「二分されたもの」

 もう日が落ちて、空は藍色に染まりつつある。

 古井戸のある丘は椋伍の記憶にあるよりも手入れが行き届いている上、街の地図の看板や花壇、屋根付きの円環型のベンチなど、以前はなかったものが設置されて憩いやすくなっていた。

 これだけ見ると公園だとか広場だとか、そんな呼称のほうが合いそうなものだが、古井戸がそうはさせない。丘の環境が整いすぎて浮いてしまっているのだ。

 古井戸の周りは円柱と鎖で繋ぎ合わされたフェンスに囲まれている上、傍には「神様です お手を触れないでください」などという錆が浮いた看板が下がっており、見るものへの威圧感が凄まじい。気軽に来れるような場所でないことは目にも明らかだった。


「懐中電灯くらい持って来いよ。危ねェだろ?」


 しかしそこに人がいる。黒っぽいシャツに、白のパンツ姿。他は伺えない。古井戸の蓋を退かして立て掛け、大股を開いてその縁にドカリと腰を落ち着けているその男は、椋伍が広場へ足を踏み入れた途端に馴れ馴れしくそう声を掛けた。

 背を向けて煌めきを増していく街明かりをただただ正面から浴びている男の言葉を無視して、


「そこ、神様居るんだけど」


 そうつっけんどんに椋伍は投げる。同時に、男がキィン、ジャッ、と音を立てて煙草に火をつけて、黒っぽく見えたシャツの本来の色――赤色が露わになった。紫煙を空気とともに唇の隙間から長く吹き出し「肝座ってンのな」とからかう様に言う。


「ビビるか、誰? とか聞いてくるかと思ったわ」

「湊の家に居ただろ」

「ヘェ、察しイイ。……ああ、今見えた? 服そのまんまなの今気づい」

「どうでもいい」

「……ア?」

「井戸の神様は礼儀を大事にするから、我慢してくれてる間にそこ退けよ。じゃなきゃ話さねーから」

「礼儀の前に習わしにも添えなかったテメェにそんな説教垂れる資格ねェだろ。姉貴が井戸の底で泣いてンぞ」

「ふざけんなよ」

「怒んなって。ホントの話だろ?」


 鼻で笑い立ち上がる。煙草を吸うことはやめないらしく、もう一度口をつけつつ振り返った。え、と戸惑いの声が椋伍から漏れる。

 男は耳にかかる程の長さの髪を左側だけ掻きあげて、下ろした右側の髪は癖をつけていた。色味は光源の少なさのあまり分かりづらいが、ベンチの屋根に設置された照明でその顔は十分確認できる。


「オレの、いや――“ 自分”の言うことが信じられねェあたり、やっぱガキだよなァ。中学生の時任椋伍クン」


 歳を重ねた自分が口の端を片方上げて笑っている。二十代前後か、いやそれよりも何故、と椋伍は混乱し、


「タバコは姉ちゃんが散々やるなっつってたじゃん。なんで吸ってんの?」

「は?」


 間抜けなセリフを吐いた。目の前の自分も困惑しており、傍から見れば悪どい表情も毒のある声音もこの時ばかりは中学生の椋伍とさして変わらなかった。それも一瞬で苦々しいものへと変わり、深く眉間に皺を刻んで椋伍を睨む。


「あー、マジでねえわ。姉ちゃん姉ちゃんって、その大好きな姉ちゃんはテメェが殺したんだろ」

「だから自暴自棄になってそんなのやってんの? ホント何やってんだよ。ダセェよそれ」

「これからテメェもこうなるんだよ」

「……え、何? こうなる、とかそもそもコレどういう原理? 大人のオレがタイムスリップとかしてる?」

「違う。死んで魂が二分されてる」

「ええ……またぁ? それ子どもの頃なったやつじゃん。ていうか死んだの? 死してなおバカなことやってんの?」

「井戸の時は死んでねえわ。あと救世主にバカとか言ってんじゃねえよ」

「は? ごめん、え、よく聞こえなかった。なに?」

「救世主にバカとか言ってんじゃねえよ」

「うわ、死にたい。オレこんな可哀想な大人になったんだ」

「クソガキすぎて自分で腹立つ」


 青筋を立てる大人へそれでも哀れみの眼差しを向けることを、椋伍はやめない。「姉ちゃんのことで思い詰めたんだな。勉強になった」と深く頷く少年を前に、大人は苛立ち混じりに煙草を地面に落として靴底ですり潰す。


「ここに来た理由は分かってんだよ。姉貴を助けに来たんだろ。救世主っつーのはそこからきてる」

「え、一緒に姉ちゃん助けるってこと?」

「そうそう。姉貴だけじゃねーよ。久塚も、齋藤も、直弥も助けてやれる。……ンな警戒しなくても危ねェ話じゃないから」


 警戒に目に力が籠った椋伍を見て、大人は思わずといったふうに笑い「カクリシはな、死人の掃き溜めなんだよ」と静かに続けた。


「ある日突然出来た空間で、死んだ人間や現世で生きていけない妖怪だとかがいつの間にか暮らし始めてンの。それを殺して回ってるのが天龍とかいう女。死んでる人間は殺されたらもう然るべき場所にも戻れねェ、生まれ変われもしねェ。正しく永遠の死。姉貴にあの女の手が及ぶ前に、オレはこの世界を変えたいし、姉貴がずっと暮らして行けるようにしてやりたい」


 そういう訳で、と目をしならせて右手を差し出して彼は言う。


「久塚も好きだったこの世界を、オレ達でもっといいモンにしよう」


 一見すると懇願するような清い笑みだ。椋伍はそこから視線を下げ、感情を引っ込めて離れた位置にある手を見つめる。

「なあ」と大人が急く。椋伍は一瞬唇を強ばらせ、やがて意志を固めた瞳で「オレは」と発した所で


「ンなもんクソ程いらねェわバカタレがッ!!」


 と大きな罵声が割って入った。

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