11-CHAPTER7

 ミルフィは瞳を開いた。ゆっくりと上体を起こすと、前髪からぱらぱらと何かがこぼれて頬に落ち、ミルフィは手のひらでそれに触れた。白い砂だった。あのまま浜辺に倒れていたのだろうか。頭がくらくらする。

 かすんだ視界のままゆっくり見回したが、辺りには誰もいない。ああ、わたしは何を期待していたのだろう。そんなのきっと、当たり前のことなのに。

 

 今しがた願ったではないか。納得したではないか。これからは隣にいるのが彼でないほうが良いのだ。

 此処に戻ってくることが出来ただけましだ。再会を期待するなど、許されない。それ以前に彼は月詠みのわたしを許してなどくれないだろう。顔も見たくないはずだ。命があるのが不思議なくらいだった。

 

 それなのに、散々理由を付けてみても、もう永遠に会えないと考えるとただただつらかった。決意も虚しく、そのことだけが頭を埋め尽くしてミルフィは涙を堪えた。

 

 けれどわたしは、もう止まっては、ならない。砂にまみれた手のひらに力を込める。

 ヴァルさんに会いたいなんて、もう、考えない。


 これからどうするべきか。服はワンピースのままだったが、見たところポーチもダガーも所持していない。ひとまず、何が側にあるのか確かめよう。

 今いる世界が、今までと違う世界かも知れないのなら、なおさらその必要がある。数時間、いや数日歩くことになろうとも、わたしは此処から進まなければならない。


 ミルフィはそのまま立ち上がろうとしたが、目は相変わらずぼわぼわとかすんで、足には力が入らない。ふらついて、その場にへたり込んでしまった。頭が痛い。気分が悪い。

 それでもなお左肘で上体を支えて起き上がろうとした時、手首にびきっとした違和感があった。

 ああ、そうだ。わたしは此処を自分で切り裂いたのだった。

 そこに目を落とそうとした瞬間、

「……フィ」

「ミルフィ!!」

 遠くから自分の名前を呼びながら、誰かが駆けて来る。

 その姿を確認する間もなく、抱きしめられた。

「ミルフィ」

 名前を呼び続けている。

「ミル」


 ヴァルダスだった。

 何が起きているのか分からないまま動けずにいると、左手首に鈍痛が走った。やっと視界が広がりつつある瞳で目をやると、そこには分厚い布が大雑把に巻かれている。

 辺りには何度も取り替えたのだろう、赤い血の付いた布がたくさん散らばっていた。

「ヴァル、さん……?」

 ヴァルダスはミルフィを抱きしめたまま離さない。

 

 ヴァルダスの胸の中にいる。直ぐには信じられなかった。決意をしたのに。決めたふりをしたのに。

 けれど、会えた。ヴァルダスさんがいる此処へ、辿り着けた。

 

 ありえる筈がなかった。許される筈がなかった。それでも。

 ミルフィは嬉しくて、切なくて、自分の意識がまた遠くなるのではないかと思った。

「ヴァルダスさん」

 やっと、声が出た。

 潤んだ瞳のままで顔を上げると、ずたぼろになったマントと、傷だらけになった剣が放り投げられているのが目の端に映った。

 ミルフィはぱっと目を見開いて、息を呑んだ。そして腕の中で暴れながら叫んだ。

「ヴァルさ……」

「ヴァルダスさん!」

「あっ、お名前――と、とにかく!」

「あれは一体どういうことですか」

「ご家族の大切な」

 ヴァルダスは直ぐに答えた。

「良いんだ」

「お前が目の前で倒れてから、ああした」

 ヴァルダスがミルフィを抱きしめたまま、呟いた。

「すまなかった」

「いくら謝ったって仕方がないほどに」

「ほんとうに」

 声が、頭のてっぺんから響いて来る。ヴァルダスの声だ。いつもの声だ。ミルフィはヴァルダスの腕をぎゅうと握った。あたたかい。

「お前があの晩やって来た時から」

「いや、あの晩お前に会った時から、分かっていたのだ」

「俺はお前を放っておけなかった」

「お前を置いてゆけなかった」

「それがもう既に、俺の答えだったんだ」

 ヴァルダスは続けた。

「恐ろしかった」

「倒れたお前の、背中を見て」

「お前が、動かなくなって」

「そのまま消えてゆく気がした」

 ミルフィは同じ体勢で、ヴァルダスの話を聞いている。

「あのような剣も、マントも不要だ」

「俺はもう今後どのようなことがあろうとも」

「お前に剣を向けたりなど絶対にせぬ」

「ツクヨミなんて関係ない」

「おれは――」


 ミルフィは目を閉じて、ぎゅううとヴァルダスを抱きしめ返した。思ったよりもその力が強かったので、ヴァルダスはむせそうになった。

「目の前であんなにひどく怒ったヴァルダスさんが、急にこんなことを言うわけありません」

「これはきっと夢です」

 ヴァルダスは大きな声で言った。

「夢なわけあるか」

「これが夢でたまるか!」

 

 ミルフィはとうとう涙が出た。ローズの前で様々なことを誓ったわたしはどこへ行ったのだろう。

 全身があたたかい。苦しいほどに。


 ヴァルダスはゆっくり身体を離すと、グローブ越しではない、柔らかな指先でミルフィの頬をぬぐって、ミルフィの瞳を真っ直ぐに見た。

「やはり何色か分からぬ色だが」

「今は涙で余計に分かりづらいな」

 ミルフィはヴァルダスを見上げたまま、言う。

「ヴァルダスさんは相変わらず」

「綺麗なグリーンです」

 ミルフィは慌てて口に手を添えた。

「ああ、またお名前を……」

「ヴァルで良い」

 ヴァルダスは即答した。

「これが俺の名前なのだから」

 優しく、しかし少しだけ困った顔でミルフィを見つめたままのヴァルダスに、ミルフィは泣き笑いをした。

「はい、ヴァルさん」


 ん、と言ってミルフィは、頬に添えられているヴァルダスの手のひらのおうとつに気が付いた。

「ヴァルさん、何か手が――」

 ヴァルダスは慌てて手を引っ込めるとそのまま上に掲げようとしたが、ミルフィがそれを咄嗟に遮った。 

 拳を握ろうとしたところを無理やり広げると、ヴァルダスの手のひらは傷だらけであった。まだ赤く、傷の深い部分はうっすらと出血し続けていて痛々しい。剣を強く握りしめたあの時に、自分の爪が深く食い込んだのだろう。

 

 このような手のひらで何度も何度も自分の切り傷を手当してくれたことを思うと、ミルフィは胸が熱くなった。ミルフィの手首に当てたと思われる散らばった布は血まみれだったが、それはきっとヴァルダスの血でもあったのだ。

「痛みませんでしたか」

 ヴァルダスは顔を背けた。

「こんなもの、何ともない」


 ミルフィはなおも眉を下げたままヴァルダスを見上げていたが、また、ん、と言った。よく見ると、ヴァルダスの顔が濡れている。

「ヴァルさん、お顔もどこか怪我したのですか!」

 ミルフィが大声を出すと、いや違うのだ、と慌てたが、それから、いやまあ、と誤魔化した。

 

 もしかして頬に落ちて来たあのぬるい水は、汗ではなかったのだろうか。そしてそれは先ほどまでも。

 ミルフィは今度は自分から、ヴァルダスの頬をそろりとぬぐった。やはりそこはしとりとしていたものの、血が持つ独特のぬめりはなかった。胸が苦しくなる。

 

 ミルフィが顔を見つめたまま手のひらを頬から離さないでいたので、ヴァルダスはより向こうへ顔を背けようとした。しかしミルフィが今度は両手で包むと、諦めたように前屈みのまま大人しくなった。


 額と額がくっついた。

 

 ミルフィはそれから、ふふ、と笑って、ヴァルダスの首に両手を回して力を込めた。ヴァルダスはミルフィの背中に手を添えて、それをしっかり受け止めた。が、心配そうに言った。

「おい、出血がひどくなるぞ」

「もう、平気です」

 ヴァルダスは支えるようにミルフィを抱いたまま言った。

「お前、あれでよく無事であったな」

「ほんとうに駄目かと思った」

「顔もどんどん青白くなっていって」

 

 その時の光景を思い出したのか、ヴァルダスの腕に力がこもった。

「ヴァルさんの手当てのおかげです」

 ミルフィは弾んだ声で答えたが、ヴァルダスは一瞬沈黙したあと、続けた。

「俺はお前に酷いことを言い、酷いことをしようとした」

「これからお前と共にゆく資格などない」

「今まで――」

 ヴァルダスがそこまで言ったところで、ミルフィはがばりと顔をあげ、またも大声を出した。

「ヴァルさん!」

「わたしをまた置いてゆくなんて」

「それこそ酷いことです!」

 

 ヴァルダスは目を丸くしてミルフィを見下ろしていたが、一度だけ尾を振り、しばらく何も言わなかった。

 

 ふたりは砂浜から動かずにいたが、何かに気付いたようにヴァルダスがミルフィを改めて見つめた。

「確かに急所は首だと言ったけれども」

「お前に使えという意味でもないし」

「微妙にずれていたから、まだまだだな」

 きちんと戦えるのはまだ先なのか、とミルフィは複雑な顔をした。いや、あの出血量で?

 

 はっとして、ミルフィはローズがしばってくれたスカーフを思い出した。

 そして目を細めた。手首に巻かれた未だ血で汚れた布の、強い、けれどもどこか優しい感覚に。

 

 するとヴァルダスが、また口を開いた。

「それにしてもお前」

「あのダガーをほんとうにろくなことにしか使わぬな」

 ミルフィは声を出して笑ってしまった。

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