歴史解説 袁家の滅亡と博望の戦い 中編

 ※これは別に連載中の小説『学園戦記三国志』の歴史解説回を独立・編集して掲載するものです。


↓学園戦記三国志リンク

https://kakuyomu.jp/works/1177354054890213389


 前回は官渡かんとの戦い前後の劉表りゅうひょう劉備りゅうびの動きと、袁紹えんしょう死後、彼の後継を巡る流れを解説した。今回は袁紹えんしょう遺児いじである袁譚えんたん袁尚えんしょうの対立から解説していこう。



 ◎袁家の分裂



 ここで曹操そうそうの参謀・郭嘉かくか(本編、カクカ、16話初登場)が提案する。「袁譚えんたん袁尚えんしょうをこのまま攻めれば助け合って抵抗しますが、ほっておけば両者は対立します。ここは荊州けいしゅう劉表りゅうひょうを討伐するふりをして、彼らの対立を待つべきです」[郭嘉かくか伝]


 この策により203年8月、曹操そうそう劉表りゅうひょう征討のため南下し、汝南じょなん郡の西平せいへいに駐屯した。[武帝紀ぶていき]


 曹操そうそうが南下すると、早速、袁譚えんたん袁尚えんしょう冀州きしゅうの支配をめぐって争い、袁譚えんたんが敗れ、自身が刺史しし(長官)を務める青州せいしゅう平原へいげん(地名)まで逃亡したが、その地も袁尚えんしょうの攻撃にさらされることとなった。[武帝紀ぶていき袁紹えんしょう伝]


 袁紹えんしょうの後継をめぐり、袁譚えんたん辛評しんひょう郭図かくとらに擁立ようりつされ、袁尚えんしょうと対立することになった。


 一見、家臣団が真っ二つに別れたように見えるが、次子・袁熙えんき沮授そじゅの子・沮鵠そこく(本編未登場)、陳琳ちんりん(本編、チンリン、49話初登場)や牽招けんしょう(本編、ケンショウ、51話初登場)と家臣の多くは袁尚えんしょうについていた。


 対して袁譚えんたんはそこまで大きな支持は得れていなかったようだ。むしろ、彼の後継者立候補は辛評しんひょう郭図かくとのクーデターに近いものだったのではないか。


 袁譚えんたんの部下・王脩おうしゅう(本編未登場)は、袁譚えんたん袁尚えんしょうに敗れると、青州せいしゅうより救援に赴いたが、彼自身は兄弟で争うことに反対し、佞臣ねいしん数人を斬り、共に協力することを提案している。[王脩おうしゅう伝]


 この佞臣ねいしん数人が辛評しんひょう郭図かくとらを指すのか、他にも該当者がいるのかは不明だが、王脩おうしゅう自身も袁譚えんたんの独立に反対しており、袁譚えんたんを担いでいたのは決して多くはなかったのではないだろうか。


 また、後に劉表りゅうひょうは対立を止める様、袁譚えんたん袁尚えんしょうにそれぞれ手紙を送っているが、この手紙によると、劉表りゅうひょうは両者の対立の元凶を辛評しんひょう郭図かくととしている。[袁紹えんしょう伝]


 袁尚えんしょうについた審配しんはい冀州きしゅうの出身者であり、田豊でんほう沮授そじゅ(ともに冀州きしゅう出身)亡き後、冀州きしゅうの人材をまとめる立場にあったのだろう。また冀州きしゅうの政治を担当しており、同じく冀州きしゅうにいた袁尚えんしょうと接点も多かったのかもしれない。


 また逢紀ほうき袁紹えんしょう董卓とうたくより逃亡した時に許攸きょゆう(本編、キョユウ、47話初登場)とともに同行し、袁紹えんしょうの旗揚げに貢献した古参で、審配しんはいとともに軍務を担当していた。


 元々、審配しんはい逢紀ほうきは仲が良くなかったという。官渡の敗戦時、審配しんはいの二人の子は曹操の捕虜となった。これを受けて孟岱もうたい(本編未登場)と蒋奇しょうき(本編、ショウキ、54話初登場)は審配しんはいが裏切るのではないかと袁紹えんしょう讒訴ざんそした。孟岱もうたいらの意見にさらに郭図かくと辛評しんひょうも同調したので、審配しんはいは降格された。


 しかし、逢紀ほうき審配しんはいを誉め、疑うべきではないと発言し、それにより審配しんはいは復権することができた。以降、二人は親しくなったという。[袁紹えんしょう伝、後漢書・袁紹えんしょう伝]


 対して郭図かくと辛評しんひょうはともに予州穎川よしゅうえいせん郡出身、河北かほく四州から見たらよそ者である。冀州きしゅうの人たちとの結びつきがない。


 また先ほどのエピソードから彼らは過去に審配しんはい讒言ざんげんで降格に追い込んでいる。おそらくそれ以前から仲は良くなかったのではないだろうか。


 冀州きしゅうの代表格・審配しんはい袁紹えんしょう最古参・逢紀ほうきが手を組んで袁尚えんしょうを担げば、おそらく、よそ者の自分たちでは居場所はなくなると判断したのだろう。だから、不満を持っているであろう袁譚えんたんに近づいた。


 前述の河東かとう太守・郭援かくえんは戦った鍾繇しょうようの甥であったという。鍾繇しょうようもまた穎川えいせん郡の出身であり、その甥である彼も穎川えいせん郡出身、さらに言えば穎川えいせんかく氏の郭図かくとの同族の可能性がある。


 その時点でまだ袁譚えんたん袁尚えんしょうは明確に対立してはいないが、彼は袁尚えんしょうに従っている。穎川えいせん郡出身者や一族が全員、郭図かくと辛評しんひょうに賛同していたわけではなかったのかもしれない。


 話を戻すが、救援に来た王脩おうしゅうの兄弟で助け合うという提案を退けた袁譚えんたんは外に助けを求めた。


 彼は敵である曹操そうそうに、辛毗しんぴ(辛評しんひょうの弟)(本編、シンピ、63話初登場)を派遣し、降伏を乞い、救援を要請した。


 この袁譚えんたんの救援要請に、曹操そうそうの家臣の多くは信用せず、先に劉表りゅうひょうを討つべきと主張したが、参謀の荀攸じゅんゆう(本編、ジュンユウ、38話本格登場)は、袁譚えんたん袁尚えんしょう、どちらかが相手を吸収すれば、また強力な勢力になる。この混乱に乗じて彼らの領土を取るべきと主張し、曹操そうそう袁譚えんたんとの和議を決め、再び北に向かった。[武帝紀ぶていき荀攸じゅんゆう伝]


 元々、郭嘉かくかの策で仲違いさせるための南下であったが、まさか袁譚えんたんが降伏してくるとは思わなかっただろう。信用できないのも無理はない。


 また、多くの家臣が先に劉表りゅうひょう討伐をと言ったのも、それだけ劉表りゅうひょうの動きが活発で、脅威と認識されていたのだろう。


 この決定には曹操そうそう自身にも迷いがあったようで、辛毗しんぴが着てからも数日、西平せいへいに滞在している。[辛毗しんぴ伝]



 ◎曹操の劉表対策



 結局、曹操そうそう自身は北に戻ることとなったが、劉表りゅうひょうによって南陽なんよう郡諸県が占領されたままなのは事実であり、何かしら手を討たねばならない。


 曹操そうそうの武将・曹洪そうこう(本編、ソウコウ、9話初登場)は曹操そうそうとは別に劉表りゅうひょうを征伐し、無陽ぶよう陰葉いんしょう堵陽とよう博望はくぼうにおいて劉表りゅうひょうの別将を撃破し、その功績により厲鋒れいほう将軍に昇進した。[曹洪そうこう伝]


 この記述には場所と時期に疑問があるので、順に見ていこう。


 まず、場所だが、無陽ぶよう陰葉いんしょう堵陽とよう博望はくぼうを攻撃したとある。つまり、これ以前に劉表りゅうひょうがこの地を占領していたことになる。


 このうち無陽ぶよう予州汝南よしゅうじょなん郡の南部に属し、堵陽とよう博望はくぼう荊州南陽けいしゅうなんよう郡の北部に属す。だが、陰葉いんしょう県はない。


 あるいは南陽なんよう郡のいん県としょう県2つの地名を指すのか?だが、しょう県は無陽ぶよう県のすぐ隣にあるが、いん県は南陽なんよう郡のかなり奥、劉備りゅうびが駐屯している新野しんや県の西に位置する。一気に飛び過ぎる。あるいは南陽なんよう郡の北部に無陰ぶいんという県があり、これと間違えたか。


 劉表が南陽なんよう郡を抑えておきたいのなら、無陰ぶいんしょう堵陽とよう博望はくぼうあたりが妥当だろう。


 なお、前述した杜襲としゅうが獲られた西顎せいがく県は博望はくぼうより劉表りゅうひょう領寄りの位置にあり、この時点では西顎せいがく県まで取り戻せていないようである。


 次にこの劉表りゅうひょうの征伐だが、曹洪そうこう伝には年月の記載がない。


 候補としては197年、203年、208年の三つがあげられる。


 まず、197年だが、これは武帝紀ぶていきに記載があり、まだ張繡ちょうしゅう劉表りゅうひょうが組んでいた時代、曹操そうそう曹洪そうこうを派遣して南陽なんよう章陵しょうりょう(ともに荊州けいしゅう北部の郡)の張繡ちょうしゅうらに味方した諸県を攻撃させたが、勝てず、曹洪そうこうは引き返してしょうに駐屯した。


 この後、曹操そうそう自ら進軍し、胡陽こように駐屯する劉表りゅうひょうの将・鄧済とうせい(本編未登場)を捕らえ、さらに無陰ぶいんを陥落させた。[武帝紀ぶていき]


 この戦いでは曹洪そうこうは負けており、しょうまで後退している。しょう県は最も汝南じょなん郡に近い南陽なんよう郡北東の端の県である。これは曹洪そうこう伝とは大きく食い違う。あるいは一時的に占領したが、その後奪い返されたとも解釈できるが、昇進するほどの功績とは言えないのではないだろうか。


 次に208年の劉表りゅうひょう征討だが(第五章のメインになるのはこれ)、この曹洪そうこう伝の記述の続きには、曹洪そうこうはこの後も征伐に従い都護とご将軍に昇進したとある。


 また、王粲おうさん(本編、オウサン、63話初登場)伝に付属する阮瑀げんう(本編未登場)伝に、都護とご曹洪そうこう阮瑀げんうを書記にしようとしたが、彼は従わず、後に曹操そうそうによって司空軍謀祭酒しくうぐんぼうさいしゅに任命されたとある。[阮瑀げんう伝]


 司空軍謀祭酒しくうぐんぼうさいしゅとは、司空(役職名)である曹操そうそうの補佐役ということだが、208年1月に丞相じょうしょうが設置され、その時に司空は廃止されている(曹操そうそう丞相じょうしょう就任は同年6月)。曹操そうそうが司空なのは207年までで、この一件があったのはそれ以前となり、その時点で曹洪そうこう都護とご将軍に就任している。


 おそらく、ここに書かれた曹洪そうこう劉表りゅうひょう征伐は203年前後のことで、その後の征伐というのは袁譚えんたん袁尚えんしょうとの戦いを指すのだろう。


 なお、武帝紀ぶていきには、204年のぎょう(袁尚えんしょう本拠地)攻略戦に曹洪そうこうが登場している。


 ただ、年月については曹洪そうこう曹操そうそうとは別に征討したとあり、先行して南陽なんよう郡攻略に向かった可能性もある。曹洪そうこうは河北戦線にも登場するので、200年10月以降、204年4月以前の出来事だろう。(実際は移動期間もあるので、201年~203年頃と考えていいのではないか。なお、曹操そうそうは8月に西平せいへい着、10月に黎陽れいよう着で2ヶ月かかっている)


 つまり、201年頃の劉表りゅうひょうは、この辺りの南陽なんよう郡北東部を攻略していた。



 ◎博望の戦い



↓近況ノートリンク博望の戦い関連地図

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 さて、次はいよいよ博望はくぼうの戦いである。


 博望はくぼうの戦いについては李典りてん(本編、リテン、27話本格登場)伝には、劉表りゅうひょう劉備りゅうびを使って北方まで進攻させ、しょうまで来た。曹操そうそうは、夏侯惇かこうとん(本編、カコウトン、6話初登場)・李典りてんらを使って劉備りゅうびを防がせた。劉備りゅうびはある朝、屯営を焼いて去った。


 劉備りゅうびを追撃しようする夏侯惇かこうとんを、李典りてんは止めたが、彼は聞き入れず于禁うきん(本編、ウキン、10話初登場)とともに追撃し、李典りてんは守備に残った。夏侯惇かこうとん劉備りゅうびの伏兵にあい不利となり、李典りてんが救援に向かった。劉備りゅうびは救援が来たのを見ると退却した。[李典りてん伝]


 一方、先主せんしゅ(劉備りゅうび)伝では、劉表りゅうひょう劉備りゅうびを使って、夏侯惇かこうとん于禁うきんらを博望はくぼうで阻ませた。劉備りゅうびは伏兵を設け、自軍の屯営を焼き払って逃走と見せかけた。夏侯惇かこうとんらは追い討ちをかけ、伏兵によって撃破された。[先主せんしゅ伝]


 これらの記述から劉備りゅうびの動きを整理すると、しょうまで進攻し、夏侯惇かこうとんらが攻めてきたので後退。博望はくぼうで追い付かれたので、これを撃破。そのまま撤退したとなる。


 なお、南陽なんよう郡の地理は、しょう県が曹操そうそう領寄り、博望はくぼう県が劉表りゅうひょう領寄りとなっている。


 この戦いで劉備りゅうびは、しょうまで進攻し、最終的に博望はくぼう以東を放棄している。つまりこの時点でしょうまでは曹操そうそう領であったということだ。


 ならば、時系列として、曹洪そうこう南陽なんよう郡諸県攻略が先、博望はくぼうの戦いが後となる。


 だから、劉表りゅうひょうからみたら先に曹操そうそう軍が自領に攻めてきたので、防がせたとなり(原文『使拒、夏侯惇于禁等、於博望』)、曹操そうそうから見たらすでに自領に編入した土地に劉備りゅうびが進入してきたので進攻となるのだろう(原文『劉表使劉備北侵、至葉』)。


 この博望はくぼうの戦いも201年~203年頃の戦いであろう。


 だが、曹操そうそうの203年8月の南下との時系列は断定するのが難しい。


 しかし、この戦いに登場する曹洪そうこう李典りてんは204年のぎょう攻略戦に参加している。曹操そうそうの北上に従ったのであれば、博望はくぼうの戦いは曹操そうそう南下とほぼ同時期かそれ以前だろうか。


 なお、資治通鑑しじつがん(北宋時代に書かれた歴史書)では、博望はくぼうの戦いを202年の出来事としている。


 ちなみに先の話になるが、本編にてソウソウの南校舎征伐時のソウコウの動きは、この曹洪そうこう劉表りゅうひょう征伐の記述が元になっている。つまり、本編では208年の出来事として、博望はくぼうの戦いの後に時系列を変更している。



 ◎鄴攻略戦



 さて、袁譚えんたんの降伏を受け、曹操そうそうは10月に再び黎陽れいように戻った。


 袁尚えんしょう曹操そうそうの北上を知ると、袁譚えんたんの籠る平原へいげんの包囲を解き、ぎょうに帰った。


 袁譚えんたんは包囲が解けると、袁尚えんしょうの武将・呂曠りょこう(本編未登場)、呂翔りょしょう(本編未登場)に密かに将軍の印綬(証)を与えたが、呂曠りょこう呂翔りょしょう曹操そうそうに降伏し、この印綬を渡した。


 曹操そうそうは、自身と袁尚えんしょうを戦わせ、その疲弊につけこんで袁譚えんたんが勢力を伸ばそうとしていることには気づいていたが、その場では目をつむり、自身の子・曹整そうせい(本編未登場)と袁譚えんたんの娘との婚約を決めて安心させて、軍を引き返した。[武帝紀、袁紹伝]


 袁譚えんたん曹操そうそうに降伏した。つまり彼は曹操そうそうの奉じる朝廷に従うということである。おそらくこの時点で自称であった車騎将軍の称号は却下され、青州刺史せいしゅうししだけ承認されたのだろう。


 その袁譚えんたんが朝廷(曹操そうそう)を介さず、勝手に将軍に任命するというのは明らかな裏切り行為である。せめて青州刺史せいしゅうししの部下の役職なら言い訳も出来ただろうが、さすがにその程度の役職では口説き落とせなかったのだろう。


 だが、呂曠りょこうらは袁尚えんしょう袁譚えんたん曹操そうそうとを値踏みした結果、曹操そうそうを選び、袁譚えんたんの裏工作はあっさり露見することとなった。


 この間に劉表りゅうひょうは何をしていたのか。ただ、指を咥えて見ていただけではない。


 劉表りゅうひょう袁譚えんたん袁尚えんしょうそれぞれに手紙を送り、仲を修復しようとしたが、二人ともこれを聞き入れなかった。[袁紹えんしょう伝、後漢書・袁紹えんしょう伝]


 劉表りゅうひょうからしてみれば、袁譚えんたんに味方して袁尚えんしょうを攻撃しても、袁尚えんしょうに味方して袁譚えんたんを攻撃しても、曹操そうそうの得になるばかりで、動くに動けないという状況だったのだろう。この頃に大規模な軍事行動は起こしていないようだ。


 翌204年、袁尚えんしょうぎょう審配しんはい蘇由そゆう(本編未登場)を残し、再び袁譚えんたんを攻撃した。


 その間に曹操そうそうぎょうに進攻。蘇由そゆう曹操そうそうに呼応しようとしたが、審配しんはいに攻撃され、敗れて曹操そうそう陣営に逃げ込んだ。


 4月、曹操そうそうぎょうを攻撃。土山や地下道を築いた。さらに曹操そうそう曹洪そうこうぎょう攻撃に残し、周辺の尹楷いんかい(本編未登場)の守る毛城もうじょう沮鵠そこく(沮授そじゅの子)の守る邯鄲かんたんを攻略し、ぎょうを孤立させた。


 5月、曹操そうそうぎょうを本格的に攻撃したが、守将の審配しんはいの抵抗にあい、落とすことができなかった。そこで曹操そうそうぎょう周辺の川を決壊させ水攻めにした。輸送ルートを絶たれ、水攻めを受けた城中は食糧難となり、半数が餓死した。


 7月、ぎょうの危機を知った袁尚えんしょうが引き返し、審配しんはいと呼応して、内と外から曹操そうそうを挟み撃ちにしようとしたが、敗北。袁尚えんしょうは逃亡し、審配しんはいは城に戻った。


 曹操そうそう袁尚えんしょうの陣を包囲すると、袁尚えんしょうは怖じ気づき、陰夔いんき(本編未登場)、陳琳ちんりんを派遣して曹操そうそうに降伏を乞うたが、曹操そうそうはこれを許さず、さらに包囲を厳しくした。


 袁尚えんしょう祈山きざんに逃走し、曹操そうそうが追撃すると、袁尚えんしょうの将・馬延ばえん(本編未登場)、張顗ちょうぎ(本編未登場)は戦わずに降伏し、袁尚えんしょう軍は総崩れとなり、袁尚えんしょうはさらに中山ちゅうざんに逃走した。


 曹操そうそう袁尚えんしょう輜重しちょうをことごとく捕獲し、彼の印綬(役職の証)や節鉞(軍権の証)を手に入れ、それをぎょうに籠城する兵に見せ、その戦意を削いだ。


 8月、審配しんはいの甥・審栄しんえい(本編未登場)は守っていたぎょうの東門を開け曹操そうそうを招き入れ、ついにぎょうは陥落した。守将の審配しんはいは捕らえられ、処刑された。


 ぎょうが平定されると、高幹こうかん(袁紹えんしょう甥、并州刺史へいしゅうしし)は并州へいしゅうを上げて曹操そうそうに降伏し、再び并州刺史へいしゅうししに任命された。[武帝紀ぶていき袁紹えんしょう伝]



 ◎袁譚の最期



 一方、袁譚えんたん曹操そうそうぎょうを包囲している間に冀州きしゅう甘陵かんりょう安平あんぺい勃海ぼっかい河間かかんの各郡(国)を攻略し、さらに中山ちゅうざんに逃げた袁尚えんしょうを攻めた。


 袁尚えんしょうは敗れ、幽州ゆうしゅう故安こあん(幽州ゆうしゅう涿たく郡に属す)に逃亡し、兄の袁煕えんきを頼った。袁譚えんたん袁尚えんしょうの軍勢を手に入れると平原へいげん南皮なんぴを落とし、平原へいげんの側の龍湊りゅうそうに駐屯した。


 袁尚えんしょうが逃げ込んだ故安こあん涿たく郡にある県の一つである。余談だが、涿たく郡は劉備りゅうび張飛ちょうひ(本編、チョーヒ、1話初登場)の出身地である。


 12月、この袁譚えんたんの行動に曹操そうそうは約束違反だとして彼を責め、子の婚約を解消し、平原へいげんに向けて軍を進めた。袁譚えんたんはこれに恐怖し、平原へいげんを棄て、南皮なんぴに籠った。曹操そうそう平原へいげんに入り、周辺の諸県を平定した。[武帝紀ぶていき袁紹えんしょう伝、後漢書・袁紹えんしょう伝]


 袁譚えんたん平原へいげんに籠らず、すぐ放棄したのは、先の袁尚えんしょうとの戦いで城壁が損傷し、防御に適さなかったからだろうか。


 また袁譚えんたんの約束違反を曹操そうそうは責めているが、両者にどのような約束があったのか具体的にはわからない。冀州きしゅうの領地配分について取り決めがあったのだろうか。先の呂曠りょこうらの印綬の件も言わなかっただけで、不問にしたわけではない。曹操そうそうは端から袁譚えんたんを滅ぼす気でいたのなら、どう動いても袁譚は攻められただろう。


 翌205年1月、曹操そうそう南皮なんぴ袁譚えんたんを攻めた。初め袁譚えんたんの攻勢は激しく、曹操そうそうは怯んだが、曹純そうじゅん(本編、ソウジュン、69話初登場)の進言もあり、より猛攻を加え、ついに南皮なんぴを落とした。


 袁譚えんたん曹純そうじゅんの騎馬隊に追い付かれ、命乞いをしたが、首を斬られた。また郭図かくとらもその妻子とともにことごとく斬り殺された。これにより冀州は平定された。[武帝紀ぶていき袁紹えんしょう伝、曹純そうじゅん伝、後漢書・袁紹えんしょう伝]


 辛評しんひょうの最期については史料に言及がない。後漢書には郭図かくと等とあるので辛評しんひょうも含まれるか。弟の辛毗しんぴ曹操そうそうの陣にいたが、辛評しんひょうの命乞いをしたといった記述もないから、あるいは戦死したのかもしれない。


 なお、辛毗しんぴはその後も曹操そうそう、さらに曹丕そうひ(本編未登場)、曹叡そうえい(本編未登場)と三代に仕え、衛尉えいい(大臣)にまでなり、蜀漢しょくかんが北伐を行うと、大将軍・司馬懿しばい(本編、シバイ、64話初登場)の軍師として、これと戦った。[辛毗しんぴ伝]


 一方、幽州ゆうしゅうに逃げた袁尚えんしょうとその兄・袁煕えんきだが、同1月、袁煕えんきの武将・焦触しょうしょく(本編未登場)、張南ちょうなん(本編未登場)は反乱を起こし、袁煕えんき袁尚えんしょう幽州ゆうしゅうの北東部にいる烏丸うがん(北方の異民族)族を頼って落ち延びた。焦触しょうしょくらは曹操そうそうに降伏した。


 さて、この間、荊州けいしゅう劉表りゅうひょうはどうしていたのか。彼は未だえん家との同盟を維持していた。しかし、大きな動きは見せていない。


 袁譚えんたん袁尚えんしょうの対立に深入りできなかったのもあるが、曹操そうそうの動きが速すぎたのも一因だろう。特に袁譚えんたんとは12月に開戦し、翌年1月に袁譚えんたんを斬っている。袁譚えんたんが滅ぼされると聞けば動いただろうが、さすがにこの期間では間に合わなかっただろう。


 この頃だろうか、劉備りゅうびは長期間馬に乗らず、そのせいでもも贅肉ぜいにくがついたとなげく『髀肉之嘆ひにくのたん』のエピソードがある。


 劉表りゅうひょうの動きとは断定できないが、この頃(206年頃?)、曹操そうそうの武将・張遼ちょうりょう(本編、チョーリョー、11話初登場)は荊州けいしゅうを攻撃し、江夏こうか郡の諸県を平定した。[張遼ちょうりょう伝]


 江夏こうか郡も汝南じょなん郡に隣接した郡であり、劉表りゅうひょうも何かしら曹操そうそうへの攻撃をしていたのかもしれない。


 あるいは207年に揚州ようしゅう孫権そんけん(この時点では曹操そうそうとの関係は良好)(本編、チュー坊、64話初登場)が江夏こうか太守の黄祖こうそ(本編、コウソ、63話初登場)を攻めているが、張遼ちょうりょうの進攻もこれと連動した動きだったのだろうか。[呉主ごしゅ伝(孫権そんけん伝)]



 ※後編に続く

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