孵化

 今からちょうど3ヶ月前、5月半ば、57歳の誕生日を迎えた母を僕は後ろから包丁で刺した。


 その日から僕は殺人未遂事件の加害者、母は被害者としての扱いを受けるようになった。

 母のことを恨んでいたりしたわけでもない。むしろ父親がいない僕にとって、母は大好きでかけがえのない存在だった。父親はいないのが当たり前だったからわざわざ理由を聞くことも無かったけど、一度だけ祖母に「あんたは強姦の末生まれた忌み子や」と言われたことがある。祖母がそういうのだから、きっと事実なのだと思う。そんな背景があるにも関わらず、温和で優しい母は43歳で僕を産み、女手一つで、大切に大切に育ててくれた。

 


 5月17日。母の57歳の誕生日。母の喜ぶ顔が見たくて、僕は中学校からの帰り道、お小遣いをはたきケーキと小さな花束を買って帰宅した。母は案の定とても喜んでくれて、まあすてきなケーキ。一緒に食べようね。と言って皿とフォークの用意をしてくれた。僕も用意を手伝おうと思って、ケーキを切り分けるための包丁を食器棚から取り出した。

 その時、突然、今ここで母の背中を刺したらどうなるんだろう、という邪な考えが脳裏を過ぎった。言い訳でもなんでもなく、本当に何故そんなことを考えてしまったのか今になってもわからない。目の前にある包丁と母の背中。鼓動が早まるのを感じる。手が痺れる。自分の体じゃないみたいだ。僕は欲求を抑えきれなくなった

その時、


 母の背中を刺した。


 その時の刺した感覚は今でも手に残っている。案外硬かった、と思う。包丁で肉を切り分ける感触、ズブズブと刃が母の背中に刺さっていく、母のブラウスに赤い染みがじわじわと広がっていく。僕は母の苦痛の叫び声を聞きながら、頭の中では「あんたは強姦の末生まれた忌み子や」という祖母の声が駆け巡っていた。



 それからは早かった。僕はハッとして慌てて救急車を呼んだ。救急車に乗せられた母と僕は同乗した。その時、僕が刺したのにも関わらず、母は救急車で運ばれながら「郁、大丈夫だよ、お母さんは大丈夫。」と繰り返していた。

 幸い傷はそこまで深くなかったようで、母は全治3ヶ月の怪我で済んだ。でも、僕がもう少し母に体重をかけていたら、あとほんの少し上側を刺していたら、母は死んでいた可能性もあったという。

 母の病室には警察がたくさん来て、いろいろなことを聞かれた後、少年鑑別所へ僕は送られた。少年鑑別所でも、同じようなことをたくさん聞かれた。母親から普段なにか嫌なことをされていたか、学校でいじめられたりしているのか、そういったことをずっといろいろな大人達に質問された。僕は正直ほぼ全部上の空で答えていたけど、「母親が嫌いだったか」という質問にははっきりとNOと答えた。

 1ヶ月間の観護措置を受けた後、僕は家庭裁判所の審判で保護観察処分に決まった。刺した相手が身内だったこと、母親が僕を許してやってほしいとずっと言っていたこと、鑑別所での僕の生活態度が模範的だったことで、少年院に送られずに済んだ。在宅で学校に通いながら更生可能と判断された訳だが、実母を刺した僕がまともに学校に復帰できるわけもなく、それから今、8月の夏休みまで学校には一切行かずにずっと自宅に引き篭っていた。

 その間、母は退院後の生活も以前とひとつも態度を変えることなく、僕と接してくれていた。惜しみなく愛情を注ぎ、学校を行き渋る僕に「郁のペースで行けばいいんだよ。」と言ってくれた。お陰で僕は、ご近所さんから噂をされたりしながらも事件前とあまり変わらない生活を送ることが出来ている。


 ある日僕は母と近所のスーパーへ買い物に出かけた。僕の家はクラスの誰よりも中学校から遠く、クラスメイトの生活圏からも少し離れていたので、ちょっとした外出は出来たのだ。

 そのスーパーで、僕は見覚えのある人物を見かけた。それが僕が密かに思いを寄せていた担任の若松聖先生だ。

 若松先生は27歳の国語教員で、僕の担任の先生だった。少し前まではただの担任の先生、としか見ていなかった先生。僕があの事件を起こした時、少年鑑別所へ足繁く通ってくれて、僕の心のケアや母の入院生活のサポートをしてくれていた。そのうちに僕は、なんだか若松先生に特別な感情を抱き始めるようになった。先生が鑑別所に面会に来てくれる日は胸が踊り、先生と会話をするとドキドキして胸が高鳴って、もうどうしようもないくらい嬉しい気持ちになるのだ。

 この感情が恋だと気がついたのは、鑑別所を出てすぐの事だった。さすがの先生も自宅まで訪問に来ることはなく、それきり若松先生とは電話でのやり取りしかしなくなっていた。僕は若松先生に飢えた。若松先生に会いたい。でも学校に行くのも気が引ける。そんな中でこのスーパーでの再会。僕は運命だと思い、若松先生に声をかけた。

「あ、前田くん...。元気にしてる?」

 若松先生は上擦った声で僕にそう問いかけた。先生は僕が事件を起こしてから、ずっとそうだった。どこか僕に怯えている。

「元気です。先生もお変わりないですか?」

「ええ。」

 先生の鈴の音みたいな高い声を聞くと、僕の心ははちきれそうなくらい熱く膨らむ。ああ、僕は先生が好きだ。

「先生、僕、先生ともっと話したいです。学校に行くのはまた怖いけど、先生と会いたいです。」

 胸中を素直に言葉にすると、先生は思いもよらない嬉しい提案をしてくれた。

「ふふ。じゃあ、明日から毎日さ、すぐそこの街かど公園でちょっとお話でもする?」

 フワッと体が浮くような感覚になった。僕は「もちろんです。会いましょう。」と何度も繰り返した。



 次の日の午後5時、僕は街かど公園で先生と会った。先生は仕事を途中で抜けてきて、わざわざ僕の家の近くの公園に来てまで、僕とお話しに来てくれていると言う。その事実だけで嬉しいのに、先生が僕にしてくれるお話はどれも面白くて、人生で最も楽しい夏休みだと僕は思った。このまま時が止まってしまえばいいのにと何度も思った。

 先生と夕方に密会する日々が一週間ほど経った頃、僕は先生に会いに行く時に、アーミーナイフを持参するようになった。先生は27歳の大人といえど、女性だ。僕の母みたいに悪い男に襲われたりしたら守ってあげられるのは僕しかいない。聖先生を守りたい。その一心から、毎日ポケットにナイフを忍ばせながら、僕は聖先生に会いに行った。


「前田くんは好きな女の子とか、いないの?」

 聖先生に突然そう聞かれて僕は言葉に詰まった。貴方です、聖先生。そう言えるほどの勇気が僕にあれば学校だって行けていたはずだ。

「な、なんでそんなこと聞くんですか?」

「最近クラスの子達で付き合ったりするのが流行ってるんだって。先生びっくりしちゃった。」

 何だ、そんなことか。まさかまさかまさか先生が僕のことが好きで僕の気持ちが知りたくてそんなことを聞いてきたのかと思った。当然そんなものは早とちりだった。

その時、

 僕の頭の中に邪な考えが、また脳裏を過ぎった。

 今ここで先生をナイフで脅して、付き合えないか、と。

 当然そんなことしてはいけないんだ。だめなんだけどぼくは

 ぼくは

 気がついたら先生にナイフを突きつけていた。

 先生は怯えた顔で僕に「何をしているの?」と聞いてきた。そんな先生が本当に可愛くて、これは言い訳でもなんでもないんだけど、本当に、そんなつもり無かったんだけど。

 刺しちゃった。

 ああ。

 頭の中ではまた、祖母の「あんたは強姦の末生まれた忌み子や」という言葉を反芻していた。

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