11-CHAPTER6

「あなたはほんとうにばかですね」

「そんな傷までこさえて」

 ミルフィは光の中にいた。

 その声に顔を上げると、黒いりぼんを頭に付けて真っ直ぐな髪をゆらした少女が、腰に手を当てて立っていた。

「なんのためにわたしはそちらに向かおうと」

「必死にここで過ごしているのでしょうね」

「これじゃあまったく報われないというものです」

 まあまあ、落ち着きなさいな、と少女の肩に手を置いて、背後から姿を現したのはローズだった。

「ローズおばあさま!」

 ミルフィはローズに駆け寄ると、抱き付いた。

 いつものポプリの香りだ。あの小さな袋に詰めてある香り。

 ぽろぽろ、否応なしに涙がこぼれてしまう。

「おばあちゃま、ほんとうにこんな情けないひとが未来のわたしだというのですか」

 呆れたような声を出した少女に、ローズはふふ、と微笑んだ。

「いま見ていることは、部屋に戻ったあなたは忘れてしまうでしょう」

「しかしそれで良いのです」

「あなたはまだ、そのままで良いのです」

 

 少女はむくれたが、ふたりの様子を見守ることに決めたのか、少し離れた白い木製の椅子に座った。

「おばあさま、ごめんなさい」

「わたし、わたし、何も出来なかった」

「あんなにたくさん色々なことを教えてもらったのに」

「何ひとつ、ひとつも」

 ミルフィは嗚咽が止まらない。

 ローズは自分が被っていたスカーフで、血で濡れている手首を優しくしばった。

「これで良いですよ」

「痛みますか」

 ミルフィはその手首を気にしないまま、大きくかぶりを振った。

「いいえ、いいえ」

 そして声を詰まらせながら続けた。

「わたしなんかより、ヴァルさんはずっと痛かった」

「狼の皆さんは、ずっと苦しかった」

 ミルフィは溢れる涙をぬぐうこともなく続けた。

「あの場所、星の地にゆけたこと、何よりも嬉しかった」

「此処で過ごしたことも、無駄ではなかった」

 けれど、と言う。少女のりぼんが、ぴく、と動いた。

「わたしは、ローズおばあさまから、あの手紙を受け取っていたのに」

「ヴァルダスさんの口から〝ツクヨミ〟という言葉を聴くまで」

「忘れていたことに気付いた」

「自分が月詠みであることを、此処の世界を」

「すべてです」

「おばあさまのお手紙に関係なく、絶対に忘れてはいけないことだったのに」

「忘れるはずが、なかったのに」

「わたしがあちらの人間ではない、ということだけは、しっかり分かっていたのに」

「どうして……」

 

 ミル、ヴァルダスが自分を呼ぶ声が、頭の中で思い出される。頬の涙をぬぐう。

 

「わたしはあの時、お手紙の警告通りに影詠みから逃げ出すことすらしないまま」

「愚かにもヴァルダスさんの前で、決意を踏みにじるようなことを言いました」

 ミルフィはヴァルダスの、あの怒りに満ちた瞳を思い出していた。

 月影のせいか、胸のうちのせいか、ミルフィにはかすんで、なのに月詠みへの、自分への憎しみに溢れていることだけは痛いほどに伝わって来た、あのグリーン。

「あの時、それが月詠みとして視えたことだったから、そのまま伝えてしまった」

「ヴァルダスさんの悲しみを紛らわせることが出来るのではないかと、勝手に思い込んで」

「この月詠みの力が、ヴァルダスさんが前に進むためのものになると、思いたいがために」

 ミルフィは呼吸することを忘れたかのように、矢継ぎ早に続ける。

「ほんとうは〝ツクヨミ〟という言葉を聴く前に、ヴァルダスさんの傍を離れるべきだったのです」

「わたしの記憶が戻る時、となりに誰もいなければ」

「少なくともそのひとを傷付けることは避けられた」

「辛い真実を告げることも、必ずやって来る影詠みの危険に、そのひとを晒すこともなかった」

 ゔぁ、ゔぁる……ツクヨミ……? 少女は椅子の上で首を傾げた。

 

 ローズは静かにミルフィの瞳を見、そして囁くように呟いた。

「こういう事態になるかも知れないということに、わたしはもっと早く気付くべきでした」

「ミルフィ、ほんとうにごめんなさい」

「ローズおばあさま、どうして謝られるのです」

 ミルフィはローズの悲しそうな声に思わず顔を上げた。

「あなたが此処を旅立つ前に、わたしはあなたにとあるお薬を飲ませました」

「お薬?」

「ええ。あなたが幼い頃、わたしがあなたに見せた不思議なお花を憶えていますか」

「中庭に咲いていたという、花びらが七枚のあのお花ですか」

「そうです。あのお花から作られるお薬は、記憶を失うという効能があるのです」

 

「記憶を、失う……?」

 

 ミルフィは息を呑んだ。頷き、ローズは続けた。


「影詠みはあくまで月詠みを追って来ます」

「自分が月詠みだという記憶がないあなたなら、影詠みから見れば星の地の住人と何も変わりがありません。影詠みからは姿が見えないも同然です」

「それゆえあのお花の力は、あなたがあちらに向かうために必要なものだと考えたのです」

 

 けれど、とローズは黒いりぼんの少女の頭を撫でた。

「あなたは星の地とこの世界、どちらの血も持っていた」

「その結果、お薬の効果は弱まり、あなたの記憶が不安定になるだなんて、想像もしていませんでした」

「辛い思いをさせてしまって、ほんとうにごめんなさい」

「ローズおばあさま……」

 

 ローズの耳に着けられた雫型のイヤリングは、彼女の瞳の色と同じように蒼い。それはローズが口を開く度にきらきらと光り、ミルフィには眩しいほどだった。


「わたしは、お手紙に〝ツクヨミ〟という言葉をあえて記しました」

「月詠みの存在を知る者がもし目の前に現れ、万が一あなたの記憶が戻ってしまった時に、あなたがこの月詠みという存在に呑まれないように」

「あなたにツクヨミと告げた者の前でも、自分を失わずにいられるように」

「あれはわたしの願いでもあったのです」


 ミルフィは潤んだ瞳のままローズを見つめた。

「あのお手紙にそんな意味があっただなんて……」

 わたしは、と小さな声で続ける。

「月詠みが存在することにより、多くの血が流れたあの世界で」

「全てを思い出して」

「わたしが月詠みなのが許せなくて」

「この血をすべて月に流せば、月詠みが世界から消えると思ったのです」

「いいえ、そう思いたかった」

「今まで続いて来た悲しみを、終わりに出来るかも知れないと期待した」

 ミルフィは結ばれたスカーフの上に、自分の右手を重ね、目を伏せた。

「わたしはただ、ヴァルさん……ヴァルダスさんたちをわたしたちの世界から護りたかった」

「ヴァルダスさんを、まもりたかった」

 

 目の前で、となりで、ゆれていた尾を思い出す。

 

「しかしそれではいけなかった」

「あんな、すべてをどこかであきらめたやり方では、何も変わりようがなかったのですね」

 

「わたしは結局、逃げただけだったんです」

「あの言葉すら意味もなく」

「わたしは死んでしまっただけ」

 

 その言葉に少女は椅子の上から転げ落ちそうになった。

 ローズは黙ってミルフィを見ている。

 ミルフィは首のはしに残る剣の冷たい感触を思い出し、そこに手のひらを当てた。今の自分の指よりも、それはずっと冷たかった。

 

「わたしには、月詠み……いいえ影詠みが、どうして彼ら狼一族を狙うのか、分かりません」

「わたしたち月詠みを護るためだけだとは何故だか思えないのです」

「それはヴァルダスさんたちに武器を向ける兵士や人々たちも同じです」

「そこにはきっと、何か大きな理由があるような気がしてならないのです」

 

 ミルフィは目を伏せ、躊躇ためらいがちに口を開いた。

 

「月詠みの自分を一度捨てようとしたわたしには、この連鎖を止められないかも知れない」

「何も分からないままわたしは消えてしまうかも知れない」

「そしてそんなわたしのせいで、また新しい月詠みは生まれてしまうかも知れない」

 ミルフィは手首を下ろしこぶしを作ると、それに力を込めた。

「それでも、護りたい」

「わたしは皆が戦う世界を望まない」

 ローズはミルフィを見つめたまま、そして椅子の上の少女はローズを心配そうに見た。

 

 ローズは静かに口を開いた。

「あなたなら、いくらだって変えられます」

「これがあなたの運命だとしても」

「お薬と同じように」

 その言葉に、椅子の上の少女はぱっと明るい顔になり、うんうんと大きく頷いた。

 ローズは続けた。いつものふわりとした瞳とは違う、強い、蒼い瞳で。

 

「いいえ、どうか変えてください」

「これまでの月詠みの娘たちのためにも」


「あなたは強い子です」

「何にでも向き合おうとするがんばり屋さんです」

「それはわたしが誰より知っています」


「あの言葉はいずれあなたを護ります」


「あなたの心を信じなさい」

「傍にいるひとを信じなさい」

「たとえ何があっても」


「わたしが伝えられるのはこれだけ」

「けれどきっと、これこそがすべて」


 ミルフィは強く頷いた。涙はもう流れていなかった。

「わたしに出来ることがあるのなら、わたしはもう逃げません」

「護るべきひとたちのために進みます」

「護るべきひとと共に」

 

 ふわり、優しい花の香りの風が吹いた。

 頷いたローズの姿が光の中、消えようとしている。

 それはきらきらと輝く。またも逆光になってしまう。

 

 しかしあの時とは違う。

 微笑むローズの傍で長い髪のあの少女が、椅子から立ち上がって両手を振っている。

「未来のわたし、ゔぁる……ナントカさんといっしょにしっかりやるのですよ」

「わたしもここでがんばりますから!」

 ミルフィはふっと笑うと大きく頷いて、静かに目を閉じた。


 強く願う。星の地に辿り着けたあの時のように。

 

 わたしは向かう。

 いいえ、向かわなければならない。

 あの世界に。真実を抱えて。真実を知るために。

 

 たとえその先に誰もいなくても。

 わたしのこころは、たしかに此処にあるのだから。


 ごめんなさい、過去のわたし。

 向かった先にはもう、ヴァルさんは傍にいないかも知れない。

 信じるべきひと、共に未来を目指すべきひとは、ヴァルさんではないかも知れない。

 

 でもそれならきっと、そちらのほうが良い。

 傷付けなくて、済む。辛い思いをさせなくて、済む。

 

 ヴァルさん。

 いつかまた、どこかで会えますように。

 いつかまた、となりで笑うことが出来ますように。


 それが今から向かう、その世界ではなくても。

 違うどこかの世界でも。いつか、きっと。

 あの晩のように。


 わたしはヴァルダスさん、あなたを、護れたでしょうか。

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