第16話 刀VS水竜

 天の恵みたる雨は、大河をもって下々へと届く――古の西方において、文明の礎となった大河を称えた言葉である。ではその大河の源はいずこにあるのか。北嶺、白銀竜の居所とはまた異なる山の奥深くである。遥か古には『星を宿す』とまで言われた壮麗なる山嶺の果て、大河の水源たる湖に、その竜は棲んでいた。


「……竜の棲みたる場所とは、このようにも壮麗なのか」


 酷暑期とはいえ、極北高山の対策として完全防備に身を包んだ男がいた。彼は湖の畔にてひとりごちる。口元も布にて四重五重に覆われているため、頭まで覆った外套の下から覗くのは炯々と光る双眸のみ。その右側には、五弁の花を象った焼印が刻まれていた。

 誰あろう、東之連島ひがしのつらしま秋津国あきつくにに生をけた、五弁花ごべんか焼印の罪人。かつては天下第一之侍とも呼ばれた男、坂田刀十郎さかたとうじゅうろうであった。彼は確かな足取りにて湖畔まで進み、その水をすくい取る。飲みこそはしないものの、見るだけでその性質は理解できた。あまりにも、清らかだったのだ。


「……麓の民が、崇める訳だ」


 刀十郎は重ねて、ひとりごちた。強者を求め、いくつもの旅路を経て彼がたどり着いたのは、古竜が棲まうという北嶺の、更に深奥であった。旅のさなかに出逢った、同郷の武人。幾千万もの確率の果てに生まれた、奇跡と言ってもいい会合。そんな男から聞かされたのが、渦水竜かすいりゅうなるものの噂であった。それから幾ヶ月。彼は己の足による旅路と、拙いながらの聞き込みを経て、この山嶺にたどり着いたのだ。


「さて」


 その竜が棲まう地の前で、剣客は呟いた。男は、一つのことを失念していた。棲家は教わって此処まで来たものの、喚び方をついぞ知らなかった。案内人も断った――正確には竜の眠りを妨げることを畏れ、拒絶された――ものだから、人に聞きようもない。なれば。


「やるか」


 刀十郎は、静かに刀を抜いた。手合わせを望むのであれば、技を見せるべし。習い覚え、身に染み付いた秋津侍の礼儀を、古竜にも見せ奉らん。そう決意したのだ。身体はすでに山に慣らした。その動きに、淀みはない。腰を落とし、刀を脇に構えた。


「ぬん」


 一声、息を入れる。これより放つは斬り上げ、空太刀による水面への一撃だ。おお、なんたること。人呼んで『空太刀の刀十郎』と呼ばれたその技でもって、竜を呼び覚まそうというのだ。麓の民が見ようものなら、無礼であると騒ぎ立てるだろう。だが、今この地に立つのは彼一人のみ。なれば、遠慮は無用であった。


「すう……はあ……」


 常ならば手足の如く操る技も、此度ばかりは丹念に呼吸を練る。水面下に眠るとされる古竜を怒らせようものなら、彼はたちまちのうちに濁流に呑まれるであろう。不遜な振る舞いを行うにもかかわらず、刀十郎はあくまで冷静だった。技をもって斬り裂くのではなく、技を献上奉る。そういう心の、構えであった。


「すう……」


 五回目の呼吸で、彼は刀を動かした。あくまでゆっくりと、刀と腰が軌跡を描く。一度ひとたび加減を間違えれば。彼は注意深く、呼吸を練り込み――


「ハッッッ!!!」


 十回目の呼吸で、すべてを吐き出した。刀と腕が右逆袈裟に斬り上がり、直後、水面に剣閃が走る。飛沫が上がり、巨大な湖に筋が生まれる。壮麗、荘厳たる湖に、波濤が生まれる。竜が住まうのでなくば、底まで断ち割ってしまうのではないか。そう思わせるほどの、技の冴えであった。


「……!」


 呼吸を重ねながら、刀十郎は筋の先を見つめた。渦水竜なる古竜が、いずこに棲家を持つかはわからぬ。されど、己の予感を信ずるならば――


『我がねぐらを荒らすのは、誰ぞ』


 はたして、脳裏に響くものがあった。だが刀十郎は揺るがない。麒麟の時も、そうだった。強者の中の強者たる生物には、この手の能力があると知っていた。いわんや、竜種をや。


「眠りを妨げし非礼、まことにお詫び申し上げる。それがし、東之連島ひがしのつらしまは秋津国に生を享けたる者。姓は坂田。名は刀十郎。貴君、渦水竜どのと技を交えたく、罷り越した次第」


 刀十郎は敢えてほとりにかしずき、東方語にて意を伝えた。人が相手ならばともかく、古竜ならばこちらの方が早い。そう考えての、やり取りだった。


『なるほど。東方の者か。大地の……人の言葉で言う地裂竜は如何にしておる』

「すごぶる壮健にて。我等の手の届かぬ場所より時折荒ぶり申す。よって我等は常に崇め奉り、鎮まりを乞うております」

『で、あるか』


 厳かな『声』が、脳裏に響く。己を縛り付けるような。あるいは、押さえ付けるような。そういった圧力を、刀十郎は感じていた。剥き出しの目元で感じる空気は冷たく、時折ピリピリと痛む。白い息が口元、布の間隙より果てしなく噴き出す。だというのに、頬には汗が伝っていた。これほどの圧を感じたのは幼き頃、父親に手酷く叱られた以来であろうか。思えばあの折は――


『ならば、うぬに慈悲をくれてやろう』


 思考を打ち切る声が脳裏に響き、反射的に刀十郎は頭を下げた。地裂竜への崇敬の念が、彼をそうさせたのであろうか。見てはならぬものへの反応を、彼は見せてしまった。

 次の瞬間、彼のかしずく地面がにわかに揺れた。地裂竜が荒ぶりし時のそれよりも弱いが、間違いなく地面は揺れた。その間、刀十郎は頭を上げることはなく、ひたすらに揺れをこらえた。そうすることが、己の義務だったかのように。


『面を上げい』


 はたして、永遠にも似た時間であった。ただひたすらに揺れを耐え抜いた刀十郎は、晴れて竜にまみえる栄誉を得た。彼はゆっくりと顔を上げる。そこに見えたのは――


「おお……」


 空に浮かぶ、大蛇めいた身体。

 その身体に備わる、五本の指を備えた四足。

 頭には二本の角。

 口元には長き髭。


「麓の民が、『至高竜にも等しきもの』とは言っていたが……。ここまで……」


 刀十郎は、思わず言葉を並べた。彼は至高竜、虹霓こうげい竜を知っている。かつて絵物語にて見たその姿を、憶えている。今現れた渦水竜の姿は、まさにその至高竜に酷似していた。だが。


『我は始祖たる至高竜にあらず。虹霓の竜にあらず。至高の竜に並べるなど、不敬であると知れ』

「っ……!」


 肌を刺すような圧力が、またしても刀十郎を襲う。渦水竜の矜持に触れたのであろう。その圧力は、先ほどよりもいや増していた。


『我が始祖に似たる。それは認めよう。始祖はまず、自身に似せて我を生み出し給うた。そう聞いておる。だが、我は始祖とは明確に異なる竜である。我は、始祖の従属者である。そう心得よ』

「はっ……!」


 刀十郎は、思わず顔を伏せた。詫びるという心持ち以前に、押し負けたというのが正しかった。人と竜との差を、改めて思い知らされていた。


『よい。面を上げよ』

「……!」


 しばしの時を経て。竜からの許しを経て。刀十郎は顔を上げる。彼は、脳内にて苦渋を募らせていた。己は竜、古の七竜が一つと技を競い、戦うためにこの地まで来た。だというのに、この体たらくはなにか。安易に竜の矜持に触れ、竜の許しなくしてはなにもできない。己に刻まれた罪の証、五弁花の焼印さえもが泣いてしまうではないか。


『うぬの望みは』


 竜が問う。刀十郎は、敢えて拍を置いた。ここで気安く答えては、己は竜の『下』に留め置かれる。このやり取りは、竜にとっては『立場をわからせる手順』でしかない。それが、彼の出した答えだった。


『望みは』


 竜が、再度問う。ここでも刀十郎は間を置いた。ここで竜の怒りに触れようとも、押し返す所存であった。その想いなくして、なにが竜との戦か。なにが天下第一之侍か。この傲慢な竜に己の矜持を、侍の矜持を見せる。刀十郎は、結論を出していた。


『望みは!』


 はたして、竜は三度目にして怒りの気を発した。当然である。己を喚び出しておいて、なに一つ望まぬ。なれば、己は無為に喚び出されたこととなる。すなわち、人による不敬な行為。不敬には、相応のものをもって接さねばならない。そこに至るまでの、最後の『手順』であった。


「げにげに不遜なれども、我が技、試したく」


 刀十郎は深くかしずき、意を告げた。傲岸に対しあくまでも礼に則り、己の意志を告白した。はたして竜は沈黙する。なにを考えているかはわからない。わからぬが、それは竜から見た己も、また同様であろう。そういう確信が、刀十郎にはあった。


『……うぬは暗愚か。あるいは気狂いか。我にはわからぬ』

「否。それがし、正気なればこそ。このような不敬を申し出た所存」


 呆れ果てたかのような竜の意志に対し、彼は強い決意を持って応じた。人と竜の差がわからぬほど、刀十郎は阿呆ではない。さりとて、すべてを見失った狂人でもない。刀十郎はあくまで、すべてをわかっていた。その上で、彼は。


『よかろう。その鼻っ柱、叩き折ってくれる』


 竜から、戦いの気が発せられた。刀十郎の望みに応え、それをもって不遜への報いとする。竜の、竜としての在り方――強者たるをもって、全生物の上に立つ――に忠実な動きであった。


「来ませい」


 刀十郎も、立ち上がる。完全防備の内、口元の覆いのみをかなぐり捨てた。白い呼気が、噴き上がる蒸気にも似た勢いで立ち上った。

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