歴史解説 諸葛孔明前史 中編(従父・兄編)

 ※これは別に連載中の小説『学園戦記三国志』の歴史解説回を独立・編集して掲載するものです。


↓学園戦記三国志リンク

https://kakuyomu.jp/works/1177354054890213389




 三国志で最も有名な人物、諸葛亮しょかつりょうあざな孔明こうめい(以下、孔明こうめいで統一)。前編では彼の両親の死と故郷を去るまでを解説した。この中編では従父おじ諸葛玄しょかつげんとおまけとして兄・諸葛瑾しょかつきんが呉に仕える以前について解説していく。



  ◎従父・諸葛玄



 では、これより孔明こうめいの新たな保護者、従父おじ諸葛玄しょかつげんについて解説しよう。


 諸葛玄しょかつげん予章よしょう太守たいしゅ任命以前の経歴は不明である。だが、荊州けいしゅう劉表りゅうひょうと旧知であったとあるので、もしかしたら朝廷ちょうていに出仕したことがあったのかもしれない。


 予章よしょう太守たいしゅ時代の事績については、諸葛亮しょかつりょう伝本文、諸葛亮しょかつりょう伝注の『献帝春秋けんていしゅんじゅう』、劉繇りゅうよう伝注の『献帝春秋けんていしゅんじゅう』の三ヶ所に記録されている。では、その文章を比較してみよう。


 諸葛玄しょかつげん袁術えんじゅつの任命により予章よしょう太守たいしゅとなり、孔明こうめいらを引き連れて赴任した。同じ頃、朝廷ちょうていでは朱皓しゅこう(本編未登場)を予章よしょう太守たいしゅに任命し、諸葛玄しょかつげんと交代させた。諸葛玄しょかつげんは旧知であった荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうを頼り、彼のもとに身を寄せた。諸葛玄しょかつげんが亡くなると、孔明こうめいは自ら農耕を行った。[諸葛亮しょかつりょう伝]


 初め予章よしょう太守たいしゅ周術しゅうじゅつ(本編未登場)が病死したので、劉表りゅうひょう諸葛玄しょかつげん予章よしょう太守たいしゅとし、南昌なんしょうにおいた。一方、朝廷ちょうていでは周術しゅうじゅつの後任として朱皓しゅこうを派遣した。朱皓しゅこう揚州牧ようしゅうぼく劉繇りゅうようと協力し、諸葛玄しょかつげんを攻撃、諸葛玄しょかつげんは撤退し、西城せいじょうに駐屯し、朱皓しゅこう南昌なんしょうに入った。197年、西城せいじょうの民衆が反乱を起こし、諸葛玄しょかつげんを殺してその首を劉繇りゅうように届けた。[諸葛亮しょかつりょう伝注、献帝春秋けんていしゅんじゅう]


 劉繇りゅうよう彭沢ほうたくに軍営を置くと、笮融さくゆう(本編、サクユウ、22話より登場)を派遣し、朱皓しゅこうに加勢させて、諸葛玄しょかつげんを討伐させた。諸葛玄しょかつげんを追い出すと笮融さくゆうは、今度は朱皓しゅこうを殺し、自身が予章よしょうの支配者となった。[劉繇りゅうよう伝注、献帝春秋けんていしゅんじゅう]


 諸葛亮しょかつりょう伝の注も劉繇りゅうよう伝の注も共に『献帝春秋けんていしゅんじゅう』からの引用である。『献帝春秋けんていしゅんじゅう』自体は散佚さんいつしてしまっているので、元の文章がどういう構成であったのかは不明。なお、別の箇所ではあるが、引用を行った裴松之はいしょうしは、『献帝春秋けんていしゅんじゅう』の内容に対して、いい加減だとして批判している。


 しかし、諸葛亮しょかつりょう伝本文の内容も少ないので、本文を中心としながら、『献帝春秋けんていしゅんじゅう』で補う形で整理していこうと思う。


 まず、両書では任命者が袁術えんじゅつ劉表りゅうひょうと食い違っているが、これは袁術えんじゅつで良いと思う。当時、袁術えんじゅつ揚州ようしゅうの他の太守たいしゅを何人も無断で任命しているのに対し、劉表りゅうひょう揚州ようしゅうの太守を任命した例が他に見られない。


 また、この頃(193年~195年頃)の劉表りゅうひょうは、表向き朝廷ちょうてい(李傕りかく政権)とは友好関係にあり、それに真正面から対立する人事を行うように思えないからだ。おそらく後に諸葛玄しょかつげん劉表りゅうひょうを頼った結果の逆算から、『献帝春秋けんていしゅんじゅう』は劉表りゅうひょうを任命者としたのだろう。


 袁術えんじゅつに任命された諸葛玄しょかつげん予章よしょう太守たいしゅとして南昌なんしょう(町の名前、南昌なんしょう県は予章よしょう郡の郡治ぐんち(現代で言うところの県庁所在地)になる)に入った後に、李傕りかく政権に任命された朱皓しゅこう予章よしょう郡に入ったが、諸葛玄のしょかつげんために南昌なんしょうに入ることが出来なかった。


 この朱皓しゅこうとは先に登場した朱儁しゅしゅんの子である。


 李傕りかく政権に招かれた朱儁しゅしゅん太僕たいぼく(大臣の一つ)、そして太尉たいい(大臣最高位の一つ)と昇進していく。192年後半~193年のことである。しかし、195年に政変が起こる。195年2月、李傕りかくは同じく政権を運営していた樊稠はんちょうを殺し、郭汜かくしと対立する。朱儁しゅしゅんはこの対立の仲介を行おうとしたが、郭汜かくしに人質とされ、これにいきどおり、急死してしまう。


 李傕りかく郭汜かくしの対立は195年すぐのことで、朱儁しゅしゅんの死もそれから離れてはいないだろう。ならば、朱皓しゅこうが太守に任命されたのは、おそらく194年中であり、それより前に諸葛玄しょかつげんが任命されたことになる。


 そこへ孫策そんさくに敗れた揚州牧ようしゅうぼく劉繇りゅうよう予章よしょうへ逃げ込んできた。おそらく195年内のことだろう。


 劉繇りゅうようは部下の笮融さくゆうを派遣し、朱皓しゅこうとともに諸葛玄しょかつげんを攻撃させ、これにより諸葛玄しょかつげん南昌なんしょうを追い出され、西城せいじょうこもった。


 『讀史方輿紀要どくしほうよきよう』によると、予章よしょう城の西に子城しじょうがある。諸葛玄しょかつげんが退いた西城せいじょうとはここだという。


 子城しじょうとは大城に付随ふずいした小城のこと。南昌なんしょう県の城市の北に鄱陽湖はようこ(湖の名)を要し、そこから流れる贛水かんすい(贛江かんこう、川の名)が南昌なんしょうのすぐ西側を南北に通っている。退却した先がすぐ隣では攻められてしまうので、あるいはこの川を挟んだ形で西城せいじょう南昌なんしょうと隣接していたのかもしれない。


 『献帝春秋けんていしゅんじゅう』の記述によれば、諸葛玄しょかつげんは197年までこの西城せいじょうにいるので、一年以上、この城でねばったことになる。


 それはこの川が防壁になったこともあるだろうが、それ以上に敵に内紛が起こったことが理由だろう。


 劉繇りゅうようの命令を受け、諸葛玄しょかつげんを追い払った笮融さくゆう朱皓しゅこうを殺し、自らが予章よしょうの支配者となった。そのため劉繇りゅうよう笮融さくゆうと戦い、これを破り、笮融さくゆうは逃走中に住民によって殺された。[劉繇りゅうよう伝]


 この予章よしょうでの内紛が展開されている間、諸葛玄しょかつげん袁術えんじゅつに見切りを付け、劉表りゅうひょう鞍替くらがえして援助を得ることにしたのだろう。おい孔明こうめいらが荊州けいしゅうに逃れたのもこの頃の事かもしれない。


 諸葛玄しょかつげん袁術えんじゅつを裏切ることにした。


 諸葛玄しょかつげん南昌なんしょうを追われた195年の冬、袁術えんじゅつは自ら皇帝に即位すると発言した。この時は部下の閻象えんしょう(本編、エンショー、21話より登場)に反対され、取り止めとなったが、結局、197年に即位することとなる。[袁術えんじゅつ伝]


 こういった袁術えんじゅつの皇帝僭称せんしょうに反感を持った面もあるかもしれないが、それ以上に現実的な問題があったのだろう。


 おそらく、諸葛玄しょかつげん劉繇りゅうよう予章よしょうに侵入してきた時や笮融さくゆうの侵攻時に再三、袁術えんじゅつに救援を要請したことだろう。だが、袁術えんじゅつからの援軍は来ず、西城せいじょう孤立無縁こりつむえんとなった。諸葛玄しょかつげんがどの段階で劉表りゅうひょうを頼ったのかは不明だが、援軍が来ない以上、いつまでも袁術えんじゅつだけを頼ることはできない。自分を見捨てた相手に義理もないだろうから、劉表りゅうひょう鞍替くらがえしたのだろう。


 南昌なんしょうより北西に進めば劉表りゅうひょうの治める江夏郡こうかぐんに出る。地理的な近さに加え、諸葛玄しょかつげん劉表りゅうひょうは旧知であったというなら、頼る先として適当であろう。


 ただ、諸葛玄しょかつげん劉表りゅうひょうと旧知なのは、諸葛玄しょかつげん予章よしょう太守たいしゅとして赴任して以降の可能性もある。諸葛玄しょかつげんのいる予章よしょう郡は荊州けいしゅう南部に隣接し、この頃、劉表りゅうひょう荊州けいしゅう南部を完全に支配下に置けておらず、また、袁術えんじゅつとも対立関係にあった。そこで劉表りゅうひょう予章よしょう太守たいしゅである諸葛玄しょかつげんに近づいたのかもしれない。


 諸葛玄しょかつげん劉表りゅうひょうと縁はいずれの頃かは定かではないが、ともかく諸葛玄しょかつげん劉表りゅうひょうを頼りとし、劉表りゅうひょうは彼を支援した。


 では、何故、劉表りゅうひょう諸葛玄しょかつげんを受け入れ、彼への支援を約束したのか。


 劉表りゅうひょうはかつて李傕りかく政権より安南将軍あんなんしょうぐん荊州牧けいしゅうぼくに任じられたことは前に述べた。劉表りゅうひょう李傕りかくに近しく、袁術えんじゅつと対立しているのであるなら、本来なら、李傕りかく政権が任じた朱皓しゅこう(あるいは劉繇りゅうよう)を支援し、袁術えんじゅつが任じた諸葛玄しょかつげんと対立する関係である。だが、この頃になると天下の情勢が変わっていた。


 195年、政権を担っていた李傕りかく郭汜かくしらが対立したことは先ほど述べたが、それにより献帝けんてい長安ちょうあんを脱出、李傕りかく郭汜かくしらの追撃にいながらも、196年の7月、洛陽らくように到着する。


 そして、献帝けんていは各地の群雄に支援を要請、これに劉表りゅうひょうが応じ、董卓とうたくによって廃墟はいきょとなった洛陽らくようの復興作業に乗り出した。しかし、同じく要請に応じた曹操そうそうは、同年9月、献帝けんていを自身の拠点である許都きょとに移してしまった。


 この曹操そうそうの無断での献帝けんてい取り込みの一件は、洛陽らくようを復興していた劉表りゅうひょうを激怒させたらしく、197年1月、南陽郡なんようぐん張繡ちょうしゅう劉表りゅうひょうが手を組み、曹操そうそうと対立し、以降、しばしば劉表りゅうひょう張繡ちょうしゅう曹操そうそう領へ侵攻することとなる。[武帝紀ぶていき後漢ごかん書・孝献帝紀こうけんていき趙岐ちょうき伝]


 この劉表りゅうひょうに対して、曹操そうそうは戦いもしたが、一方で懐柔かいじゅうし、和解しようと計っていたようである。


 曹操そうそう御史中丞ぎょしちゅうじょう(官吏かんりの監察・弾劾だんがいを司る官)・鍾繇しょうようを派遣して、劉表りゅうひょう鎮南将軍ちんなんしょうぐんに任じ、さらに左中郎将さちゅうろうしょう(宮中の警備隊長の一つ)・祝耽しゅくたんを派遣してせつを授け、督交揚二州とくこうようにしゅう(一説に督交揚益三州とくこうようえきさんしゅうとする)とした。[劉鎮南碑りゅうちんなんひ]


 劉鎮南碑りゅうちんなんひには誰が任じたかは書いていないが、鍾繇しょうよう御史中丞ぎょしちゅうじょうとなるのは、献帝けんてい長安ちょうあんを脱出し、曹操そうそうと連絡を取って以降のことであるから、おそらく、曹操そうそうのよって行われた人事であろう。


 また、督交楊二州とくこうようえきさんしゅう(交州こうしゅう揚州ようしゅうの総督、または益州を含む三州の総督)としたのは、196年、曹操そうそう袁紹えんしょう大将軍だいしょうぐんの位を譲ったが、この時さらに袁紹えんしょう督青幽并三州とくきせいゆうへいよんしゅう(青州せいしゅう幽州ゆうしゅう并州へいしゅうの総督)としたことを受けてのことであろうから、これとほぼ同時期と見てよいだろう。


 しかし、劉表りゅうひょうは結局、曹操そうそうなびくことはなく、208年に曹操そうそうによる荊州けいしゅう征伐を受けるまで対立は続くことになる。


 諸葛玄しょかつげん劉表りゅうひょうに投降したのは、まさにこういった情勢の最中であった。


 劉表りゅうひょうからすれば李傕りかく政権が潰れた今、劉繇りゅうようを支援する理由はなく、劉表りゅうひょう自身は揚州ようしゅうとくとなったが、実際に揚州ようしゅうを支配しているわけではない。そこで予章よしょう太守たいしゅ諸葛玄しょかつげんようし、予章よしょうを手に入れれば、揚州ようしゅう支配の足掛かりになると判断したのだろう。


 諸葛玄しょかつげん勢が小城にこもり、197年まで耐えたのもこの劉表りゅうひょうからの援軍が来ることを信じたからだろう。


 だが、諸葛玄しょかつげんの記録では劉表りゅうひょうの援軍に関する記述がない。また、劉表りゅうひょう側にも劉繇りゅうようと戦ったという記述もない。元々、記録が多くなく、書きらしの可能性もあるが、もしかしたらこの時、劉表りゅうひょうから援軍は来なかったのかもしれない。


 ここからは想像だが、諸葛玄しょかつげんから劉表りゅうひょうと手を組んだと聞かされ、援軍の到着を信じて西城せいじょうこもったのに、一年以上経過しても劉表りゅうひょうからの援軍は到着しない。当然、諸葛玄しょかつげんはその責任を追及される。ついに我慢の限界に達し、西城せいじょうの人たちは諸葛玄しょかつげんを殺したのではないだろうか。


 諸葛玄しょかつげんと共に西城せいじょうこもっていたのは、諸葛玄しょかつげんの縁者や使用人もいるだろうが、多くは南昌なんしょうの人たちではないだろうか。


 郡の官吏かんりや郡兵はその地域の出身者である場合が多い。郡の官吏かんりや郡兵、その家族を中心とした人達が諸葛玄しょかつげんに同行したのだろうが、彼らは諸葛玄しょかつげんに忠誠を誓って同行したわけではないだろう。


 南昌なんしょうに攻めてきた笮融さくゆうはこれまでも殺人や略奪を度々行い、評判の悪い人物であり、さらに率いている丹揚たんよう兵は勇猛で知られていた。そういった連中が攻めてくると聞けば、恐怖するのは自然だろう。


 南昌なんしょうの人たちは避難のつもりで諸葛玄しょかつげんに付き従い、西城せいじょうに移った。だが、諸葛玄しょかつげんが言っていた劉表りゅうひょうからの援軍はいつまで経っても来ず、一年以上が経過した。しかも、その間に恐れていた笮融さくゆうは死に、予章よしょうの支配者は劉繇りゅうように変わった。


 劉繇りゅうよう孫策そんさくと敵対した関係で小説等では悪役や無能な人物に描かれるが、皇族の血を引く名門の出身で、自身も清廉せいれんな人格者として知られていた。


 一度は諸葛玄しょかつげんに従った南昌なんしょうの人たちは、笮融さくゆうなら何をするかわからない恐怖があるが、劉繇りゅうようなら頭を下げれば許されると考えたのではないだろうか。少なくとも一度でも諸葛玄しょかつげんに従った奴は許さん、皆殺しだとはならないだろう。そこで彼らは諸葛玄しょかつげんの首を手土産に劉繇りゅうように降伏したのではないだろうか。


 こうして諸葛玄しょかつげんは死に、予章よしょう劉繇りゅうようの治めるところとなったが、劉繇りゅうようもまもなく病死し(おそらく199年頃)、孫策そんさくに降伏した太史慈たいしじ(本編、タイシジ、19話より登場)によって劉繇りゅうようの残党は吸収された。予章よしょうは新たに予章よしょう太守たいしゅに任命された華歆かきん(本編、カキン、63話より登場)が治めたが、199年には孫策そんさく予章よしょうに侵攻し、華歆かきんは降伏。予章よしょう孫策そんさく領となった。[華歆かきん伝、諸葛亮しょかつりょう伝、孫策そんさく伝、劉繇りゅうよう伝、太史慈たいしじ伝、孫賁そんほん伝]


 余談になるが、何故、劉表りゅうひょう諸葛玄しょかつげんの援軍に現れなかったのか。可能性を考えて劉表りゅうひょうの弁護してみようと思う。


 もちろん、劉表りゅうひょうが全く援軍を出さなかった可能性もあるが、予章よしょう郡が孫策そんさく領になった後、劉表りゅうひょうは度々予章よしょう郡へ侵攻している。 


 しかし、それならば予章よしょう太守である諸葛玄しょかつげんが手元にいた方がより予章よしょう侵攻の大義名分を得て、有利に侵攻できたはずである。なのに何故、諸葛玄しょかつげんを見殺しにし、それでもなお予章よしょうを手に入れようとしたのか。


 おそらくだが、劉表りゅうひょう諸葛玄しょかつげんへの援軍を出した。だが、なんらかの事情で到着しなかったのではないか。


 ここで少し予章よしょう郡の地理を整理しておこう。


↓近況ノートリンク 予章周辺地図

https://kakuyomu.jp/users/ITSUKI-TOBE/news/16816927860706683367


 予章よしょう郡の中心地であり、諸葛玄しょかつげんの一連の戦いの舞台となった南昌なんしょうの北には鄱陽湖はようこという湖がある。その湖の脇、北東の方角に進むと、劉繇りゅうようが最初に駐屯した彭沢ほうたくに至り、さらに進むと後にの首都となる建業けんぎょう(この頃の名前は秣陵まつりょう)やこの当時、袁術えんじゅつが本拠地にしていた寿春じゅしゅんへ行くことができる。


 反対に北西の方角に進むと、後に劉表りゅうひょう軍と孫策そんさく孫権そんけん軍が度々戦ったがい西安せいあん海昏かいこん建昌けんしょうといった地域があり、さらに進むと劉表りゅうひょう領の江夏こうか郡にたどり着く。なお、南には交州こうしゅうがあるが、予章よしょう郡の南部は山ばかりなので、南下しようとすると大変な苦労が予想される。


 さて、この劉表りゅうひょう領との間にある海昏かいこん建昌けんしょう等の地域だが、孫策そんさく伝に以下のような記述がある。


 袁術えんじゅつの死後、その勢力を吸収した廬江ろこう太守たいしゅ劉勲りゅうくん(本編未登場)は意気盛んだったが、孫策そんさくは表向きは劉勲りゅうくんと同盟を結び、この当時、“予章よしょう上繚じょうりょう宗民そうみん(独立勢力)たちが万余”いたので、孫策そんさく劉勲りゅうくんをけしかけ、宗民そうみんを攻撃させてその武力を手に入れるよう勧めた。劉勲りゅうくん宗民そうみん討伐に出発すると、孫策そんさくはその隙に廬江ろこうを攻め落とした。[孫策そんさく伝]


 ここに出てくる上繚じょうりょうとは繚水りょうすい(川の名)の上流地域という意味で、海昏かいこん建昌けんしょうがい等を含む地域一帯を指す。


 また注に引く『江表伝こうひょうでん』にはこうある。劉勲りゅうくん袁術えんじゅつの勢力を吸収したが、食糧が不足したので、従弟いとこ劉偕りゅうかい(本編未登場)をやって予章よしょう太守たいしゅ華歆かきんに食糧の買い入れを申し込んだ。華歆かきんのところも食糧が不足していたので、“海昏かいこん上繚じょうりょうにて、その地の宗帥そうすい(独立勢力のボス)”から三万石の米を得ようとした。だが、劉偕りゅうかいはこの地に赴いて1ヶ月余り経ったが、わずか数千石を手に入れただけであった。そこで劉偕りゅうかい劉勲りゅうくん海昏かいこんを軍で攻めて食糧を奪うよう提案、劉勲りゅうくん海昏かいこんを攻めたが、宗帥そうすいむらを空っぽにして逃げ隠れ、劉勲りゅうくんは何も得ることができなかった。[孫策そんさく伝]


 これらの記述によれば、当時の予章よしょう海昏かいこんの地域一帯には宗帥が率いる宗民そうみんという集団がいたようである。この宗民そうみんについてちくま学芸文庫版の訳本の注では、地方独立勢力で、宗教的な結社とも、異民族との関係を持つともいうが、詳しくは不明とある。


 どういった集団なのか具体的にはわからないが、海昏かいこんの地域一帯には宗民そうみん(宗族とも)と言われる万余の人たちを率いる独立勢力がいたようだ。


 また、先ほどの孫策そんさく劉勲りゅうくん海昏かいこん宗民そうみんをせめるよう勧めた時の逸話いつわにて、孫策そんさくはこの海昏かいこん地域について、交通が不便と述べており、さらに当時、劉勲りゅうくんの許にいた劉曄りゅうよう(本編、リューヨー、64話より登場)は「上繚じょうりょうは小さいとはいえ、城は固くほりは深く、攻めるに難しく、守るにやすいところです」と述べ、劉勲りゅうくん上繚じょうりょう征伐に反対した[劉曄りゅうよう伝]


 実際に地図を見てみると、この海昏かいこん建昌けんしょうあたりの予章よしょう郡北西部は長江ちょうこう鄱陽湖はようこからの支流がいくつも流れ、山脈に囲まれた地域である。おそらく孫策そんさくが述べた「交通が不便」とはこういった地形を指しているのだろう。この地形が天然の要塞ようさいとなり、独立性の高い地域となっていたのだろう。


 さらに劉曄りゅうようの言葉から、その中に堅固な城が建っていたことがわかる。その堅固な城に万の人が暮らし、独立状態を保っていたのである。


 話を戻すが、おそらく、劉表りゅうひょうの軍は諸葛玄しょかつげんの救援に赴きたくても、この海昏かいこん一帯の地域を通過できなかったのではないだろうか。


 劉表りゅうひょうの勢力については過去に『歴史解説 袁家の滅亡と博望の戦い』にて触れたので詳しいことはそちらに譲るが、劉表りゅうひょうの勢力が荊州けいしゅう全域に及ぶのは200年頃、長沙ちょうさ太守たいしゅ張羨ちょうせん(本編、チョーゼン、91話名のみ登場)を倒して以降のことで、この頃はまだ荊州けいしゅう北部の三郡+αぐらいにしか勢力が及んでいない。


 その劉表りゅうひょうが201年に南陽なんよう郡攻略に出した兵力が約一万程度なので、この時の諸葛玄しょかつげんへの救援はそれと同程度か、より少ない数であったろう。


 前述したように山川に囲まれた海昏かいこん一帯は、おそらく軍隊が通れるルートも限られており、迂回うかいして南昌なんしょうにたどり着くことができなかったのだろう。後に予章よしょう郡が孫策そんさく領になって以降の話だが、劉表りゅうひょう孫策そんさく予章よしょう郡を巡る攻防についてこのような記述がある。


 劉表りゅうひょう従子おい劉磐りゅうばん(本編、リュウバン、62話より登場)はしばしば予章よしょう郡のがい西安せいあんなどの諸県に攻め込んできた。そこで孫策そんさく予章よしょう郡の海昬かいこん建昌けんしょうの近辺六県を割き、太史慈たいしじ建昌都尉けんしょうといに任じ、海昏かいこんにその役所を置き、六県の統治と劉磐りゅうばんからの防衛を行わせた。[太史慈たいしじ伝]


 これは200年頃の出来事だろう。劉表りゅうひょう側からは劉磐りゅうばんが攻め込み、孫策そんさく側からは太史慈たいしじが赴き防いでいる。


 劉磐りゅうばんがい西安せいあんといった予章よしょう郡北西部を荒らすのみで、その先にある南昌なんしょうにまで踏み込めていない。太史慈たいしじがよく防いでいたとも読めるが、もしかしたらこの時もまだ海昏かいこん地域の宗民そうみんによりはばまれていたのかもしれない。


 また、孫策そんさくもわざわざ海昏かいこん地域の六県を別に割き、予章よしょう郡から切り離して建昌都尉けんしょうといを設置し、太史慈たいしじに任せたのも、劉磐りゅうばんからの侵攻もあるだろうが、この地域の特殊性によるところも大きいのではないだろうか。


 しかし、海昏かいこん一帯がこういった排他的で独立性の高い地域であるなら、当然、地元民である南昌なんしょうの人達は知っていたはずで、諸葛玄しょかつげん劉表りゅうひょうへ援軍を求める時にそのことを伝えているはずである。


 これを諸葛玄しょかつげんは楽観的に考えていたのだろう。あるいは甥の孔明こうめいや救援の使者らが荊州けいしゅうに無事にたどり着いているので安心したのかもしれない。だが、少数で移動するのと軍隊が動くのではわけが違う。結局、劉表りゅうひょうからの援軍は海昏かいこん一帯にはばまれ到着せず、南昌なんしょうの人達が指摘した通りになったことで、諸葛玄しょかつげんは信用を失い、見捨てられることになったのではないだろうか。




 ◎兄・諸葛瑾の行方



 ここで荊州けいしゅうへ移った孔明こうめいに行く前に彼の兄・諸葛瑾しょかつきんのことについて先に解説しておこう。


 孔明こうめいの兄・諸葛瑾しょかつきんは、あざな子瑜しゆ孔明こうめいより七歳年長の174年生まれ。彼が若い頃、洛陽らくようで学び、後に帰郷したことは前編に書いた。孔明こうめいが故郷を去り、従父おじ諸葛玄しょかつげんとともに予章よしょうに行く時に、彼は別行動を取ることになる。


 諸葛瑾しょかつきんは漢末、戦乱を避け江東こうとうに移住した。その頃ちょうど孫策そんさくが死去した頃で、孫権そんけん(本編、ソンケン(チュー坊)、64話より登場)の姉の婿むこ弘咨こうし(本編未登場)によって評価され、孫権そんけんに推挙された。[諸葛瑾しょかつきん伝]


 諸葛瑾しょかつきん伝の記述には不可解なことが二点ある。まず一つは、何故、孔明こうめい諸葛玄しょかつげんらと別行動して江東こうとうに移ったのか。そして、もう一つは孫権そんけんつかえた時期である。


 孔明こうめいらが故郷を去ったのは193年頃、その翌年頃には諸葛玄しょかつげん予章よしょう太守たいしゅに就任していたと思われる。対して、孫策そんさくが死んで孫権そんけんに代替わりした頃なら、諸葛瑾しょかつきん孫権そんけんに仕えたのは、早くても200年頃の出来事となる。彼は長い期間無職だったのだろうか?


 確かに何のコネもなく江東こうとうに来たのなら、すぐ孫権そんけんつかえられないのは仕方がない。しかし、わざわざ諸葛玄しょかつげんから離れて、数年無為むいに過ごしたのだろうか。


 考えられるのは、従父おじ諸葛玄しょかつげん袁術えんじゅつによって予章よしょう太守たいしゅに任命されたのように、諸葛瑾しょかつきんもまた袁術えんじゅつつかえていたのではないだろうか。


 彼らが故郷を去ったと思われる193年の時、諸葛瑾しょかつきんは20歳(数え年)、大人として扱われる年齢だ。袁術えんじゅつから何かしら仕事を与えられても不思議はない。


 しかし、20歳成り立ての、そこまで名門というわけでもない(おそらく袁術えんじゅつ陣営には諸葛しょかつ氏以上の名門がいくらも加わっていただろう)若者に大役が任せられるとも思えない。その彼一人に弟たちの面倒までは大変であろうから、孔明こうめいたちは従父おじ諸葛玄しょかつげんについていったのだろう。


 そして、袁術えんじゅつが死亡した199年前後に江東こうとうに渡ったとすれば、年数的にも辻褄つじつまが合うのではないか。


 ただ、記録のないことであるので、これはあくまでも辻褄つじつま合わせのための仮説にすぎない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る