歴史解説 諸葛孔明前史 後編(青年期編)

 ※これは別に連載中の小説『学園戦記三国志』の歴史解説回を独立・編集して掲載するものです。


↓学園戦記三国志リンク

https://kakuyomu.jp/works/1177354054890213389


 三国志で最も有名な人物、諸葛亮しょかつりょうあざな孔明こうめい(以下、孔明こうめいで統一)。前編・中編では彼が荊州けいしゅうに来るまでの生い立ちや家族について解説した。この後編では孔明こうめい荊州けいしゅうについてから三顧さんこの礼で劉備りゅうびに招かれる前までを解説していく。



 ◎孔明の学問



 さて、孔明こうめいは197年頃、保護者であった従父おじ諸葛玄しょかつげんを失い、姉弟と共に荊州けいしゅうへと移り住んだ。孔明こうめい、17歳頃の時の出来事である。


 この年から207年、三顧さんこの礼で劉備りゅうびの軍師に迎えられるまでの約10年間を荊州けいしゅうで過ごすことになる。だが、その生活については学問にはげみながらも、荊州けいしゅうの主・劉表りゅうひょうには仕えず、隠遁いんとんのような生活をしていたというのはよく知られていることである。


 この10年間、孔明こうめいの人生で特に大きなものは学問と交遊関係、そして結婚である。


 まずは学問を解説していこうと思う。


 孔明こうめい諸葛玄しょかつげんが亡くなると、自ら農耕を行い、『梁父吟りょうほぎん』(隠者の歌)を歌って暮らした。身長八尺(約184cm)、常に自分を管仲かんちゅう(春秋しゅんじゅう時代の宰相さいしょう)・楽毅がくき(戦国時代の名将)になぞらえたが、これを認める者はいなかった。ただ、友人の崔州平さいしゅうへい(本編、サイシュウヘイ、92話名のみ登場)と徐庶じょしょ(本編、ジョショ、75話より本格登場)はその通りだと孔明こうめいを認めていた。[諸葛亮しょかつりょう伝]


 また、注釈によると、孔明こうめい荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん鄧県とうけん隆中りゅうちゅうに暮らし[漢晋春秋かんしんしゅんじゅう]、建安けんあん初期、石韜せきとう(本編未登場)・徐庶じょしょ孟建もうけん(本編未登場)らと共に遊学した。[魏略ぎりゃく]


 孔明こうめいは自ら農耕を行ったとあるが、遊学したともあり、ある程度の財産があったことがわかる。この農耕というのも小作人や奴隷的なものではなく、自前で用意した農地であったのだろう。孔明こうめい荊州けいしゅうに来た時点で、裕福とまではいかなくても、ある程度余裕のある生活が送れるほどの財産を有していた。


 また、荊州けいしゅうに来た孔明けいしゅうは学問に励んだ。建安けんあん初期には学友と共に遊学したという。建安けんあんの年号は196年から220年(魏の場合)まで用いられた。孔明こうめい従父おじ諸葛玄しょかつげんが亡くなった197年は建安けんあん二年、孔明こうめい17歳の時である。年齢的にも充分であるから、この頃か少し落ち着いた頃に遊学してのであろう。


 孔明こうめいは学友と共に遊学したというが、具体的な遊学先や先生は不明である。演義えんぎ等の創作物では一般に司馬徽しばき(本編、シバキ、74話に登場)が先生として知られているが、実際に彼に師事したという記述はない。ただ、後に司馬徽しばき孔明こうめい劉備りゅうびに推薦していることから、二人に交流があったのは間違いない。


 この頃の荊州けいしゅうは中央の戦乱に比べれば比較的平和で、食糧もあったことから多くの人達が流れて来ていた。


 関西かんせい(函谷関かんこくかんより西)や兗州えんしゅう予州よしゅうの学者で荊州けいしゅうに移り住む者は千を数えた。劉表りゅうひょうは彼らを支援して、経済的に満足させ、学校を設立し、広く儒者じゅしゃ(儒教じゅきょうの学者)を求めた。綦毋闓きぶかい(本編未登場)・宋忠そうちゅう(本編、ソウチュウ、63話より登場)(荊州けいしゅうの学者の中心的な人たち)は『五経章句ごきょうしょうく』(儒教じゅきょうの書物である五経ごきょうの解釈書)を撰述せんじゅつした。[劉表りゅうひょう伝注・英雄記えいゆうき後漢書ごかんじょ劉表りゅうひょう伝]


 荊州けいしゅう劉表りゅうひょうが学者を保護したことにより、荊州学けいしゅうがくと呼ばれる学派が誕生していた。荊州学けいしゅうがくは当時の儒学じゅがくは豊富な注釈等で複雑になっていたのに意義を唱え、本来の文章を重視するものであった。


 劉表りゅうひょうのお抱え学者でもある宋忠そうちゅうに対し、司馬徽しばき劉表りゅうひょうとは距離を取っていた。だが、宋忠そうちゅう司馬徽しばきに学びたいと州外からわざわざやってくる者もいるぐらいで(尹黙いんもく伝、李譔りせん伝)、この二人が荊州けいしゅうの学問の中心と言えるだろう。


 その学問は時代的に儒教じゅきょうが中心になるわけだが、孔明こうめい儒教じゅきょうには強い関心がなかったようで、後に劉備りゅうびが息子劉禅りゅうぜん(本編未登場)に対し、孔明こうめいは『申子しんし』『韓非子かんぴし』『管子かんし』『六韜りくとう』を書写しているので、求めて学ぶようにと述べている。[先主せんしゅ伝]


 ここで出てくる『申子しんし』『韓非子かんぴし』『管子かんし』は法治ほうち主義を説く法家ほうかの書(『管子かんし』は孔明こうめいが自らをなぞらえた管仲かんちゅうの著作と伝わる)、『六韜りくとう』は兵法書へいほうしょである。わざわざ孔明こうめい自ら書写し、劉禅りゅうぜんに教えようという内容なのだから、特に重要視している書物であったと言えるだろう。


 孔明こうめいが自らを管仲かんちゅう楽毅がくきになぞらえた。これらから考えて孔明こうめいの目指した学問は法律を重視した政治家や兵法に通じた名将になることであったのだろう。


 管仲かんちゅう楽毅がくきの名からもわかるように、孔明は将来学者になろうとは思っていない。彼の学問は他の者が精密せいみつさを求める中、その大筋をつかもうとはげんだという。


 孔明こうめいは当時の荊州学けいしゅうがくの主流から外れながらも、その才能は高く評価され、司馬徽しばきが尊敬していた荊州の名士・龐徳公ほうとくこう(本編、ホウトクコウ、92話名のみ登場)は司馬徽しばき水鏡すいきょう(人を写す鏡)、孔明こうめい臥龍がりゅう(寝ている龍)、自身の従子おい龐統ほうとう(本編、ホウトウ、75話名のみ登場)を鳳雛ほうすう(鳳凰のひな)と評した。また、司馬徽しばきからも後に彼が劉備りゅうび孔明こうめいを推薦する時、「儒者じゅしゃや俗人には時勢のことはわからない。時勢を知るには俊傑しゅんけつでなければいけない」として孔明こうめい龐統ほうとうの二人を紹介している。[先主せんしゅ伝、諸葛亮しょかつりょう伝]


 司馬徽しばき孔明こうめい儒者じゅしゃや俗人より上の“俊傑しゅんけつ”と評されているのは、彼の勉学に対する姿勢が評価されていたことの表れだろう。龐徳公ほうとくこう司馬徽しばきの二人の大物名士に評価された孔明こうめいは期待の若手と言え、引く手あまたとなっても不思議ではない存在であった。



 ◎孔明の交友



 では、次に孔明こうめいが学問にはげむ中で得た交友関係を解説していこう。


 先ほどの学問の項目にて、孔明の友人として崔州平さいしゅうへい徐庶じょしょ石韜せきとう孟建もうけんの名を上げた。


 『董和とうわ(本編未登場)伝』の中の孔明こうめいの言葉に、初め崔州平さいしゅうへいと付き合い、後に徐庶じょしょと付き合ったとあり、『魏略ぎりゃく』には徐庶じょしょは同郷の石韜せきとうと親しくなり、後に共に荊州けいしゅうに赴き、孔明こうめいと親しくなったとある。


 孔明こうめい荊州けいしゅうに来てまず崔州平さいしゅうへいと親しくなり、その後、徐庶じょしょと友人となり、その徐庶じょしょの仲介で石韜せきとうと交流することとなったのだろう。孟建もうけんが加わった時期は不明だが、出身の汝南じょなん郡は徐庶じょしょ石韜せきとうらの穎川えいせん郡の隣なので、彼も徐庶じょしょ石韜せきとうを介して知り合ったのかもしれない。この四人が荊州けいしゅう時代の孔明こうめいが特に親しくしていた友人であった。


 崔州平さいしゅうへい冀州博陵郡きしゅうはくりょうぐんの人。州平しゅうへいあざな。名は不明。後漢ごかん司徒しと(大臣最高位の一つ)・崔烈さいれつ(本編、サイレツ、92話名のみ登場)の子、西河せいか太守たいしゅ崔均さいきん(本編未登場)(きんとも書く)の弟。


 父・崔烈さいれつは要職を歴任したが、霊帝れいてい売官ばいかん(霊帝れいていは役職を金銭で売買した)を行うと、大金で最高位の司徒しとの役職を買い、世間から批判された。兄・崔均さいきんもこの父の官位購入を激しく非難した。後に西河せいが太守たいしゅとなると袁紹えんしょうに同調。反董卓とうたくの軍に加わると、父である崔烈さいれつ董卓とうたくによって投獄とうごくされた。その後、李傕りかく長安ちょうあんを攻めると王允おういんらとともに殺された。兄・崔均さいきんは父の復讐を願ったが、まもなく病死した。


 崔州平さいしゅうへい荊州けいしゅうに来たのは崔均さいきんの死後のことであろう。名家出身だが、父の売官で悪評を得て、荊州けいしゅうの名士とはあまり交際できず、また、父兄という保護者の失った崔州平さいしゅうへいはよそ者で保護者を失ったばかりの孔明こうめいと気が合ったのかもしれない。


 徐庶じょしょ予州穎川よしゅうえいせん郡の人。字は元直げんちょく。元の名はふく。元々名家の出身ではなかった。若い頃、任侠にんきょうを好み剣の名手であった。人に頼まれて仇討あだうちをし、役人に捕らえられたが、仲間によって助け出された。この事件の後、思うところあって服装を整え、学問にはげんだ。じゅくでは彼が以前無法者だったので学生は付き合おうとしなかったが、謙虚けんきょな態度で行動をつつしんだ。初平しょへい年間(190~193年)に戦乱から逃れて荊州けいしゅうに移った。後に劉備りゅうびに招かれ、孔明こうめいを推薦した。


 徐庶じょしょは名家の出身ではなかった。(これを正史では『単家(寒門)の出身』と書き、小説三国志演義ではこれを『単という姓の家の出身』と誤読し、物語当初、徐庶じょしょ単福ぜんふくの名で登場する)だが、学問に目覚めると私塾に通い、荊州けいしゅうに逃れても遊学しているところを見るに、この単家の出身というのも、先祖や親族に官僚になった者がいなかっただけで、家自体は裕福だったのではないだろうか。なお、『水経注図すいけいちゅうず』によると、荊州けいしゅうでの徐庶じょしょの家は襄陽じょうようの城市外の西側、壇渓たんけい(劉備りゅうび蔡瑁さいぼうの暗殺から逃れて的盧てきろで川を飛び越えた場所)の側、崔州平さいしゅうへい宅と並んで建っていた。


 石韜せきとう予州穎川よしゅうえいせん郡の人。字は広元こうげん。同郷の徐庶じょしょと親しくなり、共に荊州けいしゅうに移った。


 孟建もうけん予州汝南よしゅうじょなん郡の人。字は公威こうい。ある時、孟建もうけんが故郷を懐かしみ、帰りたいと言うと、孔明こうめいは彼に「中原ちゅうげんには士大夫したいふがたくさんいる。遊楽は故郷にあるとは限らない」と言った。


 石韜せきとう孟建もうけんの出自はよくわからない。徐庶じょしょらと親しくしたところを見ると、そこまで名家でもないのかもしれない。なお、彼らの同郷で同姓(同郷同姓は親族の可能性が高い)の人物は正史には見当たらない。


 徐庶じょしょ石韜せきとう孟建もうけんらは、後に荊州けいしゅう曹操そうそうの領土となると、曹操そうそうの配下となり、後に徐庶じょしょ右中郎将うちゅうろうしょう(宮中の警備隊長の一つ)となり、御史中丞ぎょしちゅうじょう(官吏かんりの監察・弾劾だんがいを司る官)にまで昇進した。石韜せきとうは郡の太守たいしゅ典農校尉てんのうこうい(郡の屯田管理者)を歴任し、孟建もうけん涼州刺史りょうしゅうししとなり、最終的に征東将軍せいとうしょうぐんとなった。


 なお、後に孔明こうめいへの北伐ほくばつを決行し、涼州りょうしゅうへ侵攻するが、その時の涼州刺史りょうしゅうししがこの孟建もうけんであった。


 崔州平さいしゅうへいのその後はよくわからない。『新唐書しんとうじょ』(とうについて書かれた正史)の宰相世系さいしょうせいけい(宰相さいしょうを務めた人物の系譜けいふ)の崔氏さいしの系譜には、崔鈞さいきんあざな州平しゅうへい西河太守せいがたいしゅとあるが、おそらく兄・崔均さいきん(きんとも書く)の経歴と混同しているのであろう。曹操そうそうに降ったのかもわからない。あまり出世しなかったが、あるいは早くに亡くなったのかもしれない。前述の『魏略ぎりゃく』(で書かれた歴史書)の記録に孔明こうめいの友人として徐庶じょしょ石韜せきとう孟建もうけんの名はあっても崔州平さいしゅうへいの名はないのは、彼がで知名度がなかったからであろうか。



 ◎孔明の婚姻



 その名を龐徳公ほうとくこう司馬徽しばきらに認められた孔明こうめいは、具体的な年月は不明だが、結婚することとなった。


 相手は黄承彦こうしょうげん(本編未登場)の娘(本編、コウゲツエイ、75話より登場)である。


 黄承彦こうしょうげん高邁こうまいにして爽快そうかい、先の見通しがたち、ほがらかな人物で、沔南べんなんの名士であった。彼は孔明こうめいに「君は妻を探していると聞くが、私にはみにくい娘がいる。赤毛で色黒だが、才知は君とお似合いだ」といった。孔明こうめいがこの話を承知したので、すぐさま車に乗せて娘を送り届けた。当時、この話は人々の笑いの種となり、郷里では「孔明こうめいの嫁選びを真似するな。黄承彦こうしょうげん醜女しこめをもらうはめになるぞ」とのことわざ流行はやった。[諸葛亮しょかつりょう伝注・襄陽記じょうようき]


 孔明こうめいの嫁となった黄承彦こうしょうげんの娘についてはいくつもの伝説がある人物ではあるが、史料に見えない話が多いので彼女について詳述はしない。


 ここでは孔明こうめいの義父となった黄承彦こうしょうげんについて解説していく。


 黄承彦こうしょうげんは前述した襄陽記じょうようきによると“沔南べんなんの名士”だそうだ。沔南べんなんとはややこしい言い方である。沔水べんすい(川の名前、、もしくは漢水かんすい、現漢江かんこう)は漢中かんちゅうから流れ、江夏こうか(現武漢ぶかん付近)で長江ちょうこうに合流する、長江ちょうこうの最大の支流である。沔南べんなんとはつまりこの川の南側の地域を指すが、取りようによっては範囲が広くなりすぎてしまう。


 だが、黄承彦こうしょうげん襄陽じょうよう周辺の人という解釈で良いと思う。まず、参照した『襄陽記じょうようき』という本はその名のとおり、襄陽じょうようにゆかりの人物や地理を紹介する本である。また、この『襄陽記じょうようき』に掲載された廖化りょうか(本編未登場)の紹介文では、『(襄陽じょうよう郡)中盧侯国ちゅうろこうこくの人。沔南べんなんの名家である』と襄陽じょうよう出身者を沔南べんなんと記載されている。なお、中盧侯国ちゅうろこうこく襄陽じょうよう県のすぐ隣に位置し、劉表りゅうひょうの重臣・蒯越かいえつ(本編、カイエツ、63話より登場)の出身地でもある。これらから見て、『襄陽記じょうようき』の沔南べんなん襄陽じょうよう周辺の地域程度の意味と解釈して良いのではないだろうか。


 さて、黄承彦こうしょうげんだが、『襄陽記じょうようき』には別の人物の箇所にも登場している。それは蔡瑁さいぼう(本編、サイボウ、63話より登場)に関する記事である。


 かん末はさい氏の最盛期である。蔡諷さいふう(本編未登場)は妹を太尉たいい張温ちょうおん(本編、チョーオン、8話より登場)にとつがせ、上の娘を黄承彦こうしょうげんとつがせ、下の娘を劉表りゅうひょうの後妻とした。これは蔡瑁さいぼうの妹である。[襄陽記じょうようき]


 蔡瑁さいぼうの姉妹のうち姉が黄承彦こうしょうげんに、妹は劉表りゅうひょうとついだ。つまり、蔡瑁さいぼう劉表りゅうひょう黄承彦こうしょうげんは義理の兄弟であった。そしてその黄承彦こうしょうげんの娘ということは蔡瑁さいぼう劉表りゅうひょうめいにあたる。この婚姻により孔明こうめい蔡瑁さいぼう劉表りゅうひょうらと親戚になったということでもあった。


 孔明こうめいの姻戚はこれだけではない。彼には姉が二人いた。


 蒯祺かいき(本編未登場)の妻は孔明こうめいの上の姉であった[襄陽記じょうようき]


 龐徳公ほうとくこうの子・山民さんみん(本編、ホウサンミン、92話名のみ登場)は高名があり、孔明こうめいの下の姉をめとり、黄門吏部郎こうもんりぶろうとなったが、早逝そうせいした[襄陽記じょうようき]



 蒯祺かいきは正史三国志にも『劉封りゅうほう(本編、リュウホウ、66話より登場)伝』に房陵太守ぼうりょうたいしゅとして登場している。襄陽記じょうようきに記載されていることから、襄陽じょうようの人、おそらく劉表りゅうひょうの重臣・蒯越かいえつ蒯良かいりょう(本編、カイリョウ、63話名のみ登場)らの同族だろう。


 龐徳公ほうとくこうはすでに紹介している。孔明こうめい臥龍がりゅうと名付けた人物である。なお、同じく鳳雛ほうすうと名付けられた龐統ほうとう龐徳公ほうとくこう従子おい山民さんみんの従兄弟なので孔明こうめい龐統ほうとうも親戚である。龐氏ほうしもまた襄陽じょうようの名家であった。また劉表りゅうひょう荊州けいしゅうに来たばかりの頃、襄陽じょうように居座るぞくを説得しに赴いた使者として龐季ほうき(本編未登場)という人物が登場している。この龐季ほうきもおそらく襄陽じょうよう龐氏ほうし龐徳公ほうとくこうらの同族だろう。龐徳公ほうとくこう個人は劉表りゅうひょうに仕えなかったが、龐氏ほうし自体は劉表りゅうひょうに初期から協力する一族であった。


 孔明こうめいは婚姻関係を結び、荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょう襄陽じょうようの名家・蔡氏さいし黄氏こうし蒯氏かいし龐氏ほうしと親族となっていた。


 さて、孔明こうめいは一般的には劉表りゅうひょうには仕えず、あえて距離を取っていたと言われている。


 だが、この婚姻関係を見て果たしてそうだと言えるだろうか。


 孔明こうめいは明らかに劉表りゅうひょう政権に接近している。また、孔明こうめいは自らを管仲かんちゅう楽毅がくきになぞられるほど、社会に出て自分の力を奮いたいと思っている。たまたま劉備りゅうび荊州けいしゅうにやってきて孔明こうめいを迎え入れたから世に出ることが出来たが、もし出会えなかったら、自分を管仲かんちゅう楽毅がくきになぞられるような青年がそのまま隠者いんじゃのような生活を送るつもりだったのだろうか。


 むしろ、孔明こうめい劉表りゅうひょうに仕えようとしていたのではないだろうか。そして採用しなかったのは劉表りゅうひょうの方ではないか。



 ◎劉表の豪族連合政権



 では、なぜ劉表りゅうひょう孔明こうめいを採用しなかったのか。


 孔明こうめいは学業に優れ、劉表りゅうひょうから距離を取っているとはいえ荊州けいしゅうで知られた名士・龐徳公ほうとくこう司馬徽しばきらに高く評価され、また、劉表りゅうひょう荊州けいしゅうの名家の親戚でもある。なぜ、採用しないということがあるのだろうか。


 その一番の理由は荊州けいしゅう出身者ではないということではないだろうか。


 次にあげる一覧は孔明こうめいとほぼ同時期、つまり劉表りゅうひょう政権が安定し始めた190年代後半から200年代前半頃に荊州けいしゅうにいた人材とその出身地、そして劉表りゅうひょう政権で得た役職をまとめたものである。


韓嵩かんすう(本編、カンスウ、79話より登場)(荊州けいしゅう義陽ぎよう郡)→別駕べつが従事中郎じゅうじちゅうろう

向朗しょうろう(本編、ショウロウ、74話より登場)(荊州けいしゅう襄陽じょうよう郡)→臨沮りんそ県の長

潘濬はんしゅん(本編未登場)(荊州けいしゅう武陵ぶりょう郡)→江夏こうか郡の従事じゅうじ湘郷しょうきょう県の令

李厳りげん(本編、リゲン、63話より登場)(荊州けいしゅう南陽なんよう郡)→いくつかの郡県の長

劉先りゅうせん(本編未登場)(荊州けいしゅう零陵れいりょう郡)→別駕べつが

龐統ほうとう(荊州けいしゅう襄陽じょうよう郡)→郡の功曹こうそう


伊籍いせき(本編、イセキ、63話より登場)(兗州えんしゅう山陽さんよう郡)→記載なし

裴潜はいせん(本編、ハイセン、92話より登場)(司隷しれい河東かとう郡)→賓客ひんきゃくの礼で対応

和洽かこう(本編未登場)(予州よしゅう汝南じょなん郡)→賓客ひんきゃくの礼で対応

王粲おうさん(本編、オウサン、63話より登場)(兗州えんしゅう山陽さんよう郡)→劉表りゅうひょうは尊重せず

徐庶じょしょ(予州よしゅう穎川えいせん郡)→記載なし

崔州平さいしゅうへい(冀州きしゅう博陵はくりょう郡)→記載なし

石韜せきとう(予州よしゅう穎川えいせん郡)→記載なし

孟建もうけん(予州よしゅう汝南じょなん郡)→記載なし


 ここではその就任した役職の内容にまでは言及しない。


 以上から劉表りゅうひょう政権において荊州けいしゅう出身者(よりいうなら荊州けいしゅう豪族出身者)と他州出身者とでは扱いに大きな違いがあることがわかる。


 劉表りゅうひょうは初め荊州に来た時、単身で訪れ、配下と呼べる者はいなかった。そこへ襄陽じょうようの豪族である蔡瑁さいぼう蒯越かいえつ蒯良かいりょうらが手を貸すことでようやく荊州けいしゅうをその支配下に置くことができた。劉表りゅうひょう政権を運営する上において荊州けいしゅう豪族の協力は不可欠であった。そして、荊州けいしゅう豪族は劉表りゅうひょうに協力することで自分たちの権益を守り、より力をつけることができた。


 このような協力体制であったために、劉表りゅうひょう政権での採用者は荊州けいしゅう豪族が優先されることとなった。


 もちろん、政権には非荊州けいしゅう人も参加していた。


 傅巽ふそん(本編、フソン、79話より登場)がその代表例だろう。彼は涼州りょうしゅう北地ほくち郡の出身だが、東曹掾とうそうじょうの役職に就いている。だが、彼は劉表りゅうひょう政権参与前にすでに朝廷に出仕し、尚書郎しょうしょろうを務めていた。


 また、上記にて賓客の例で対応されたとある和洽かこう荊州けいしゅうに来る前に故郷にて孝廉こうれんに上げられ、大将軍に招かれたが、応じなかった人物で、裴潜はいせんの家は代々名門として知られ、父裴茂はいぼう(本編未登場)は県令、郡太守を歴任した後、尚書しょうしょとなり、後に段煨だんわい(本編未登場)らと共に李傕りかくを討ち、その功で列侯れっこうとなった。裴潜はいせん自身の前歴は不明だが、その出自からある程度の評判を持っていたのではなかろうか。


 なお、余談ではあるが、裴潜はいせんの一族は後世にも名門として繁栄し、とう代には17人もの宰相さいしょうを輩出した。また、その一族の中には正史『三国志』に注を付した裴松之はいしょうし(裴潜はいせんの弟の六世の孫)や飛鳥あすか時代に日本に来た裴世清はいせいせい(聖徳太子がずい煬帝ようだいに送った『日出るところ天子てんし…』の国書に対する返礼の使者を務めた)等がいる。


 話を戻すが、王粲おうさんの祖父・王暢おうちょう(本編、92話名のみ登場)は三公さんこうを務め、劉表りゅうひょうの青年時代の学問の先生であった。また、王粲おうさん自身も後漢ごかんの大学者・蔡邕さいよう(本編未登場)の評価を受け、17歳で司徒府しとふに招かれたが、董卓とうたくの乱の真っ最中だったために就任せず、荊州けいしゅうへ避難してきた人物であった。だが、劉表はかつての先生の孫を風采が上がらない容姿と、大雑把な性格を嫌いあまり尊重しなかった。(ただ、王粲おうさんは後に荊州けいしゅうを継いだ劉琮りゅうそうに対し、曹操そうそうに帰服するよう説得しており、肩書きは不明ながら政権そのものには参加していた可能性が高い)


 このように劉表りゅうひょう政権においてよそ者が役職に就くことはまれで、既に朝廷の役職に就いた経験者、郷里や都で名士の評価を受け、孝廉こうれんや役職の誘いがあった者といった荊州けいしゅう以前から名声のある者に限られていたのだろう。


 それでも多くは賓客ひんきゃくとして尊重されても、具体的な役職は貰えず、荊州けいしゅう豪族以上の発言力を持つことはできなかった。上述の和洽かこう裴潜はいせんもそうだが、杜襲としゅう(本編、トシュウ、41話より登場)(予州穎川よしゅうえいせんの人)や趙儼ちょうげん(本編、チョウゲン、41話より登場)(予州穎川よしゅうえいせんの人)のように一度は劉表りゅうひょうの元に来ながら、結局去ってしまった者が多いのはこういった理由が大きかったのではなかろうか。


 ひるがえって孔明こうめいを見てみると、荊州けいしゅう以前はまだ未成年なので仕方がないのだが、役職に就いた経験はなく、名声を得たのも荊州けいしゅうに着いてからのことである。孔明こうめい劉表りゅうひょう政権の募集要項に合致していない。劉表りゅうひょう政権にとってその人物が頭が良いとか有能であるとかは二の次三の次であり、まず第一に家であった。


 おそらく孔明こうめいは当初、学問にはげみ、名士の評価を得るという正攻法で世に出ようとしたが、劉表りゅうひょう政権の採用枠はほとんど荊州けいしゅう豪族の子弟で埋まり、採用されず、それならと婚姻関係によって親族となったが、諸葛しょかつ氏自体が権勢を持ったわけではないので、それでも採用されなかったのだろう。


 これにより孔明こうめい劉表りゅうひょうに就職出来ず、隆中りゅうちゅうこもることとなった。彼のこの頃の胸中は知る由もないが、孔明こうめいはこれ以降、自らどこかに赴き仕官することはなかった。



 ◎まとめ


 後に三国志を代表する人物となる諸葛孔明しょかつこうめい劉備りゅうびと出会うまでの前半生を整理してみた。


 孔明こうめいは10歳ぐらいの頃に母を失い、12歳ぐらいで父を失い、13の頃に故郷を去った。その後は従父おじに従い予章よしょうに移ったが、そこでも戦乱に巻き込まれ、結局、17歳で荊州けいしゅうにたどり着き、そこでようやく落ち着くことができた。そういう時代であったとはいえ、波乱万丈な少年期を過ごしたといえる。


 それでも腐ることなく、勉学に励み、積極的に人と交流していたのだから立派な人物といえるだろう。


 だが、たどり着いた劉表りゅうひょう政権下の荊州けいしゅうでは豪族の力が強く、学問だけで身を立てることが叶わず、巧みに婚姻関係を結び、政権有力者の親族となってもなお、採用には至らなかった。


 だが、司馬徽しばき徐庶じょしょら、孔明こうめいの能力を知り、惜しむ者がいた。彼らによって孔明こうめいの名は劉備りゅうびの知るところとなり、207年、劉備りゅうび自ら三度草蘆そうろを訪ね、孔明こうめいは遂に世に出る機会を得ることとなった。


 自ら管仲かんちゅう楽毅がくきなぞらえる大志を持った孔明は、同じく大志を持つ劉備りゅうびと合致し、後に彼の軍師となり、その大業を助けることとなった。



 ◎孔明前半生略年表



174年、兄・諸葛瑾、生まれる

181年、諸葛孔明、生まれる

孔明1歳

184年2月、黄巾の乱勃発

孔明4歳

188年頃?、兄・諸葛瑾、洛陽へ遊学

孔明8歳

189年4月、霊帝崩御、少帝即位

9月、董卓、少帝を廃し、献帝を即位させる

孔明9歳

190年1月、反董卓連合挙兵、袁紹を盟主とする

2月、董卓、洛陽を捨てて、長安に遷都する

この頃?、孔明の母・章氏死去

孔明10歳

191年4月、董卓自ら長安に移動する

朱儁、反董卓連合と内通するが、董卓に発覚し、荊州に逃亡する

この頃、孫堅、朱儁とともに洛陽入り

7月、袁紹、韓馥を脅し、冀州を奪う

曹操、東郡太守となり、東武陽を本拠地とする

11月、泰山太守・応卲、攻めてきた青州黄巾賊を破る

青州黄巾賊、渤海を攻め、公孫瓚と東光で戦う、公孫瓚、これを破る

この年、朱儁、董卓打倒の檄文を出し、徐州刺史・陶謙、これに応ず

この年、袁術、孫堅に命じ、劉表を攻めさせる

この頃?、父・諸葛珪死去、

孔明11歳

192年1月、董卓の将・李傕、郭汜、朱儁を破る

孫堅、劉表との戦いで戦死(前年説あり)

曹操、黒山賊、於夫羅を破る

袁紹対公孫瓚、界橋の戦い、袁紹勝利

4月、董卓、王允・呂布に殺される

青州黄巾賊、東平にて兗州刺史・劉岱を討つ

東郡太守・曹操、寿張にて青州黄巾賊を討ち、冬、これを降伏させる

曹操、兗州牧となる

6月、李傕ら、長安を落とす

王允、殺害され、呂布、逃亡す

8月、李傕ら、馬日磾と太僕・趙岐を各地に派遣する

9月、李傕・車騎将軍、郭汜・後将軍、樊稠・右将軍、張済・鎮東将軍となる

10月、劉表、荊州牧に昇進する

この年、朱儁、李傕政権に参加する

孔明12歳

193年春、劉表、袁術を攻める

袁術、曹操・劉表らに敗れ、南陽を捨てて、揚州に逃走する

袁術、徐州伯と称する

この頃、陶謙を徐州牧に、趙昱を広陵太守に、王朗を会稽太守に任命する

6月、朱儁、太尉となる

陶謙、泰山郡の華・費を奪い、任城を攻略する

曹操の父曹嵩死去

秋、曹操、陶謙を征討す

劉備、陶謙の救援に赴く

この年、琅邪王劉容、薨去

この年、孫策、袁術の命で長江を渡る

この頃?、孔明ら故郷を去る

諸葛瑾20歳、孔明13歳

194年、陶謙、上表して劉備を予州刺史とする

夏、曹操、再び徐州征伐

呂布、曹操が留守の兗州を奪う

曹操、呂布と戦うが、飢餓のため引き上げる

この年、飢饉により穀物が高騰する

陶謙、死去。劉備、徐州を託される

7月、太尉・朱儁を罷免する

4月~7月、旱により飢饉となる

この年、揚州刺史・劉繇、孫策と曲阿で戦い、劉繇、破れる

この年、馬日磾、袁術に勾留され寿春にて死去

この頃?、孔明の従父・諸葛玄、袁術により予章太守に任命される

孔明14歳

195年春、李傕、樊稠を殺し、郭汜と争う

曹操、呂布を破り、呂布、劉備の元に走る

この頃?、朱儁憤死

7月、献帝、長安を脱出し、洛陽を目指す

冬、袁術、自ら帝位に登ろうとするが、臣下のの反対にあい、断念する

この年、諸葛玄、予章太守となるが、朱皓と太守の地位をめぐって争う

孔明15歳

196年7月、献帝、洛陽に到着する

曹操、洛陽に赴き、献帝を迎える。

9月、許に遷都する

曹操、大将軍・武平侯となる

10月、袁紹、太尉に任命されるも受けず、曹操、大将軍の位を袁紹に譲る

曹操、司空・車騎将軍となる

呂布、徐州を奪い、劉備、曹操の元に逃走する

この年、張済、南陽に逃走し、戦死する。甥・張繡が継ぎ、宛に駐屯する

この頃?、諸葛玄、劉表に属す

孔明16歳

197年1月、諸葛玄、死去

孔明、荊州に移住する

曹操、宛に赴き、張繡、降伏するが、反撃に遭い敗北する

春、袁術、皇帝を僭称する

この年、長江、淮南地域で飢餓

孔明17歳

198年4月、裴茂・段煨、李傕を討つ

12月、曹操、呂布を殺す

孔明18歳

199年6月、袁術死去

劉備、徐州で曹操に対し反乱を起こす

孔明19歳

200年4月、孫策死去、弟・孫権継ぐ

10月、官渡の戦い

この頃?、兄・諸葛瑾、孫権に仕える

諸葛瑾27歳、孔明20歳

201年9月、劉備、劉表の元に走る

孔明21歳

207年、劉禅、生まれる

三顧の礼、孔明、劉備に仕える

孔明27歳

208年、赤壁の戦い

孔明28歳



〔参考文献〕



・書籍

陳寿著 今鷹真・井波律子・小南一郎訳 『正史三国志』(全八巻) 筑摩書房 1993年

范曄撰 李賢等注 『後漢書』(全六巻) 中華書局出版 1965年

狩野直禎 『諸葛孔明』 人物往来社 1966年

植村清二 『諸葛孔明』 中央公論社 1985年

中林史朗 『諸葛孔明語録』 明徳出版社 1986年

宮川尚志 『諸葛孔明(新装版)』 光風社 1988年

中国綜合地図出版編 『中国綜合地図集』 中国綜合地図出版社 1990年

東晋次 『後漢時代の政治と社会』 名古屋大学出版会 1995年

渡邉義浩 『「三国志」の政治と思想 史実の英雄たち』 講談社 2012年

柿沼陽平 『劉備と諸葛亮 カネ勘定の「三国志」』 文藝春秋 2018年

長田康宏 『三国志群雄太守県令勢力図(上)』 同人誌 2018年


・論文

上田早苗 「後漢末期の襄陽の豪族」 『東洋史学』(28号) 1970年

狩野直禎 「後漢書列伝六十一朱儁伝訳稿」 『史窓』(58号) 2001年


・サイト

資治通鑑 維基文庫

https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%B3%87%E6%B2%BB%E9%80%9A%E9%91%91

三国志、全文検索 http://www.seisaku.bz/sangokushi.html

全三国文

https://zh.m.wikisource.org/zh-hans/%E5%85%A8%E4%B8%89%E5%9C%8B%E6%96%87

襄陽記

https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%A5%84%E9%99%BD%E8%A8%98

水経注

https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%B6%93%E6%B3%A8?uselang=ja

讀史方輿紀要

https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%AE%80%E5%8F%B2%E6%96%B9%E8%BC%BF%E7%B4%80%E8%A6%81

むじん書院

http://www.project-imagine.org/mujins/

季漢書

http://blog.livedoor.jp/jominian/

てぃーえすのメモ帳

https://t-s.hatenablog.com/

思いて学ばざれば

https://mujin.hatenadiary.jp/

いつか書きたい『三国志』

http://3guozhi.net/

もっと知りたい!三国志

https://three-kingdoms.net

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る