっさりいってみても、「そんなもの、どうとでもなるよ」とほほえんで国内の一等地の領主として叙爵されかけた。

 あわてふためいて進行しかけたもろもろ(無駄に手回しがよかった)を止めて回り、ロンシンに「本当に勘弁してください」と言い聞かせたのはまだ数日前のことだ。

 それが今度は「世界の半分」とは。

「そもそも世界の半分だなどと。この国の領土をすべて合わせても足りないではないですか」

 徐々にスケールの大きくなっていた「贈り物」だが、さすがに今回は冗談だったのだろう、と手元の書類の間違っていた箇所に赤を入れながら軽口を叩いたサリーユだったが――。

「うん。だから、取ってくる」

「……今、なんとおっしゃいましたか?」

 まるで庭先の果樹から実をもいでくるよ、と言わんばかりの軽さに、反応が遅れた。

「君が欲しいなら、今から取ってく「いりません」

 にっこりと美しすぎる笑みを浮かべてうなずいた魔王の言葉を力強くさえぎる。さすがに書類処理の手も止まった。

 ロンシンの目は笑みに細められていたが、そこに浮かぶ色が本気だった。

 そしてたちが悪いことに、彼にとってそれは実現可能なことなのだ。

 月燐花の――ロンシンの軍事政策は専守防衛だ。手を出されれば反撃もするが、基本こちらからは何もしない。だが、それは弱いからではない。「魔王」たるロンシンがその気になれば、ひと月もせず世界は彼の手に落ちる。

 超大国はそれを知っているから下手に手を出してきたりしない。たまに無駄な戦いをしかけてくるのは、たいした諜報力も持たない中小国だ。

「やめてください。冗談にならないので」

「冗談のつもりはないからね」

 ここでサリーユが「ください」とねだろうものなら、その瞬間世界大戦の幕が上がる。否、それは戦いではなく一方的な侵略だ。

 はーっとため息をこぼすと、手にしていたペンを置き、席を立つと微笑を浮かべる相手に身体ごと向き直る。不敬だなどど口うるさいことを言われないことを知ったうえで、頭ひとつ分高い場所にある美貌をまっすぐに見つめた。

「今の仕事があれば、別に他に欲しいものはありません。毎回そう申し上げております」

 彼がしがない一文官である自分の仕事場に初めて手土産を持って現れたときから、ずっと、だ。

「行き先をなくしたわたくしを拾っていただき、その上、このような待遇の良い仕事まで与えていただき、もうすでに十分いただいております」

 過分な褒賞を与えるのは臣下のためにもならない、ともかつて言ったというのに。

「人間であるわたくしが、魔族の方々に混じって働くことに不都合がないか、気にかけてくださっていることは理解しております。しかし、ここへ来てもう一年、一度として不当な扱いを受けたことはございません」

 どうかこれ以降、わたくしのことは気に留めすお過ごしください、と告げ、女性文官の地味な制服のスカートをつまみ、腰を落とし深々と頭を下げた。

 どこの国の君主に見せても恥ずかしくない、お手本のようなおじぎだ。

「どうかお引き取りを」

 そこまで言えば、同じ部屋でサリーユたちのやりとりを固唾を飲んで見守っていた同僚たちが「ひっ」だとか「ぶふぅ」だとか思い思いの反応をもらした。が、サリーユは頭を下げたまま、ロンシンの返事だけを待つ。

「……サリュ、顔を上げて」

「はい」

 なぜだか疲れた口調で名を呼ばれた。言われた通り身を起こせば、眉を下げて笑うロンシンの顔が目に飛び込んでくる。

「見つめたものすべてを虜にする」と称されるまなざしでまっすぐ見つめられても、サリーユは動じない。

「君の主は、私だろう」

「はい」

 迷いなく同意の言葉を返す。

「では、私の命令には従ってくれるよね?」

「いえ、そこはわたくしにも権利というものがございますので、なんでも、というわけにはまいりません」

 間髪入れずに否定すると、ロンシンはしょぼん、と眉を下げた。

 しばらくの沈黙ののち、彼は気を取り直したようにほほえみを浮かべなおした。

「サリュ、お仕事がんばって。また来るよ」

「いや、ですから、捨て置いてくださって結構なので――陛下?」

 じゃあね、と手を振りながら、外套の隠しから何かを取り出すと、サリーユの仕事机の上にこんもり置き、ロンシンは足早に去っていった。

 色とりどりの銀紙に包まれたそれは、城下町のいくつかのお菓子屋――高級店から庶民的な店まで――で売っているチョコレートやタフィー、キャラメルや飴玉で、どうやって知ったのかサリーユのお気に入りの銘柄ばかりだった。

 もらう理由はないが、菓子に罪はない。押し付けられてしまったならば、食べないわけにもいくまい。

 いそいそとひとつ取り上げ、包みをほどけば、魅惑的な茶色のチョコレートが現れる。

 口に入れれば、香り高く、舌がしびれるように甘く、なめらかにとろけていく。最後に中央に隠れていた木苺の甘酸っぱいピューレが広がり、味を引き締めた。

 非常においしい――のだが、おいしいからこそ、サリーユはひそかに顔をしかめた。

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