歴史解説 赤壁の戦いその1(全6回)

 これは別に連載している『学園戦記三国志』をより楽しむために、歴史上の三国時代の解説及び考察を行ったものです。本編では省略されてしまった部分やカットされてしまった部分をより詳しく紹介されています。 なお、この解説には独自の考察も含みます。ご了承ください。


 作中に“本編”として紹介されているのは、別に連載している小説『学園戦記三国志』のことです。また、これが書かれたのは本編の106話時点なので、紹介されている情報も106話時点までの内容に基づいています。(この解説で本編未登場と紹介された人物がそれ以降の話数で登場することがあります)


↓学園戦記三国志リンク

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 ◎まえがき



 学園戦記三国志(以下、本編)の第五章にて行われた赤壁せきへきの戦いは、西暦208年(以下年はすべて西暦、月日はすべて旧暦)に実際に行われた同名の戦いが元になっている。


 まずは古典小説・『三国志演義さんごくしえんぎ』(以下、『演義えんぎ』)において赤壁の戦いはどのように書かれたか、簡単におさらいしておこう。


 208年、曹操そうそう(本編、ソウソウ、1話より登場)は荊州けいしゅうに侵攻。時同じくして荊州けいしゅうの主・劉表りゅうひょう(本編、リュウヒョウ、63話より本格登場)は急死し、重臣・蔡瑁さいぼう(本編、サイボウ、63話より登場)らは長子・劉琦りゅうき(本編、リュウキ、63話より登場)を差し置いて、次子・劉琮りゅうそう(本編、リュウソウ、63話より登場)を後継者に据え、彼を説得して荊州けいしゅうは戦わずして曹操そうそうに降伏することを決定させる。これに従えない荊州けいしゅうの客将・劉備りゅうび(本編、リュービ、本編主人公)は逃走。途中、曹操そうそうの追撃に遭うが、家臣の趙雲ちょううん(本編、チョーウン、18話より登場)が敵陣を突破して劉備りゅうびの子・阿斗あと(本編未登場)を救い出し、義弟・張飛ちょうひ(本編、チョーヒ、1話より登場)が一喝して曹操そうそう軍を追い返し、事なきを得る。(長坂ちょうはんの戦い)


 危機を脱した劉備りゅうびは、義弟・関羽かんう(本編、カンウ、1話より登場)、劉琦りゅうきと合流。さらに(揚州ようしゅう)の孫権そんけん(本編、ソンケン、63話より登場)が派遣した使者・魯粛ろしゅく(本編、ロシュク、81話より登場)と面会し、孫権ソンケンの協力を得ようと、軍師・諸葛孔明しょかつこうめい(以下、孔明こうめい)(本編、コウメイ、75話より登場)をへ送り出した。


 での孫権そんけんの家臣の中では、曹操そうそうへの降伏派が多数を占め、主戦派は劣勢であったが、孔明こうめいの将軍・周瑜しゅうゆ(本編、シュウユ、21話より登場)の説得により、孫権そんけんは開戦を決断。周瑜しゅうゆ大都督だいととく(司令官)に任命し、三万の軍を預ける。


 曹操そうそうは降伏した荊州けいしゅうの水軍を吸収し、百万と言われる大軍勢で長江ちょうこうに布陣したが、周瑜しゅうゆ曹操そうそうの計略を利用し、水軍の司令官に任命されていた蔡瑁さいぼう張允ちょういん(本編、チョーイン、63話より登場)を謀殺ぼうさつする。さらに周瑜しゅうゆ火計かけいを用いて曹操そうそう軍を破ろうと考え、在野ざいや賢者けんじゃ龐統ほうとう(本編、ホウトウ、75話名のみ登場)の連環れんかんの計で、敵軍の船をくさりつなぎ、一ヶ所に集めさせた。ただ、風向きが火計かけいに適さず、実行できずにいたが、孔明こうめい祈祷きとうで東南の風を呼び起こし、呉将ごしょう黄蓋こうがい(本編、コウガイ、9話より登場)はこの風に乗って曹操そうそう軍にいつわりの投降を行い、敵内部より放火。曹操そうそう軍の船が炎上する中、周瑜しゅうゆ軍は総攻撃を開始、さらに劉備りゅうび軍も追撃をかけ、曹操そうそうは大敗した。(赤壁せきへきの戦い)


 以上が演義えんぎでの赤壁せきへきの戦いのあらましである。


 今回は、この赤壁せきへきの戦いが実際にどのように展開され、その後どうなったのかを史料の記述を追いながら、自身の考察も交えつつ解説していこうと思う。



 ◎序章じょしょう劉表りゅうひょう政権の誕生



 劉表りゅうひょうは若くして著名な名士めいしとして知られていたが、党錮とうこきん(名士めいし弾圧だんあつ事件)で追及を受けた人物の逃亡を助けたために自身も逃亡する身となった。


 党錮とうこきんが解除されると、劉表りゅうひょう大将軍だいしょうぐん何進かしん(本編、カシン、5話名のみ登場)に招かれた。時に43歳(数え年、『劉鎮南碑りゅうちんなんひ』による、以下全て数え年)であった。


↓近況ノート州地図リンク

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 190年、荊州刺史けいしゅうししとして派遣された時、彼は49歳。既に壮年期そうねんきは過ぎ、老境ろうきょうに差し掛かっている時であった。同年、曹操そうそうが36歳、劉備りゅうびが30歳、袁紹えんしょう(本編、エンショウ、7話より本格登場)・袁術えんじゅつ(本編、エンジュツ、8話より本格登場)・孫堅そんけん(本編、ソンケン、3話より登場)らも同世代なので、他の群雄から見れば劉表りゅうひょうは一回りも歳上であったが、キャリアは浅いという特異な存在であった。


 おそらく、劉表りゅうひょうはこの荊州けいしゅう派遣を年齢的に残り数少ないチャンスと考えていただろう。彼は荊州けいしゅうに来た時、家臣も兵士もいない状態であったが、荊州豪族けいしゅうごうぞく蔡瑁さいぼう蒯越かいえつ(本編、カイエツ、63話より登場)、蒯良かいりょう(本編、カイリョウ、63話名のみ登場)らの協力を得ることで荊州けいしゅうに基盤を築くことができた。


 当時の荊州けいしゅうでは無数の勢力が割拠かっきょし、朝廷ちょうていに従わず、半ば無法地帯と化しており、後に劉表りゅうひょうの本拠地となる襄陽城じょうようじょうですら他の豪族ごうぞく占拠せんきょされている有り様であった。


 襄陽じょうよう周辺の一豪族ごうぞくに過ぎない蔡瑁さいぼうらは劉表りゅうひょうというにしき御旗みはたを手に入れることで邪魔な勢力を一掃いっそうし、自身の権益をより拡大させることができた。劉表りゅうひょうは彼ら荊州豪族けいしゅうごうぞくのおかげで荊州けいしゅうの主になれたが、悪く言えば彼らにかつがれた御輿みこしに過ぎなかった。


 この状況を劉表りゅうひょうも良くは思っていなかったようで、官渡かんとの戦いの折、袁紹えんしょうだけでなく、曹操そうそうとも通じておくようにと蒯越かいえつらは助言したが、それに従わず袁紹えんしょう一本にけたのは、少しでも自身の権勢を増すための抵抗だろう。


 だが、この決断により、袁紹えんしょうは敗れて袁氏えんしが滅ぶと、劉表りゅうひょうはその同盟者として曹操そうそうの次の標的となった。[正史せいし三国志(以下、『正史せいし』。以降、頭に書名のないものは全て『正史せいし』のもの、注も含む)劉表りゅうひょう伝、後漢書ごかんじょ劉表りゅうひょう伝、劉鎮南碑りゅうちんなんひ]



 ◎劉表りゅうひょうの対曹操そうそう戦略



 かつて曹操そうそう河北かほくを治める袁紹えんしょうと戦い、その時、荊州けいしゅう劉表りゅうひょう袁紹えんしょうと同盟を組み、劉備りゅうび袁紹えんしょう方の武将として曹操そうそうと戦った。この戦いの結果、曹操そうそう袁紹えんしょうに勝利、さらに数年かけて河北かほくより袁氏えんし勢力を一掃いっそうした。この辺りの詳しい話は本編第四章及び『歴史解説 袁家えんけの滅亡と博望はくぼうの戦い』を読んでほしい。


 袁氏えんしが滅亡し、その同盟者である劉表りゅうひょう、そして劉備りゅうび曹操そうそうの対決はけられないものとなった。


 『207年、(袁氏えんしとの決着をつけるために)曹操そうそう烏丸征伐うがんせいばつに向かうと、劉備りゅうび劉表りゅうひょうにそのすき曹操そうそうの本拠地であるきょを襲撃するよう進言するが、劉表りゅうひょうはこれを採用しなかった。後に曹操そうそうが帰還すると劉表りゅうひょう劉備りゅうびの策を用いなかったことを後悔したが、劉備りゅうびは「天下は乱れ、毎日が戦争なのだからこれが最後の機会ということはありません。次の機会に応じれば残念がるほどのことではありません」と励ました。』[先主せんしゅ伝(劉備りゅうび伝)]


 だが、次の機会が劉表りゅうひょうに訪れることはなかった。劉表りゅうひょうはこの年66歳、どうもこの頃より容態が良くなかったようである。


 この頃、劉備りゅうび劉表りゅうひょうによって居城を最前線の新野しんやから劉表りゅうひょう本拠地の襄陽城じょうようじょうの北隣の樊城はんじょうに移っている。劉備りゅうび樊城はんじょうに移った具体的な時期は不明だが、『正史せいし』によると劉備りゅうび徐庶じょしょ(本編、ジョショ、75話より本格登場)と会見し、孔明こうめいの名を知った時は居城が新野しんやであった。また註釈ちゅうしゃくの『魏略ぎりゃく』では孔明こうめいと出会ったのは樊城はんじょうの出来事としている。孔明こうめい劉備りゅうびの軍師となるのは207年の出来事なので、彼を軍師に迎える前後に樊城はんじょうに入ったのだろう。


 劉表りゅうひょうの本拠地・襄陽じょうようから沔水べんすい(川の名)を挟んで北隣に位置するのが樊城はんじょう樊城はんじょうのさらに北にあるのが新野城しんやじょう。それより北は曹操そうそうと度々争っている地域だが、おそらく当時すでに曹操そうそう領となっていたのであろう。


 劉備りゅうびを最前線である新野しんやからはんへ移したのは、前線指揮官からより広域の司令官へ格上げするためであろう。その具体的な指揮権限は不明だが、劉備りゅうび軍に加えて新野しんや駐屯ちゅうとんする劉表りゅうひょう軍を加えた戦力で曹操そうそうを迎え撃つ予定だったのではないだろうか。


 また、『先主せんしゅ伝』(『正史せいし』にある劉備りゅうびの伝記)の注に引く『英雄記えいゆうき』によると、この年か翌年には、劉表りゅうひょうは病気が悪化し、劉備りゅうび荊州刺史けいしゅうししを担当させたいと上奏じょうそうしたという。


 この逸話いつわに関連してか、『魏書ぎりゃく』には劉表りゅうひょう劉備りゅうび荊州けいしゅうを任せたいと申し出、劉備りゅうびがそれを辞退したという話を載せる。


 この逸話いつわは『演義えんぎ』にも採用されたが、注を引用した裴松之はいしょうしからは、劉表りゅうひょうは日頃から子の劉琮りゅうそうを後継ぎにしたいと考えていたのだから、劉備りゅうび荊州けいしゅうを与える理由がないと断言している。


 だが、荊州けいしゅうを譲るという話は眉唾まゆつばに思うが、劉備りゅうび荊州刺史けいしゅうししにしようとした話はあり得るように思う。


 まず、この当時の劉表りゅうひょうの肩書きを整理しよう。


 劉表りゅうひょうは190年に董卓とうたく(本編、トータク、5話より登場)により荊州刺史けいしゅうししに任命され、荊州けいしゅうに赴任した。192年、李傕りかく(本編、リカク、7話より登場)らにより荊州牧けいしゅうぼく安南将軍あんなんしょうぐんに昇進し、196年頃に曹操そうそうにより鎮南将軍ちんなんしょうぐんとし、後に督交揚二州とくこうようにしゅう(一説に督交揚益三州とくこうようえきさんしゅう)となった。


 刺史ししぼく便宜的べんぎてきにどちらも州の長官として紹介しているが、厳密には違う。


 後漢ごかんは全土を十三の州(194年に涼州りょうしゅうの西部が分割され雍州ようしゅうが設置されて十四州となる。その後も多数の変更あり)に分け、更に州を複数の郡に分け、郡を分けて県とした。現代日本に当てはめると、州が地方、郡が県、県が市町村に該当する。


 本来、地方行政は郡の太守たいしゅ(郡の長官)や県の県令けんれい(大きな県の長官)・県長けんちょう(中小県の長官)が務め、州の刺史ししはそれら地方官の監察、つまり不正等を追及するのが本来の役目で権力はそこまで強くはなかった。後漢ごかん中期以降、刺史ししが地方の反乱鎮圧ちんあつにあたる等、その権限が徐々に拡大されてはいたが、元々は太守たいしゅの方が格上である。


 しかし、黄巾こうきんらんをはじめとする地方の動乱や刺史しし太守たいしゅ腐敗ふはい等を理由に188年に地方安憮あんぶを目的に州牧しゅうぼくが新設された。


 州牧しゅうぼく州刺史しゅうししの持っていた行政面の監察権に軍事面の監察権を加えた上位互換である。


 これに将軍位による軍権が追加され、後漢ごかん群雄はその独立的な軍事政権を維持することが出来た。(厳密にはこれに加えて他にも権限が必要になるがややこしいので省略する)


 つまり、地方の行政面の管理を担当するのが刺史しし、それに加えて地方の兵士の管理もするのがぼく、実際に軍を動かすのが将軍の役割となる。


 これに加えて、劉表りゅうひょう督交揚二州とくこうようにしゅうという肩書きを持っている。これは特例的な役職で、本来あるものではないので、具体的な権限は不明である。だが、この督◯州に劉表りゅうひょうが本来治めている荊州けいしゅうが含まれていないことから、荊州牧けいしゅうぼくが督◯州と同権限かもしくはそれ以上であることがわかる。つまり、州牧しゅうぼくは本来複数兼任はできないのだが、特例として複数の州牧しゅうぼくを兼ねたのと同じ扱いということで、この督交揚二州とくこうようにしゅうが与えられたということだ。これは事実上の荊州けいしゅう交州こうしゅう揚州ようしゅうの三ぼく兼務と同義に近い役割を担う。


 話を戻すが、州牧しゅうぼく+将軍位が群雄化するのに必要な役職である。だが、この時劉表りゅうひょう劉備りゅうびに譲ろうとしたのは荊州刺史けいしゅうしし荊州けいしゅうの軍事権は譲ろうとはしていない。


 おそらく、劉備りゅうびに譲ろうとした荊州刺史けいしゅうししの権限は本来の行政の監察官の権限を超えるものではなく、自身の子を鎮南将軍ちんなんしょうぐんとし、荊州刺史けいしゅうししの上位者として君臨くんりんする予定だったのではないか。さらに言えば刺史ししの監察対象である荊州けいしゅう各地の太守たいしゅ劉表りゅうひょうの家臣であるから、劉備りゅうびの権限はさらに縮小されると考えられる。


 肩書だけに等しく、劉備りゅうびからすればそんなに旨味うまみのない条件といえる。結局、劉備りゅうびはこの申し出は断ったようで、後に劉琮りゅうそう曹操そうそうに降伏する時にこの荊州刺史けいしゅうしし印綬いんじゅを降伏のあかしとして手渡している。また、赤壁せきへきの戦いの後、劉備りゅうび劉琦りゅうき荊州刺史けいしゅうしし上奏じょうそうしていることからも劉備りゅうび荊州刺史けいしゅうししではなかったことが察せられる。


 劉表りゅうひょう劉備りゅうび荊州刺史けいしゅうししにしようとしたのは他に渡すものがなかったからだろう。劉備りゅうびはこの時点で予州刺史よしゅうしし左将軍さしょうぐんの肩書きを持っている。立場的には劉表りゅうひょうの同僚となり、今さら劉表りゅうひょうの部下の役職を与えられる相手ではない。それでも劉備りゅうびに(自分の権力が制限されない範囲で)何か役職を任せるとなったら、かつて自分がいて今もその印綬いんじゅを持っている荊州刺史けいしゅうしししかなかったのであろう。


 そして、劉表りゅうひょう刺史ししの地位を譲ろうとしたのは、自分が生きている内になんとかして劉備りゅうびを自分の勢力内に組み込みたかったのだろう。対曹操そうそう戦の指揮官の権限と荊州刺史けいしゅうししの肩書きで劉備りゅうびの取り込みを図った。かつては劉備りゅうびを危険視して用いず、髀肉ひにくたん故事こじを生ませた劉表りゅうひょうであったが、自身の死期をさとり、そうも言ってられなくなり、こういった行動に出たのだろう。だが、彼の譲れるものが劉備りゅうびを喜ばすに足るものではなかった。


 だが、蔡瑁さいぼう荊州豪族けいしゅうごうぞく勢はこの一連の劉表りゅうひょう劉備りゅうびを格上げして自身の勢力に組み込もうとする動きをこころよく思わなかったようだ。


 『先主せんしゅ伝』の注に引く『世語せご』にはこうある。『劉備りゅうび樊城はんじょう駐屯ちゅうとんしていた頃、彼を招いて宴会を催した時、蒯越かいえつ蔡瑁さいぼうは宴会を利用して劉備りゅうびの暗殺を図った。劉備りゅうびは企みに気付き、かわや(トイレ)に行くと偽り、密かに逃走した。途中、襄陽城じょうようじょうの西、檀溪だんけいの水中に落ちたが、愛馬・的盧てきろに「今日は厄日やくびだ、努力せよ」と急き立てると、的盧てきろは飛び上がり逃げ延びることが出来た。』[先主せんしゅ伝]


 この話は孫盛そんせい(東晋とうしん時代の歴史家)から、こんなことがあれば劉表りゅうひょうとの間に亀裂きれつが入る、あり得ない話だ、と否定されている。だが、これは樊城はんじょう時代の出来事とあるので、もしかしたら劉表りゅうひょうの容態が悪化していた207年~208年頭までに起こったかもしれない。これが劉備りゅうび荊州けいしゅう時代序盤~中盤の出来事ならともかく、劉表りゅうひょうが余命いくばくもない最終盤の頃ならあり得なくもないのではないか。


 自分が生きている内に曹操そうそうに対抗するために劉備りゅうびを勢力に組み込みたい劉表りゅうひょうと、それを阻止そししたい蔡瑁さいぼう荊州豪族けいしゅうごうぞく勢の攻防が、劉表りゅうひょうの容態悪化と相まって、この頃、かなりなりふり構わず展開されていたのではないだろうか。


 北部に曹操そうそうが迫る一方、東部でも事変が起こる。208年春、荊州けいしゅう江夏郡こうかぐん太守たいしゅ(長官)・黄祖こうそ(本編、コウソ、63話より登場)が江東こうとう(長江ちょうこう東側の呼び名)の孫権そんけんによって討たれた。孫権そんけん軍は先代の孫策そんさく(本編、ソンサク、7話より登場)の頃より度々江夏郡こうかぐんに攻めてきていたが、曹操そうそう侵攻の直前についに防衛をになっていた黄祖こうそが死んでしまった。[呉主ごしゅ伝(孫権そんけんの伝記)]


 既に北部で曹操そうそう軍が結集している中でのこの変事は劉表りゅうひょう陣営にとって一大事であっただろう。これを受けて劉表りゅうひょうの長子・劉琦りゅうきが行動を起こした。


 『劉琦りゅうき劉備りゅうびの軍師・孔明こうめいの助言を受けて自ら江夏太守こうかぐんを願い出た。』[諸葛亮しょかつりょう伝]


 『劉表りゅうひょうは初め長子・劉琦りゅうきを可愛がっていたが、次子・劉琮りゅうそう蔡瑁さいぼうめいめとったため、蔡瑁さいぼうらは劉琮りゅうそうを支持し、劉琦りゅうきは次第にうとまれていった。劉琦りゅうきは身の安全を図ろうと江夏太守こうかたいしゅとなった。』[劉表りゅうひょう伝、襄陽記じょうようき]


 劉琦りゅうき本人が願い出たことではあるが、孫権そんけんとの最前線にあたる江夏太守こうかたいしゅ劉琦りゅうきとする判断は劉表りゅうひょうが決定したことであろう。後述するが、後に劉琦りゅうきが病床の劉表りゅうひょうを見舞いに戻って来た時に、蔡瑁さいぼうらが劉琦りゅうきに対し、「将軍(劉表りゅうひょう)が君に江夏こうか鎮撫ちんぶを命じ…」と言っていることからも劉表りゅうひょうの命であったことがわかる。


 そして劉表りゅうひょうはこの年に死去する。


 黄祖こうそが敗死したのは208年の春、劉表りゅうひょうが死去したのは同年の8月のこと。劉表りゅうひょうは死の間際まで外へと対策を講じていた。享年67歳。



 ◎曹操そうそう荊州けいしゅう平定



 では、次に曹操そうそう陣営を解説していこう。


 袁氏えんしが滅亡した今、曹操そうそうの次の標的はそれに協力していた劉表りゅうひょう及び劉備りゅうびであった。


 208年正月、曹操そうそうぎょう(冀州きしゅうにある都市)の玄武池げんぶちにて水軍の訓練を行ったのも、長江ちょうこうと無数の支流が流れる荊州けいしゅうへの進行準備であったのだろう。


 『その曹操そうそうは大臣最高位であった三公さんこうを統合廃止し、丞相じょうしょうを設置、自身がその位についた。そして同年7月、曹操そうそう劉表りゅうひょう征討のため荊州けいしゅうへと赴いた。』[武帝紀ぶていき]


 『この劉表りゅうひょう征討において、曹操そうそうの参謀・荀彧じゅんいく(本編、ジュンイク、16話より登場)は「今、中華の地が平定された以上、南方は追い詰められたことを自覚しております。公然とえんしょうに出兵する一方、間道づたいに軽装の兵を進め、敵の不意を突くのが良い」と進言した。』[荀彧じゅんいく伝]


 葉県しょうけん宛県えんけん荊州南陽郡けいしゅうなんようぐんに属し、曹操そうそうの本拠地・許都きょと(許昌きょしょう)からこれらの県を通過すると、かつて劉備りゅうびが滞在していた新野県しんやけん、さらに南下すると劉表りゅうひょうの本拠地・襄陽じょうようへ至る。


 この荀彧じゅんいくの言葉に従い曹操そうそう荊州けいしゅう近郊に大部隊を集結させる。


 『曹操そうそうはこの劉表征討に先立って、まず張遼ちょうりょう(本編、チョーリョー、11話より登場)を長社ちょうしゃ(予州穎川郡よしゅうえいせんぐんに属す)に、楽進がくしん(本編、ガクシン、9話より登場)を陽翟ようてき(予州穎川郡よしゅうえいせんぐんに属す)に、于禁うきん(本編、ウキン、10話より登場)を潁陰えいいん(予州穎川郡よしゅうえいせんぐんに属す)に駐屯させた。』[張遼ちょうりょう伝、楽進がくしん伝、趙儼ちょうげん伝]


 『この後、劉表りゅうひょう征討に及んで張遼ちょうりょうらの部隊を編成しなおし、趙儼ちょうげん(本編、チョウゲン、41話より登場)を章陵しょうりょう太守たいしゅ(荊州けいしゅう北部の郡)に任命し、都督護軍ととくごぐんとして、于禁うきん張遼ちょうりょう張郃ちょうこう(本編、チョーコー、18話より登場)、朱霊しゅれい(本編、シュレイ、44話より登場)、李典りてん(本編、リテン、10話より登場)、路招ろしょう(本編、ロショウ、44話より登場)、馮楷ふうかい(本編未登場)の七軍を統括させた。』[趙儼ちょうげん伝]


 なお、本編ではこの陣容とほぼ同じ人員が南校舎征討軍の前軍として登場しているが、ただ馮楷ふうかいのみ未登場となっている。馮楷ふうかいは『正史』でもこの一ヵ所にしか登場せず、活躍も経歴も何もわからないため、代わりにコウラン(高覧こうらん)(本編、コウラン、54話より登場)を登場させた。張遼ちょうりょうらと同列に語られているので、当時はそれなりに名の通った武将だったのだろうが、記録がないのでどうにもわからない。


 これに加えて劉表りゅうひょう征討から翌年の荊州けいしゅう戦あたりに参戦した記述のある人物は、曹仁そうじん(本編、ソウジン、9話より登場)、曹純そうじゅん(本編、ソウジュン、69話より登場)、賈詡かく(本編、カク、32話より登場)、婁圭ろうけい(本編未登場)、程昱ていいく(本編、テイイク、16話より登場)、楽進がくしん徐晃じょこう(本編、ジョコー、32話より登場)、阮瑀げんう(本編未登場)、陳矯ちんきょう(本編、チンキョウ、102話より登場)、満寵まんちょう(本編、マンチョウ、55話より登場)らがあげられる。[曹仁そうじん伝、曹純そうじゅん伝、賈詡かく伝、崔琰さいえん伝、程昱ていいく伝、楽進がくしん伝、徐晃じょこう伝、王粲おうさん伝、陳矯ちんきょう伝、満寵まんちょう伝]


 曹操そうそうの主力武将・参謀の多数が参戦しており、官渡かんとの戦い以来の一大決戦を想定していたであろうことが察せられる。


 大軍を揃えてしょうに進出した曹操そうそうであったが、ここで敵の大将・劉表りゅうひょうの急死という情報が入る。


 7月、曹操そうそう劉表りゅうひょう征討に赴き、8月に劉表りゅうひょう死去。このあまりにもタイミングの良い劉表りゅうひょう急死だが、これが曹操そうそうにとって完全に偶然の出来事なのか、はたまた劉表りゅうひょうの容態についてある程度情報を仕入れ、狙った上での出兵なのか判断が難しい。だが、その後の曹操そうそうの行動を見るに、案外、偶然だった可能性が高いのではないだろうか。少なくともその後の劉備りゅうびの行動については曹操そうそうの予想外であったように思う。



 ◎劉琮りゅうそうの降伏



 『劉表りゅうひょうが死去すると、配下の蔡瑁さいぼうらの支持を得て次子・劉琮りゅうそうが後継者となった。迫り来る曹操そうそうに対し、蒯越かいえつ韓嵩かんすう(本編、カンスウ、79話より登場)・傅巽ふそん(本編、フソン、79話より登場)らは曹操そうそうに帰順せよと劉琮りゅうそうに進言した。劉琮りゅうそうは「今諸君らと共に荊州けいしゅう全土を抑え、先代の事業を守って、天下の情勢を観望しよう。どうして良くないことがあろうか」と言った。


 傅巽ふそんは「臣下の荊州けいしゅうが皇帝(を擁する曹操そうそう)に対抗するのは道理に外れ、劉備りゅうびをもって曹操そうそうに対抗するのは難しいでしょう。中央に逆らうのは滅亡の道です。劉琮りゅうそう様は御自身と劉備りゅうびを比べてどう思われますか?」と答え、劉琮りゅうそうは「私は劉備りゅうびには及ばない」と返した。傅巽ふそんはさらに続けて「もし劉備りゅうび曹操そうそうに敵わないのであれば、荊州けいしゅうを保持していたとしても自力で存立することは出来ません。もし劉備りゅうび曹操そうそうに勝てるとしたら、劉備りゅうび劉琮りゅうそう様の家臣に収まっているはずがありません。どうか劉琮りゅうそう様はお迷いにならないように」と述べた。曹操そうそうの軍が襄陽じょうように到達すると、劉琮りゅうそう荊州けいしゅうをあげて降伏した。』[劉表りゅうひょう伝]


 一方、長子・劉琦りゅうき劉表りゅうひょう死去前後の対応は以下のようであった。


 『劉表りゅうひょうが死去する前、劉表りゅうひょうの病状が悪化したと聞き、孝心あつ劉琦りゅうきは見舞いに訪れた。しかし、蔡瑁さいぼう張允ちょういん劉琦りゅうき劉表りゅうひょうと面会し、劉表りゅうひょうの気が変わって彼に後事をたくすことを恐れ、「劉表りゅうひょう様はあなたに江夏こうか鎮撫ちんぶを命じられ、東の防衛を任せられました。その任務は極めて重く、今軍勢を放ってここに来られたと知れば、劉表りゅうひょう様はご立腹なされるでしょう。親の機嫌を損ない、病を重くするのは親孝行ではありません」と言って、劉琦りゅうきを戸の外で押し留め、決して中には入れなかった。劉琦りゅうきは涙を流してその場を去った。』[劉表りゅうひょう伝、後漢書ごかんじょ劉表りゅうひょう伝、襄陽記じょうようき]


 『劉表りゅうひょうが死去すると、後継者となった劉琮りゅうそうは、兄・劉琦りゅうきこうの印を授けた。劉琦りゅうきは怒り、その印を地面に投げつけ、葬儀に参列するふりをして、蔡瑁さいぼう張允ちょういんを討とうと考えた。だが、その時、曹操そうそう軍が新野しんやに到達し、劉琮りゅうそうが降伏してしまったので、やむなく劉琦りゅうき江南こうなんへ逃走した。』[後漢書ごかんじょ劉表りゅうひょう伝、襄陽記じょうようき]


 侯の印とは、劉表りゅうひょうの持っていた列侯れっこう爵位しゃくいあかしである。当時、後漢ごかんには爵位しゃくいという身分制度があり、列侯れっこうは人臣としては最上位(その上は皇族)にあたる。列侯れっこうになると封地ほうち(領土)を貰え、その地名を取り、○○侯(劉表りゅうひょう成武県せいぶけん封地ほうちであったので成武侯せいぶこうとなる)と呼ばれる。そしてその封地ほうちは基本的に嫡男ちゃくなんに受け継がれる。


 つまり、弟の劉琮りゅうそう劉表りゅうひょうの軍勢や荊州けいしゅうを受け継ぐが、兄の劉琦りゅうきには成武侯せいぶこうを譲るのでこれで納得しろということであったが、劉琦りゅうきは納得できず、そのあかしである印を投げつけたのである。


 劉表りゅうひょうの子、劉琦りゅうき劉琮りゅうそうについては、『演義えんぎ』では劉琦りゅうきを温厚な二代目で、この翌年に亡くなることから病弱と描写する。一方、劉琮りゅうそう劉表りゅうひょうと後妻・蔡氏さいしとの間の子で、この年(208年)はまだ14歳であったとする。そのため、劉琮りゅうそうは少年のように描かれ、それに引っ張られてか、劉琦りゅうきも青年のように描かれることが多い。


 では、実際にはどうだったのか。年齢については史料がなくはっきりしたことはわからない。だが、劉表の享年が67歳であったことを考えるともっと上である可能性が高い。また、『後漢書ごかんじょ』や『襄陽記じょうようき』によると劉琮りゅうそうはその後妻に蔡瑁さいぼうめいめとったという(後妻・蔡氏さいし(本編未登場)との子とするのは『演義えんぎ』の設定)。つまり劉表りゅうひょう荊州けいしゅうに赴任した190年~208年の間に結婚適齢期を迎えていた。そして、それが後妻であるなら190年時点で既に成人していた可能性もある。


 劉琦りゅうきについてはその妻に関して言及がない。つまり荊州けいしゅう豪族ごうぞくの女性でなかった可能性が高いとも言え、190年時点で妻帯者であった可能性が高い。


 これらを踏まえると208年時点で二人の年齢は20代後半~40代ぐらいが妥当ではないか。


 また、兄・劉琦りゅうきの性格について温厚なような描写があるが、実際にはこうの印を投げつけ、蔡瑁さいぼうらを討伐しようとする等、気性の激しさが見れる。一方、劉琮りゅうそうは降伏に反対でありながらも、家臣の意見に押され、結局降伏してしまう。実際に大人しかったのは劉琮りゅうそうの方で、だからこそあやつやすいと見て、蔡瑁さいぼうらにかつがれることになったのではないだろうか。



 ◎劉表りゅうひょうの遺志と蔡瑁さいぼうらの思惑おもわく



 劉表りゅうひょうが死ぬと劉琮りゅうそうが後継者となり、曹操そうそうに降伏した。


 だが、劉表りゅうひょうは死ぬ直前まで劉備りゅうび樊城はんじょうに移し、劉琦りゅうきに東の防衛を任せる等、かなり精力的に対外政策を取っている。果たしてどこまでが劉表りゅうひょうの遺志であったのだろうか。


 まず劉琮りゅうそうが後を継いだ件だが、これも劉表りゅうひょうの生前から合意があったのか怪しい。劉琦りゅうきこうの印を受けとると、これを投げつけ、蔡瑁さいぼうらを討とうとした。もし、劉琮りゅうそうの後継が劉表りゅうひょう生前より決まっていたのなら、劉琦りゅうき列侯れっこうを引き継ぐのも規定路線となり、拒否するのはあり得ない行動となる。


 また、病床の劉表りゅうひょうを見舞おうと、劉琦りゅうきが訪ねると、蔡瑁さいぼうらは劉表りゅうひょうの気が変わって劉琦りゅうきに後を託すのではないかと考え、会わせなかった。


 つまり、劉琮りゅうそう後継は、劉表りゅうひょうの生前には決まっていなかったか、その危篤きとく寸前に決められ、劉琦りゅうき(おそらく劉備りゅうびも)は知らなかったのであろう。


 また、劉琮りゅうそうは最初、曹操そうそうへの降伏を渋っていることから、曹操そうそうへの降伏も劉表りゅうひょうの遺志に背くものであったのだろう。


 これについては劉表りゅうひょうの武将・文聘ぶんへい(本編、ブンペー、63話より登場)の伝記にもこうある。


 『文聘ぶんへい劉表りゅうひょうの大将として北方の防衛に当たった。劉琮りゅうそうが継ぎ、曹操そうそうに降伏すると、文聘ぶんへいを呼ぼうとしたが、文聘ぶんへいは「私は州を守れませんでした。処罰を待つのが当然です」と述べ、曹操そうそう漢江かんこう(川の名、別名、沔水べんすい漢水かんすいとも)を渡るとようやく文聘ぶんへい曹操そうそうのもとへ出頭した。曹操そうそうは「どうして来るのが遅かったのか」と訪ねると、文聘ぶんへいは「荊州けいしゅうは滅びましたが、常に漢江かんこうによって守備し、領土を保全し、生きては若き劉琮りゅうそう様を裏切らず、死しては地下の劉表りゅうひょうに恥じないことを願っておりましたが、計画はどうにもならず、ここまで来ました。悲痛と慚愧ざんきの思いに会わせる顔がなかったのです」と涙を流した。曹操そうそう文聘ぶんへいを真の忠臣と呼び、手厚い礼で彼を処遇した。』[文聘ぶんへい伝]


↓近況ノート劉表〜曹操間関連地図

https://kakuyomu.jp/users/ITSUKI-TOBE/news/16816927859991641649



 文聘ぶんへいは北方の防衛に当たったとある。樊城はんじょうより北といえば新野しんやであり、その先は曹操そうそう領となる。新野しんやの西側の一帯もあるが、そこでは曹操そうそうの進行の妨げとはならない。おそらく劉備りゅうび新野しんやから樊城はんじょうに移った後、新野しんやに入ったのがこの文聘ぶんへいだろう。


 ここから読み取れるのは、曹操そうそうへの降伏は、劉備りゅうびどころか、劉表りゅうひょう方の武将である文聘ぶんへいでさえ予期せぬことであった。


 だから、文聘ぶんへい劉琮りゅうそうから曹操そうそうへ降伏するようにという命令が出てもそれに完全に従うことが出来ず、曹操そうそう軍への攻撃も行わなかったが、開城もしなかった。曹操そうそう軍は新野の脇を素通りし、襄陽じょうように至り劉琮りゅうそうが開城したのを見届けて始めて、文聘ぶんへい曹操そうそうに降伏した。おそらく劉琮りゅうそうの命令が新野しんやに届けられた時点で、それが劉琮りゅうそうの意思なのか信じきれなかったのだろう。


 さらに言えば、この時投降した文聘ぶんへいの言葉に、死しては地下の劉表りゅうひょうに恥じないことを願う、とあることから、曹操そうそうへの降伏は劉表りゅうひょうの本来の遺志ではなかったことがうかがえる。


 劉表りゅうひょうは本来、曹操そうそうとの戦いを想定しており、降伏は思いもよらないことだった。


 東の孫権そんけんには長子の劉琦りゅうきを配置し、最大の敵である北の曹操にはその最前線に文聘ぶんへいを配置し、その後ろに劉備りゅうびを控えさせていた。


 そして、前述の劉琮りゅうそうの降伏説得にあたり傅巽ふそんとしたやり取りに、劉備りゅうび曹操そうそうに敵うかどうかという話があることからも、対曹操そうそう戦の事実上の指揮官は劉備りゅうびになっていたのではないだろうか。


 また、文聘ぶんへい曹操そうそうに降った後、曹純そうじゅんと共に劉備りゅうびを追撃し、長阪ちょうはんにて戦っている。この時の曹操そうそうの追撃について、『先主せんしゅ伝』では、曹操そうそうは精鋭の騎兵五千を率いて、一昼夜に三百余里の行程をかけて追撃したとある。三百里が約124km(後漢ごかん基準)なので、歩兵の行軍速度ではない。同行している曹純そうじゅんが率いていたのは虎豹騎こひょうきと言われる精鋭部隊で“騎”と付くぐらいなのだから騎兵部隊であったのだろう。


 曹操そうそう曹純そうじゅんは騎兵部隊を率い、一日に三百余里の速さで進軍した。それについていったのだから、文聘ぶんへいが率いていたのもまた騎兵部隊だったのではないだろうか。だが、もし文聘ぶんへい新野しんや籠城ろうじょうし、曹操そうそう軍を迎え撃つつもりなら、馬はえさを消費するだけのお荷物で、騎兵部隊までは必要としない。籠城ろうじょうなら歩兵を中心とした編成になるはずだろう。


 もし、文聘ぶんへい軍に騎兵が編入されていたのであれば、劉表りゅうひょう新野しんや籠城ろうじょうさせるつもりはなく、出撃し、平地にて曹操そうそう軍と会戦することを想定していたのではないだろうか。


 ※以下補足、『文聘ぶんへい伝』では、曹操そうそう文聘ぶんへいに兵を授けた(原文、『授聘兵』)とあり、文聘ぶんへいには曹操そうそうの騎兵を与えられたようにも読める。だが、曹操そうそうの騎兵を割いて降伏したばかりの文聘ぶんへいを指揮官にするのは理由がなく、利にもかなっていない。これは文聘ぶんへいは降伏した時に自身が率いている兵も曹操そうそうに譲渡したが、その兵を返され、指揮官となることを許されたという意味だろう。徐晃じょこう張郃ちょうこう等、降伏後に指揮官に再雇用された者にしばしば似たような表現がみられる。


 以上の事から家臣主導による曹操そうそうへの降伏は、亡き劉表りゅうひょうの遺志をねじ曲げるものだったと見てよいのではないだろうか。


 そして、その決定は襄陽城じょうようじょうにいる者たちのみで行われ、劉備りゅうび劉琦りゅうき文聘ぶんへいといった襄陽じょうよう外の対外戦争の主力となるはずだった人物たちには事後報告のみという状態であった。

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