第8話 元勇者VS戦い続けた男

 二刻後――かつては勇者とまで呼ばれていた男は地に倒れ、天を仰いでいた。星々は変わらずきらめき、鳥や獣がうるさく鳴いていた。よくある光景。本当になんのことはない自然の姿だ。だが、それを見聞きする男の心境は、幾年かぶりに晴れやかだった。


「何年ぶりだろうな。こうしてただただ、天を仰ぐのは」


 ジョルジュ・マクスウェルは、ポツリと呟いた。傍らでは、アンナがしっかりと手を握ってくれている。全身が軋み、動けなくなった彼にとって、彼女こそが唯一のこの世への楔だった。うっかり意識を手放してしまうと、そのまま幽世かくりよまで堕ちてしまいそうだった。


「ジョル……」

「いいんだ、アンナ。ありがとう。今も、これまでも」


 幾度となく浮かんでは消えた礼の言葉も、今はすっと口から出せた。アンナの眼に涙が浮かぶのを、ジョルジュは視界に収める。浮かび来るのは、後悔の言葉だった。


「私は間違っていた。斬り裂く相手を間違えていた。あの日のユージを斬れば、それで全ては晴れると思い込んでいた」


 想いは、次々に口から溢れ出た。独白ではあるが、止めようもなかった。ユージオの拳が、凝り固まっていたものをほぐしたのだ。本人が意図した訳ではないだろうが、結果はそうなっていた。


「私が斬るべきだったのは、私の弱い心だった……。なのに私は、過去のユージに」


 彼は呟く。全ては己の心にあったのだと、今なら受け入れることができた。それほどまでにジョルジュは、全てを打ち砕かれたのだった。


 ***


「懐かしい顔が見えたんで近付いてみりゃあ……。ジョルよぉ、オメェが斬りたいのは、本当に『それ』か?」


 過去を振り払うべく振り回していた剣を、防御の拳一つで叩き折った男。その正体を、ジョルジュは見間違えるはずもなかった。

 外套と、旅人としてはあまりにも身軽すぎる軽装に身を包み、容貌魁偉の肉体と凶相を引っ提げた男。別れてからさらに偉容は増し増しているが、内にある面影は変わっていなかった。


「ユージ、ユージ、なのか?」


 それでも彼は、誰何すいかした。見まごうはずはないにせよ、簡単に遭遇するとも思えぬ相手だったからだ。偶然にしては、あまりにもできすぎている。よく似た他人と思ったほうが、筋の通る事態だった。


「……。もう一度ぶん殴った方が、分かるか?」


 固まるジョルジュに対し、ユージオは彼に無言で近付く。そして胸倉を掴み、持ち上げた。ジョルジュの視線が、ユージオと同じ高さで交わる。それだけで、ジョルジュはハッキリと理解した。


「わ」


 ジョルジュが口を開いた瞬間、彼の頬に衝撃が走った。続いてやって来るのは、宙に浮いた感覚。そして間断なく背への衝撃。己が殴られ、木にぶつかったと理解するのに、さして時は掛からなかった。


「げはっ! ごぼっ!」


 わずかに呼吸が不可能になった直後、血混じりに吐き出されるのは酒と吐瀉物。だが嘔吐に徹する余裕もなく、ユージオの偉容が迫って来ていた。総髪を立ち上らせ、外套を脱いでいる。それを回収しに行く小さな影が、彼の視界をよぎった気がした。


「立て」


 ユージオが、尊大に命じた。ジョルジュは起立を試みるが、身体が思うように動かない。ようやく四つん這いになったところで、今度は腹部へと足が刺さった。


「げあはっ!」

「遅い」


 腹を押さえて転げるジョルジュに、ユージオは淡々と告げる。ジョルジュには、ユージオの意図がわからなかった。この暴行に潜む感情を、読み取れなかった。


「酒臭え。年季の入った酒の臭いだ」


 高みに立つユージオが、鼻をスンスンと動かしている。この臭いが、気に入らないのか。ジョルジュは、下から敵手を見上げる。すると、背から服を摘まれ、持ち上げられた。再び同じ高さで、目が合った。そこにある色は――


「抜けば、全て分かるか」


 ユージオの目が、残忍に光った気がした。そう認識した瞬間、身体が浮遊感を得た。そして拳が突き刺さる。わずかな痺れを伴った一撃が、ジョルジュを吹っ飛ばした。ジョルジュは二度ほどバウンドし、地べたへと転がされた。


「ぐあ、あ……」


 力が入りにくくなった身体を、それでもジョルジュは必死に操る。両手から放ったのは、無詠唱の氷結術式。ユージオを近寄らせぬための、懸命の迎撃行為だ。願いを込めた氷が土を凍らせ、パキパキとユージオへと迫る。しかし。


 ジュッ!


 氷がユージオの足にまで乗り上げようとした瞬間、それは音を立てて蒸発した。ジョルジュは気付く。ユージオの身体から、陽炎が立ち上っていた。否、薄っすらと炎さえ見える。これは。


「分からねえ、という顔だな。キサマが酒をかっ喰らってる間に、誰もが時を進めている」


 ユージオの身体が、一瞬かき消えたように見えた。体内電気の活用による、瞬間的な高速移動である。ジョルジュは当然知る由もない。ユージオは瞬く間に、倒れるジョルジュの元へと立った。


「ジョル。なにを滅多切りにしてたかはあえて聞かん」

「ユージ……」


 ジョルジュは、ユージオを見上げた。気付けばユージオは、軽装さえも脱いでいた。腹部も、腕部も、胸部も。全てが、仕上がった筋肉と無数の傷に覆われていた。まさに、筋肉にくの鎧である。かつては勇者であったジョルジュでさえ、思わず見惚れるような肉体だった。戦い続けてきた男の、身体だった。


「……」

「立たんでいい。介錯してやる」


 ユージオが、身体を大きく捻る。前の部分とはまた違う形の雄大さと無惨さを併せ持った背中が、ジョルジュの視界を満たした。そこから筋肉にくが盛り上がり、歪な鎧が強化され、数々の傷跡が連なっていく。手首に稲光、肉体からは陽炎。そして背中には奇っ怪な絵。一人の身体から生み出されしは、神像の彫刻にも似た肉体の美。


「ぁ……」


 ジョルジュは、小さくうめいた。失禁こそ免れたが、闘志は全て吹き飛んだ。これが、進み続けてきた男の肉体なのだと、心の底から理解わかってしまった。この拳を打ち込まれた自分が、どうなるのかも。

 それでも彼は、目を閉じた。ユージオに処刑されるのなら、考え得る死に方の上でも、まだマシな方だった。自らが見出した男。自らが疎んだ男。自らが追い出した男に全ての報復を喰らわされる。堕ちに堕ち切った己にとって、ある意味では救いだった。


「……」


 別れの言葉もなく、ユージオの拳が動き始めた。そこに宿る彼の意志は、ジョルジュには理解し難い。ただただ、処刑の時を待っていた。しかし。


「待っておくれよ!」


 第三の声が、ジョルジュの耳を突き刺した。それは幾度となく聞き慣れた声。自身にどこまでも付いて来てくれた、稀有な女の声だった。


「ユージ……ジョルを殺すならアタシから殺しな……!」


 二人から離れること五十歩ほどの距離。法服に鎧を付けた女が、棘付きのブーメランを構えていた。その背後に、目隠しをされた少年がいるのも、ジョルジュの目は捉えた。


「……」


 ユージオが構えを解かぬまま、アンナの方角を見た。ジョルジュは直感した。次の言葉次第では、アンナがユージオにくびられる。それを己は、許して良いのか。否である。女を己の戦いに巻き込み、いわんや見過ごすなど。男としては大恥である。ならば? ジョルジュは目を見開く。ユージオがアンナを見ている間が、最後にして最大の機会だった。軋む身体を転がし、力を振り絞る。口端からよだれと吐瀉物の残滓を零しながら、彼は片膝を付いてユージオに言った。


「ユージ……アンナを殺すなら、私は全力で阻止するよ」


 ここでジョルジュは、初めてユージオを真っ正面から見つめた。それまでは強引に見させられるか、ずれた場所からの直視だった。それを正面から見据えたところで、なにも変わらない。変わりこそはしないが、それでも。


「……」


 ジョルジュは両拳に火炎術式を灯した。拳の戦いでユージオ相手に勝ち目がないことは、彼自身が一番理解していた。だがそれでも。得物を失った己には、これしかなかった。


「……」


 ユージオは無言のまま、場の人物を一瞥した。ブーメランを構えたアンナ。その奥で目隠しをされている少年。火炎術式を灯し、目に力を宿したジョルジュ。すべてを見た後、彼は殴打の構えを解いた。


「やめだ」


 ジョルジュはユージオを見据える。アンナも戦闘態勢を崩さない。不意討ちが有り得ないことは、記憶にあるユージオの姿から想像がつく。しかし、次の動きが読めなかった。


「アンナ。その餓鬼を返せ」

「返す返さないじゃないよ。子どもの目には、毒だからね」


 アンナが少年の目隠しを取り、何事かをささやく。すると少年は、即座に全員から間合いを取るように離れていった。


「人質にでもすれば良かろうものを」

「そこまでするほど、アタシも落ちぶれちゃいないさ」


 フン。ユージオが鼻を鳴らす音を、ジョルジュの耳は捉えた。ユージオは脱ぎ捨てた軽装を拾い、身に付けていく。戦の姿勢が、完全に消え失せていた。


「ユージ」

「興が削がれた」


 ユージオがジョルジュに背を向ける。ジョルジュは焦った。自分は彼に、なにも残せてはいない。呆れられ、失望され、処刑さえも受け入れられない。ましてや女に救われる。このままでは、自分は。


「ユージッッッ!!!」


 衝動だった。爆発だった。己が自覚する前に、ジョルジュはユージオを襲っていた。それは今までのどの踏み込みよりも早く、瞬発的なものだった。足に力を入れたという感覚もなく、踏み切っていた。だが。


「ぐおっ……」


 返って来たのは、無言の肘。ユージオは振り向きもせず、肘の一撃のみでジョルジュを打ち倒した。ジョルジュは膝を付き、再びヘドを吐く。身体が痺れて動けず、そのまま仰向けに倒れた。


「ジョル!」


 アンナが駆けて来るのが、ジョルジュの目に入った。入れ替わりに、ユージオが遠ざかっていく。もはや、彼に呼び止める気概はなかった。今なら、理解できた。立ち止まった者と、進み続けて来た者。その差が、ここにあるのだと。


 ユージオは無言のままに立ち去り、少年がその背を追い掛けて行く。後に残されたのは森の喧騒だった。


 ***


 無言のままに、時は流れる。アンナは言葉を選んでいたし、ジョルジュはただただ己の浅ましさを受け入れていた。互いの鼓動は、握る手で感じられた。それだけで、十分だった。

 しかしそれでも。アンナは問わずにはいられなかった。


「……止まるのかい?」


 簡潔ではあるが、若干幅のある問い掛けだった。


「……止まれないね。もう止まりたくない」


 ジョルジュの答えは、簡潔だった。全ては、ユージオとの切磋琢磨を捨てた自分の心にある。だから、結論は出ていた。


「そうかい」


 空を見ていたアンナの視線が、己に向いた。ジョルジュは一瞬、視線をそらしかける。しかし思い直して、目を合わせた。そこには、笑顔があった。


「じゃあ傷を治して、こっからだ」


 アンナの手から、治癒術式が発動される。身体の軋みが、治まっていく。ほぐれた心が、整っていく。そんな錯覚さえ抱くほどだった。


「ん……」


 ジョルジュは心地良さに身を委ね、一旦意識を、眠りへと落とした。

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