歴史解説 袁家の滅亡と博望の戦い 後編

 ※これは別に連載中の小説『学園戦記三国志』の歴史解説回を独立・編集して掲載するものです。


↓学園戦記三国志リンク

https://kakuyomu.jp/works/1177354054890213389


 前回は袁譚えんたん袁尚えんしょうの対立から博望はくぼうの戦い、袁譚えんたんの滅亡や袁尚えんしょうの敗北を述べた。今回はその後のえん家、劉表りゅうひょうらについて解説して終わりとしたい。



 ◎高幹の反乱



 4月、幽州ゆうしゅうで反乱が起き、既に曹操そうそうに恭順していた幽州ゆうしゅう漁陽ぎょよう郡の勢力・鮮于輔せんうほ(本編、センウホ、62話初登場)が烏丸うがんの攻撃を受けた。[武帝紀ぶていき]


 鮮于輔せんうほは元々、幽州牧ゆうしゅうぼく劉虞りゅうぐ(本編未登場)の部下であったが、劉虞りゅうぐ公孫瓚こうそんさん(本編、コウソンサン、6話初登場)と烏丸うがん対策をめぐって対立、公孫瓚こうそんさんに殺され、復讐のため公孫瓚こうそんさんと対立した。


 閻柔えんじゅう(本編、エンジュウ、62話初登場)が烏丸うがん族から慕われていたので彼を烏丸司馬うがんしばとし、異民族・漢族合わせて数万の軍勢を手に入れ、さらに公孫瓚こうそんさんと対立していた袁紹えんしょうと手を組み、公孫瓚こうそんさんを倒した。[公孫瓚こうそんさん伝]


 その後は閻柔えんじゅうとともに袁紹えんしょうに従っていたようだが、官渡かんとの戦いが始まると曹操そうそうに帰服。曹操そうそうは彼を建中けんちゅう将軍・とく幽州ゆうしゅう六郡に任じられ、閻柔えんじゅう曹操そうそうに使者を送り、護烏丸校尉ごうがんこういとなった。[公孫瓚こうそんさん伝、田予でんよ伝、烏丸うがん伝]


 鮮于輔せんうほは部下の田予でんよ(本編未登場)の意見に従い、早くから曹操そうそうに帰服したようだが、実際は多くの群雄がそうであったように、両方に使者を送り、優勢な方に味方する気だったのだろう。鮮于輔せんうほ閻柔えんじゅうが実際に曹操そうそうに帰服したのは袁譚えんたんが死に、曹操そうそう勢力が幽州に迫った頃であろう。しかし、彼らはその後も曹操そうそうによく仕え、信頼を勝ち取っていくことになる。


 本編62話、センウホ(鮮于輔)は、エンジュウ(閻柔)とともにカントの戦いで敗北後のエンショウに対して、反乱を起こす北校舎の独立勢力として登場する。


 本編での登場は史実より少し早いが、名前だけでも出しておきたかったので、出すことにした。再登場の予定は今のところない。


 8月、曹操そうそうは反乱を鎮圧し、鮮于輔せんうほを救援した。この隙をつき降伏していた并州刺史へいしゅうしし高幹こうかんが反乱を起こした。曹操そうそうは武将の楽進がくしん(本編、ガクシン、9話初登場)、李典りてんを派遣したが、勝つことはできなかった。[武帝紀ぶていき]


 当時、河内かだい郡(司隷しれいに属す)には張晟ちょうせい(張白騎ちょうはくき)(本編未登場)が一万余の盗賊団の首領として独立しており、彼が高幹こうかんに呼応し、河内かだいで反乱を起こした。


 また、弘農こうのう郡(司隷しれいに属す)の張琰ちょうえん(本編未登場)も呼応し、反乱を起こした。


 前回、高幹こうかんが攻撃した河東かとう郡(司隷しれいに属す)はこの時、太守を長年勤めた王邑おうゆう(本編未登場)から新太守杜畿とき(本編、トキ、41話初登場)に交代することになった。部下の衛固えいこ(本編未登場)と范先はんせん(本編未登場)は表向きは王邑おうゆうの留任を願ったが、裏では高幹こうかんと手を組んで反乱に加担した。


 彼らはさらに荊州けいしゅう劉表りゅうひょうとも連絡を取り合っていたという。[鍾繇しょうよう伝、張既ちょうき伝、賈逵かき伝、杜畿とき伝]


 上記の内、張琰ちょうえんについてはよくわからない。張既ちょうき伝では弘農こうのうの人、賈逵かき伝では、当時、澠池べんち県令(司隷しれい弘農こうのう郡に属す)であった賈逵かき(本編、カキ、64話初登場)は挙兵前の張琰ちょうえんに会ったといい、杜畿とき伝では弘農こうのう太守を捕らえた(捕らえた人名は不明)とある。弘農こうのう太守に仕える役人であろうか(太守に仕える役人は地元の有力者である場合が多い)


 206年1月、曹操そうそう高幹こうかんを攻め、3ヶ月かけ彼のこも壺関こかんを落とした。高幹こうかん荊州けいしゅうに逃げようとしたが、捕らえられ斬られた。[武帝紀ぶていき袁紹えんしょう伝]


 また、高幹こうかんは奪われたぎょうへの攻撃も計画していたが、守将の荀衍じゅんえん(荀彧じゅんいく兄)(本編未登場)に阻まれ、失敗に終わった。[荀彧じゅんいく伝]


 また曹操そうそう河内かだい弘農こうのう河東かとう三郡の反乱に対し、張既ちょうきを再び馬騰ばとうの元に派遣し、協力を得て鍾繇しょうように合流させた。鍾繇しょうようらは河内かだい張晟ちょうせいを破り、さらに張琰ちょうえん衛固えいこらも捕らえられ、処刑された。[張既ちょうき伝、賈逵かき伝、杜畿とき伝、龐悳ほうとく伝]


 高幹こうかんも従兄弟の袁譚えんたん袁煕えんき袁尚えんしょうが次々とやられていくのを見て危機感を持ったのだろう。彼の起こした反乱は、司隷しれい三郡を巻き込み、さらに劉表りゅうひょうとも連絡を取り合う等、かなり大規模なものであった。だが、既に河北三州からえん家の勢力がほぼ駆逐された後であった。


 曹操そうそうぎょうを包囲し、袁尚えんしょう中山ちゅうざんに逃亡していた頃、袁尚えんしょうの部下・牽招けんしょう高幹こうかんの元に赴き、袁尚えんしょうを助けるよう要求したが、高幹こうかんは受けなかった上に、牽招けんしょうを殺害しようとした。牽招けんしょうは逃げ出したが、道路がさえぎられ、袁尚えんしょうの元に帰ることもできず、やむなく曹操そうそうの元に投降した。[牽招けんしょう伝]


 高幹こうかん袁尚えんしょうを助けずに、後になって反乱を起こすのは決断が遅いと言わざるを得ない。あるいはえん家からすら独立しようとしたのかもしれない。いずれにせよ、河北かほくがほぼ曹操そうそうに平定されてから起こした反乱では、鎮圧は時間の問題だったろう。長期的な計画性のある行動とは言いがたい。



 ◎烏丸征伐



 曹操そうそう青州せいしゅうの賊・管承かんしょう(本編未登場)を討伐すると、207年2月、ぎょうに帰還した。曹操そうそう袁尚えんしょうらの逃げ込んだ北方の烏丸うがん族を討伐したいと考えたが、諸将は烏丸うがんの地は遠く、またその間に劉表りゅうひょう劉備りゅうびが動くことを恐れて反対した。ただ、郭嘉かくかだけが劉表りゅうひょうでは劉備りゅうびを使いこなせないとして遠征に賛成した。[武帝紀ぶていき郭嘉かくか伝]


 また烏丸うがんへの兵糧輸送の問題に関しては、董昭とうしょう(本編、トウショウ、42話初登場)の進言に従い、二運河を掘削くっさくし、海につなげ、新たな輸送路とした。[武帝紀、董昭伝]


 5月、曹操そうそう無終むしゅう県(幽州ゆうしゅう右北平ゆうほくへい郡に属す)に到着。7月、大洪水があり、海沿いの道が普通となったが、無終むしゅう出身の田疇でんちゅう(本編未登場)の案内で進むことができた。途中、山を掘り、谷を埋め、道なき道を進みながら烏丸うがん本拠地の柳城りゅうじょうを目指した。[武帝紀ぶていき田疇でんちゅう伝]


 8月、白狼山はくろうざんで突如、烏丸うがんの襲撃を受ける。移動中でよろいを着用していない兵士も多く、部隊はひるんだが、曹操そうそう自ら高みに登り、敵陣が整っていないのを望見すると、張遼ちょうりょう張郃ちょうこう(本編、チョーコー、18話初登場)を先鋒にしてこれを攻撃し、張遼ちょうりょう烏丸うがん単于ぜんう(王)・蹋頓とうとん(本編、トウトン、73話初登場)を斬った。その他、多くの烏丸うがん幹部を斬り、降伏者は二十余万人にのぼった。[武帝紀ぶていき張遼ちょうりょう伝、張郃ちょうこう伝、烏丸うがん伝]


 蹋頓とうとんの最期についてだが、曹純そうじゅん伝では、曹純そうじゅんの騎兵が蹋頓とうとんを生け捕りにしたとあり、張遼ちょうりょう伝では、張遼ちょうりょう蹋頓とうとんの首を斬ったとある。どちらが正しいのかよくわからない。あるいは一度捕らえたが、逃亡し、斬られたのだろうか。烏丸うがん伝では戦闘の最中、蹋頓とうとんが斬られたとあるので、今は張遼ちょうりょうに斬られたとする。


 またこの期間の劉表りゅうひょうの動きだが、劉備りゅうび劉表りゅうひょうに、曹操そうそうが|烏丸《うがん》征伐で遠征している間に彼の本拠地である許都きょとを襲撃するよう進言しているが、劉表りゅうひょうはこれを採用しなかった。後に曹操そうそうが遠征から帰還すると、先の劉備りゅうびの進言を採用しなかったことを、劉表りゅうひょうは後悔した。[先主せんしゅ伝]


 劉備りゅうびは、演義えんぎ等では逃げてばかりで戦争に弱いイメージだが、実際の彼はかなり戦争に強い将軍である。彼が敗北したのも曹操そうそう呂布りょふ(本編、リョフ、5話初登場)といったトップクラスの指揮官相手であり、袁紹えんしょう軍(公孫瓚こうそんさん配下時代)、袁術えんじゅう軍(徐州じょしゅう時代)、楊奉ようほう(本編、ヨウホウ、32話初登場)・韓暹かんせん(本編、カンセン、35話初登場)軍(徐州じょしゅう時代)等を相手にした時は戦功をあげており、先の博望はくぼうの戦いでも、曹操軍のNo.2の将軍・夏侯惇かこうとんを撃破している。


 また、劉備りゅうび徐州じょしゅうで反乱を起こすと、曹操そうそうは討伐のため、劉岱りゅうたい(本編、リュウタイ、46話初登場)と王忠おうちゅう(本編、オウチュウ、46話初登場)を派遣したが勝てず、劉備りゅうび劉岱りゅうたいらに対して「お前たちが百人来ても私をどうすることもできない。曹操そうそう自ら来たらわからないがな」と言ったという。この後、本当に曹操そうそうが来襲し、劉備りゅうびが逃亡するので、良くできすぎた逸話なのだが、実際に劉備りゅうび曹操そうそうさえいなければ、他の曹操そうそう軍の武将相手なら勝てると思っていたようである。


 その曹操そうそうがほぼ河北かほくにおり、中央に空けているのに出撃できないこの時期は劉備りゅうびにとって歯がゆい期間であったのだろう。


 なお、本編ではリュービ(劉備りゅうび)の戦争に強い面をわりと強調している。


 劉表りゅうひょうの優柔不断を象徴するエピソードの一つだが、これまで見てきたように、201年の南陽なんよう攻略、203年頃の博望はくぼうの戦い、206年の高幹こうかんの反乱への協力と、曹操そうそうと何度も戦っているが、南陽なんよう郡より北に侵攻できていない。加えてこの時の劉表りゅうひょうとの戦いには曹操そうそう自身は参戦していない。これでは曹操そうそう本人がいないからといって、安易に許都きょとへ侵攻できるとは思えなかったのかもしれない。


 また、劉表りゅうひょうの対曹操そうそうの戦略は、袁家があってのことであった。袁尚えんしょう袁譚えんたん高幹こうかんと次々勢力が滅ぼされてしまった今、協力者のあてがなくなり、対曹操そうそうの戦略そのものの練り直しを迫られていたのかもしれない。




 ◎遼東太守・公孫康



 袁尚えんしょう袁熙えんきはさらに東方にある遼東りょうとう郡の太守・公孫康こうそんこう(本編未登場)を頼って落ち延びた。しかし、公孫康こうそんこうは袁尚らを斬り、その首を曹操そうそうに送り、恭順した。[武帝紀ぶていき公孫度こうそんたく伝]


 遼東りょうとう郡は遠方にあり(朝鮮半島に隣接する)、公孫康こうそんこうの父・公孫度こうそんたく(本編未登場)の代より半独立状態であった。位は遼東りょうとう太守だが、遼東りょうとう帯方たいほう楽浪らくろう玄菟げんと四郡に勢力は及び、さらに海を渡って青州せいしゅう東萊とうらい郡のいくつかの県まで支配下に組み込んでいた。


 袁紹えんしょうとの関係は具体的に不明だが、戦争した記録も無いので親しくしていたのであろう。しかし、それは袁紹えんしょうを恐れてのことであって、敬ってのことではなかった。そこが袁尚えんしょうの認識不足であったのだろう。


 また、公孫こうそん氏の治めていた東萊とうらい郡の飛地だが、張遼ちょうりょう袁譚えんたんを破った後(205年頃)、別軍として海岸地帯を攻略し、遼東りょうとうの賊・柳毅りゅうき(本編未登場)を破ったという。


 この時点で張遼ちょうりょうが単独で遼東りょうとうまで遠征するとは思えず、おそらく東萊とうらい郡の公孫こうそん氏領攻略のことであろう。なお、公孫度こうそんたく伝には、遼東りょうとう郡の官吏として柳毅りゅうきという人物が登場している。おそらく同一人物であろう。あるいはこの東萊とうらい郡の飛地を失ったことが、曹操そうそうが本気で攻めてくるかもしれないと危機感を持ったきっかけかも知れない。[張遼ちょうりょう伝、公孫度こうそんたく伝]


 また、後漢末、東萊とうらい郡の一部を割き、長広ちょうこう郡が新設され、何夔かき(本編、カキ、36話初登場)が太守に任命された。何夔かきは198年頃に曹操そうそうに仕え、劉備りゅうびそむいて後、東南方面に事変が多くなり、城父じょうほ県令に任命された。城父じょうほ県は予州汝南よしゅうじょなん郡に所属し、おそらく、劉備りゅうび袁紹えんしょうの将として汝南じょなんで暴れていた頃に赴任したのだろう。この功績により、彼は長広ちょうこう太守に昇進した。[何夔かき伝]


 おそらく、この長広ちょうこう郡は東萊とうらい郡のうち、公孫こうそん氏に所属していない地域で作られたのだろう。その範囲は正確には不明だが、何夔かき伝を読むと、長広ちょうこう県、牟平ぼうへい県、東牟侯国とうぼうこうこく昌陽しょうよう県辺りが範囲であることがわかる。


 これらの県は東萊とうらい郡南部に位置することから、公孫氏の勢力範囲は東萊とうらい郡北部であったことが推測できる。なお、この長広ちょうこう郡は後に廃止される(しんの時代に復活)。おそらく公孫こうそん氏を追い払ったことでその役目を終えたのだろう。


 余談だが、東萊とうらい郡と言えば、太史慈たいしじ(本編、タイシジ、19話初登場)の出身地でもある。彼は最初、東萊とうらい郡の役人となったが、とある事件から青州せいしゅうの役所から憎まれ、遼東りょうとうに逃亡している。[太史慈たいしじ伝]


 おそらく、東萊とうらい郡と遼東りょうとう郡の間の海路が発達しており、かなり船による行き来が活発だったのではないだろうか。


 話は少し戻るが、曹操そうそう官渡かんとの戦いの前、各地の群雄に使者を送り、味方につけようとした。遼東りょうとう公孫度こうそんたくにも武威ぶい将軍、永寧郷侯えいねいきょうこうの印綬を送ったが、公孫度こうそんたくは、私は遼東りょうとうの王だ、永寧郷侯えいねいきょうこうなんていらないと印綬を倉庫にしまってしまった。しかし、公孫度こうそんたくも204年、曹操そうそうぎょうを攻略している頃に亡くなり、子の公孫康こうそんこうが後を継いだ。


 公孫康こうそんこうは遼東太守になってすぐ、曹操そうそうの侵攻で東萊とうらい郡の飛地を失い、袁尚えんしょうが助けを求めてきたことになる。


 公孫康こうそんこう遼東りょうとうの独立を保てればそれでよく、自らを王と呼んだ父・公孫度こうそんたくほどの野心はなかったのだろう。袁尚えんしょうを斬った功で曹操そうそうより左将軍・襄平侯じょうへいこうに取り立てたが、それを受け取っている。


 公孫康こうそんこうはその後も遼東りょうとう太守であり続けたが、特に問題は起こしていない。その子・公孫淵こうそんえんの代にやらかすが、それは別のお話である。



 ◎荊州の劉表



 えん家の勢力を駆逐し、烏丸うがんを征伐し、公孫康こうそんこうが従属した今、曹操そうそうの次の敵は荊州けいしゅう劉表りゅうひょうであった。


 曹操そうそう荊州けいしゅうに備えて、張遼ちょうりょう長社ちょうしゃ(予州穎川郡に属す)に、楽進がくしん陽翟ようてき(予州穎川郡に属す)に、于禁うきん潁陰えいいん(予州穎川郡に属す)に駐屯させた。だが、三将軍は互いに強調しなかったので、趙儼ちょうげん(本編、チョウゲン、41話初登場)を同時に三つの軍の参軍に任じ、三将軍を事あるごとに教えさとしたので、互いに親しむようになった。[張遼ちょうりょう伝、楽進がくしん伝、趙儼ちょうげん伝]


 この出来事は、張遼ちょうりょう伝では烏丸うがん討伐後、楽進がくしん伝、趙儼ちょうげん伝では、荊州けいしゅう征伐前に記述されている。おそらくこれは208年の荊州けいしゅう征伐直前の出来事で、この布陣は、荊州けいしゅう劉表りゅうひょうからの防衛以上に、この後の荊州けいしゅう征伐への前準備ということであろう。


 なお、各々が駐屯した長社ちょうしゃ陽翟ようてき穎陰えいいんはすべて予州穎川よしゅうえいせん郡に属す県名で、穎川えいせん郡は汝南じょなん郡とも荊州けいしゅう南陽なんよう郡とも隣接した郡である。


 この後、曹操そうそう荊州けいしゅう征伐にあたり、趙儼ちょうげん章陵しょうりょう太守(荊州けいしゅう北部の郡)に任命し、都督護軍ととくごぐんとして、于禁うきん張遼ちょうりょう張郃ちょうこう朱霊しゅれい(本編、シュレイ、44話初登場)、李典りてん路招ろしょう(本編、ロショウ、44話初登場)、馮楷ふうかい(本編未登場)の七軍を統括させた。[趙儼ちょうげん伝]


 先の三将軍の駐屯はこの荊州けいしゅう征討軍の前進となるものであったのだろう。(楽進がくしんはこれとは別に荊州けいしゅう征伐に参加することとなったようだ)


 また曹操そうそうは、冀州きしゅう平定後、朱霊しゅれいに兵五千、騎馬千頭を与え、陽翟ようてきに派遣している。[朱霊しゅれい伝]


 曹操そうそう冀州きしゅう平定後も青州せいしゅう幽州ゆうしゅう并州へいしゅうと各地に敵を抱えており、おそらく、一斉に荊州けいしゅうに向けて将軍を派遣するのは戦力的に難しく、段階的に派遣し、徐々に荊州けいしゅう平定用の戦力を整えていったのだろう。


 一方、劉備りゅうびは時期は不明だが、駐屯する城を曹操そうそう領最前線の新野しんやからはんに移していた。[先主せんしゅ伝]


 演義では新野しんやに駐屯していた劉備りゅうびが、北の曹操そうそう領にある曹仁そうじん(本編、ソウジン、9話初登場)の守るはんを攻略し、はんを勢力圏に組み込むことになったとしている。


 しかし、実際のはんの位置は、新野しんやより南、劉表りゅうひょうの本拠地である襄陽じょうよう(荊州けいしゅうなん郡に属す)から漢水かんすい(川の名)を挟んですぐ北隣にある。


 つまり、劉表りゅうひょうもまた戦略を立て直し、布陣の変更を行っていたのだろう。


 曹操そうそう劉表りゅうひょうの戦いはもう目前に迫ってきていた。



 ◎まとめ



 今回の解説では、学園戦記三国志で省略された第四章~第五章の間にあたる201~207年頃を扱った。


 このあたりの期間は他の三国志物でも省略される傾向が強く、あまり馴染みのない人も多いのではないだろうか。


 しかし、今回見てきたように、この期間はかなり内容の詰まった時期であった。


 特に曹操そうそうは、自身も南北を往復し、北の烏丸うがんまで遠征した。それでも戦いが各地で勃発し、手が足りない有り様であった。


 劉備りゅうび髀肉之嘆ひにくのたんの故事等で207年頃まで暇な印象が強いが、203年頃まではかなり忙しく動いている。


 その劉備りゅうびが203年以降、暇になった理由は、袁譚えんたんの独立であった。袁譚えんたんが弟の袁尚えんしょうと対立せず、袁家一丸となって、劉表りゅうひょうと共に南北から曹操そうそうを攻めれば、状況は変わっていたかもしれない。


 しかし、元を正せば、袁紹えんしょう袁譚えんたんを後継者から外しておきながら、青州を丸々任せ、他の群雄並みの力を与えてしまったことが、そもそもの原因なのだから、袁家が滅んだのも仕方がないことなのかもしれない。



 ◎略年表



200年2月、袁紹、南下を開始

4月、白馬の戦い、顔良戦死

孫策暗殺、孫権継ぐ

この間、延津の戦い、文醜戦死

8月、官渡の戦い

10月、烏巣の戦い

曹操、官渡の戦いに勝利

201年4月、曹操、倉亭の戦い勝利

9月、曹操、許都に帰還し、汝南の劉備討伐に赴く。劉備、劉表のもとに逃走

この頃、劉表、南陽曹操領を攻略

202年5月、袁紹死去、袁尚継ぐ

9月、曹操、袁譚・袁尚らを討つ

203年3月、曹操、袁譚・袁尚らの籠る城郭を攻撃、袁譚ら逃走する

4月、曹操、鄴に進軍

5月、曹操、許都に帰還

8月、曹操、劉表を討つため西平に駐留

この頃か、曹洪、南陽諸県を攻略

この頃か、博望の戦い

曹操が南下すると、袁譚・袁尚が冀州の支配を巡り対立。袁譚、平原に敗走し、曹操に降伏し、救援を要請する

荀攸、曹操に袁譚救援を勧め、曹操、西平から北上する

10月、曹操、河北に到着、袁譚と和睦

袁尚、曹操の進軍を聞き、平原の包囲を解き、鄴に帰還

204年2月、袁尚、再び袁譚を攻める

曹操、鄴を攻撃

4月、曹操、鄴攻撃に曹洪を残し、糧道の毛城、邯鄲を攻略

5月、曹操、鄴を水攻め

7月、袁尚、鄴救援に引き返す

曹操、袁尚を迎撃し、その陣営を包囲する

袁尚、祁山に逃亡するが、ここも陥落し、中山に逃亡する

8月、曹操、審配を斬り、鄴陥落

高幹、曹操に降伏し、并州刺史に任命される。

袁譚、曹操が鄴を包囲すると、中山の袁尚を攻める。袁尚、故安に逃走

曹操、袁譚に約束違反を責め、戦争状態となる

袁譚、平原から南皮に逃亡

12月、曹操、平原に入場し、諸県を平定

この年、遼東太守・公孫度死去、公孫康継ぐ

205年1月、曹操、袁譚を攻め、これを斬る

袁熙・袁尚、烏丸のもとに逃走

4月、黒山の張燕、曹操に降伏

故安の趙犢・霍奴ら、幽州襲撃

烏丸、鮮于輔を攻撃

8月、曹操、烏丸を討ち、鮮于輔を助ける

并州の高幹、州を上げて反乱を起こす、楽進・李典、これを攻撃する

10月、曹操、鄴に帰還

206年1月、曹操、高幹討伐

高幹、荊州へ逃亡を図るが、捕獲され斬られる

8月、曹操、海賊の管承征討のため、東に赴き、楽進・李典にこれを討たせる

207年2月、曹操、鄴に帰還

8月、曹操、烏丸征討

烏丸への道中、同行した張繡、死去

9月、曹操、柳城より帰還

公孫康、袁尚らを斬り、その首を曹操に送る

この頃、郭嘉死去

この年、三顧の礼

208年1月、曹操、鄴に帰還

6月、曹操、丞相に就任

7月、曹操、劉表征討軍を起こす



〔参考文献〕


・書籍

陳寿著 今鷹真・井波律子・小南一郎訳 『正史三国志』(全八巻) 筑摩書房 1993年

范曄撰 李賢等注 『後漢書』(全六巻) 中華書局出版 1965年

篠田耕一 『三国志軍事ガイド』 紀元社 1993年

沈伯俊・譚良嘯編著 立間祥介・岡崎由美・土屋文子編訳 『三国志演義大事典』 潮出版社 1996年

坂口和澄 『正史三國志群雄銘銘傳』 光人社 2005年

坂口和澄 『図説 合戦地図で読む三国志の全貌』 青春出版社 2008年

藤井勝彦 『三国志合戦事典 魏呉蜀74の戦い』 紀元社 2010年

長田康宏 『三国志群雄太守県令勢力図(上)』 同人誌 2018年

三国志学会監修 『曹操 奸雄に秘められた「時代の変革者」の実像』 山川出版社 2019年


・サイト

資治通鑑 維基文庫

https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%B3%87%E6%B2%BB%E9%80%9A%E9%91%91

三国志、全文検索 http://www.seisaku.bz/sangokushi.html

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