幸福論、つまり、エゴイズム
すぅすぅと眠る彼女の横顔。
目が覚めて、先ず目に飛び込んできたのはそれだった。長いまつ毛の根元に目やにが少しついているのが分かる。
日が昇ってきた朝4時半だった。
僕はだるい体をむくりと起こし、台所へと足を運ぶ。道中、なにか冷たい感触が足を貫いた。
薬瓶だった。
このくそったれ薬瓶に彼女、芽衣ちゃんは夢中なのである。コデインとかいう阿片のパチモンと、エフェドリンとかいうシャブのパチモンが含まれている薬だ。芽衣ちゃんはこの薬をオーバードーズしないと生きていけない。その依存性歴は4年にもわたる。
その薬瓶をえいっと壁に投げつけると、壁ドンでお礼が帰ってきた。
芽衣ちゃんは鬱病だった。理由は単純明快、父親からの精神的虐待と学校でのいじめ。僕が初めて芽衣ちゃんと出会った時はもう目も虚ろで、痩せっぽちだった。
そんな芽衣ちゃんを救ってくれたのが、この"ブロン"だった。コデインはいわゆるダウナー系、エフェドリンはいわゆるアッパー系らしく、彼女はこのアッパー系のエフェドリンがないと、鬱のせいで入浴、食事、など、人としての生活をこなすことが難しかった。
しかし芽衣ちゃんは重度の薬物精神病でもあり、このブロンによって彼女の情緒と副交感神経交感神経のバランスはもうめちゃくちゃだった。ブロンの副作用で眠れないと夜通し泣き叫び続けたこともある。(壁ドンが凄かった)
僕も一度芽衣ちゃんに勧められ、この薬をオーバードーズしたことがあるが、芽衣ちゃんとは違ってコデインのダウナーが強く来たようで、それはもうトロットロのフラッフラになったことがある。芽衣ちゃんいわくその状態の僕はもう僕じゃないみたいだから、怖くて苦手らしい。
ああ、そうだ、水を飲みたかったんだ。僕は流し台に直接首を突っ込んで蛇口から水を飲んだ。
芽衣ちゃんと出会ってから、もう3年になる。
初めて会った時の印象は「自撮りの儚げな印象とは打って変わったハイテンションさ」というか、ハイテンションでずっとぺちゃくちゃ僕とお茶をしながら喋り続けるもんで、芽衣ちゃんの方が楽しくなってきちゃって、そのままカラオケへ二人で行き僕は童貞卒業した。この時も、芽衣ちゃんはブロンをオーバードーズしていた。
1個年下で16歳の芽衣ちゃんとは、SNSで出会った。最近流行りの「病み垢界隈」「闘病垢界隈」で呟きを繰り返し、いいねというコミュニケーションを図る。そう、僕も精神病を患っている。強迫性障害だ。
僕の病気は「何度も鍵を閉めたか確認してしまう」「手が汚いかもしれないと思い何度も洗ってしまう」などといった強迫行動にでてしまうというもの。まず「鍵を閉め忘れたのではないかという不安」「手が汚いと嫌だ」という強い強迫観念から、こういった行動が起こってしまう。この病気を患わせた原因も単純明快、僕も虐待。母親からの過干渉によるものだった。
母は異常だった。僕が4歳の時に父を亡くしてから、僕を父と重ね合わせるように、僕を愛した(そこに愛なんてなかったんだろうけど)。小さい彼氏、ってやつ。性的虐待を受けたこともある。誰かに奪われるくらいなら私が、と初めての口淫は母からだった。思い出すだけで吐き気がする。
そんな母から逃げるように、僕は家出をした。最初は着信のしつこかった母も、ある突然なりを潜めているかのように静かになった。諦めたのだと思う。
家を出た後の15歳の僕は非常に貧乏だった為、高校へ進学せず売り専をやって稼いだ。今は工場で汗水垂らして働いているから、あの頃は良かった。収入が良かったのだ。今は少ない収入で芽衣ちゃんを養いながら俺は生活している。
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芽衣ちゃんが突然吐き気を訴えたのは、先週のことだった。僕が夜遅く工場から帰ってくると、彼女はリビングの床に蹲り、顔を真っ青にしていた。
「芽衣ちゃん、大丈夫?」
駆け寄ると、彼女は苦しそうにうめきながら、「ずっと気持ち悪いの」
弱々しく答えた。僕は焦りながらも彼女を支え、急いで病院へ連れて行った。
診察室で待つ間、芽衣ちゃんはずっと無言だった。
僕も何を言っていいか分からず、ただ彼女の手を握り続けた。そして、医師から結果が告げられた。
「妊娠しています」と。
その瞬間、僕の頭の中が真っ白になった。まさかと思ったが、医師の言葉は確かなものだった。芽衣ちゃんは僕の子供を身ごもっていたのだ。
診察室を出た後、二人は無言のまま家に帰った。芽衣ちゃんは何も言わず、僕もどう言葉をかけていいか分からなかった。
彼女がこの妊娠をどう受け止めているのか、それすら分からない。ただ、彼女の顔には明らかに動揺が見て取れた。
次の日、僕は芽衣ちゃんに中絶を考えるように伝えた。彼女の身体のこと、そして僕たちの生活のことを考えれば、それが現実的だと感じたからだ。
しかし、芽衣ちゃんは何も答えず、ただ静かに俯いていた。彼女の沈黙が、僕には辛かった。
数日後の朝、僕が台所で水を飲んでいると、突然携帯が鳴り響いた。
ディスプレイには「母」の文字が浮かんでいる。
母からの電話は何年もなかっただけに、胸がざわついた。
恐る恐る電話に出ると、母親の明るい声が聞こえてきた。
「久しぶりね、響也」
まるで何事もなかったかのように軽い調子だ。
「…何の用?」と僕は緊張しながら尋ねた。
「弟ができたのよ」
と母は言った。
その言葉に、僕は一瞬息を飲んだ。弟ができた?今さら?何を言っているのか、頭が混乱して理解が追いつかない。
「弟って、どういうことだよ」
僕は声を震わせながら聞き返した。
「まあ、細かいことは置いておいて、驚いたでしょう?」
母親はまるでいたずらが成功した子供のように笑って言った。その笑い声が、僕の中にかつての恐怖を呼び覚ました。
「嘘だろ…」
僕は呆然としながら、母親の声を耳にするのが怖くなり、思わず電話を切った。
芽衣ちゃんが眠っている部屋に戻ると、彼女が静かに目を覚ましたところだった。彼女の顔に浮かんでいたのは、不安そうな表情だった。
「どうしたの?」
彼女は聞いた。
僕は深く息をついて、母親からの電話の内容を伝えた。そして、自分が実家に戻らなければならないと、彼女に告げた。
「弟ができたって、母さんが言ってた。確認しなきゃならない。あの家に…また帰らなきゃならないんだ」と。
芽衣ちゃんはしばらくの間、僕をじっと見つめていたが、やがて視線を落とし、小さく頷いた。
「わかった…でも、帰ってきてね」
芽衣ちゃんは静かに言った。その言葉を聞いた瞬間、僕の心に言いようのない不安が押し寄せてきた。
もし彼女が僕の帰りを待たずに、何か、死?それを決断してしまったら—その恐怖が頭をよぎったが、今はそれを考えないように努めた。
僕は芽衣ちゃんの手をそっと握りしめ、「すぐ戻るから」と言って彼女を抱きしめた。
彼女の細い体が震えているのを感じながらも、僕は彼女を強く抱きしめ続けた。
実家に戻ることが何を意味するのか、その重さをかみしめながら、僕は最後の別れを告げるように、彼女を抱きしめ続けた。
その日は曇り空で、湿った風が頬をかすめていった。
僕は久しぶりに見る実家の玄関前に立ち、ドアノブに手をかけた。冷たく重い感触が手に伝わる。鍵はかかっていなかった。
母親が言っていた弟のことが頭の中でぐるぐると回っているが、今はそれよりも、このドアの向こうに何が待っているのかが不安だった。
静かにドアを開けて中に足を踏み入れる。かつての生活の匂いが鼻をかすめた。
薄暗い玄関、長い間使われていなかったような靴箱の上には埃が積もっていた。どこか異様に静まり返った家の中に、僕は一歩ずつ進んでいった。
「母さん…?」
かすかに声を上げてみるが、返事はない。
胸がざわつき始める。まさか、とは思いつつも、僕はリビングのドアを開けた。
そこには誰もいなかった。家具はそのままだが、生活感が全く感じられない。まるでこの家はすでに捨てられたかのように、ひっそりと静まり返っていた。
急いで母親の部屋へ向かい、ドアを開けた。だが、そこももぬけの殻だった。
ベッドは整えられておらず、机の上には書きかけの手紙や本が散乱している。だが、母親の姿はどこにもなかった。
押し寄せる虚無感と共に、僕の胸に何かが重くのしかかってくる。
その時、ポケットの中の携帯が震えた。反射的に画面を確認すると、また母親からの電話だった。
震える手で応答すると、耳に入ってきたのは、いつもの軽い声だった。
「驚いたでしょう?」
母は電話の向こうで笑っている。
「あなたが帰ってくるなんて思わなかったわ」
「どこにいるんだ?」
僕は声を震わせながら問いかけた。
「さあ、どこかしら?でも、もう会うことはないと思うわ。弟なんて冗談よ、響也。そんなに真剣に受け取らないで」
その言葉に、僕の頭の中が一瞬真っ白になった。
「なんで…なんでそんなことを…」
言葉が詰まり、喉が苦しくなった。
母親はただ、僕を驚かせたかっただけ?それだけのために、僕の心を掻き乱したのか?
「響也、あなたは何も変わっていないのね」
母親の声は冷たかった。
「私はもうあなたに何の期待もしていないのよ。だから、もう戻ってこなくていいわ」
そう言い放った母親の言葉が、僕の心に深く突き刺さった。
やがて、電話は切れ、ただのツーツー音が耳に残った。手から携帯が滑り落ち、床にぶつかる音が虚しく響く。
僕は部屋の真ん中に立ち尽くし、がっくりと膝をついた。
この家に来た意味が何だったのか、僕はすべてを見失ったような気持ちになっていた。弟を救うために戻ったはずなのに、その弟は存在しない。
母親の戯言に振り回され、僕は芽衣ちゃんを置いてここまで来た。そして、その結果がこれだ。
「何をしてるんだ、俺は…」
自分に問いかける。答えは出ない。
ただ、深い無力感と失望が僕の中に広がっていく。
もし、あの時芽衣ちゃんのそばに残っていれば、彼女を支えていれば…そんな思いが胸を締め付ける。
僕は床に崩れ落ち、その場にしばらく座り込んでいた。
頭の中では、芽衣ちゃんのことが離れない。彼女の妊娠、僕に向けた不安げな視線、そして最後の別れの時の小さな声。
彼女を一人にしてしまったことが、今さらながらに重くのしかかる。
「間違ってたのか…俺は…」
僕はひとりごちるが、答えはどこにも見つからない。
母親の言葉に惑わされ、すべてを投げ捨ててしまった自分を恥じる気持ちと、芽衣ちゃんへの申し訳なさで胸がいっぱいになる。
その時、再び携帯が鳴った。
芽衣ちゃんからのメッセージだ。
「戻ってきてほしい」とだけ書かれた短い文。僕はその言葉を見て、目頭が熱くなった。
芽衣ちゃんをこんなにも不安にさせてしまった。それでも彼女は僕を待っている。僕は何をしていたんだ?僕は急いで立ち上がり、再び彼女の元へ戻ることを決意した。
「待っててくれ、芽衣ちゃん」と、声に出して自分に言い聞かせた。
すべてを失っても、彼女だけは失わないために、僕は再びこの家を出ることを決めた。
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