第37話 悪霊達が躍る最中、雷は少年を見つめる

 蜘蛛は壁に激しく叩きつけられる、ボールは倒れる玲亜の横で宙に浮き緩やかに回る。埋め尽くされた蜘蛛糸が震え、周囲から突然、黄緑色に発光する蝶が幾つもボールの前に集まり人の形を作る。


 大蜘蛛が慄く前で蝶達は一斉に弾け、セリエル・ホワイトが神秘的な光を放ち現れ出た。


 少女はそっとボールを受け止め、絶対零度の赤い瞳が暗い校舎で凛と煌めいた。

「セリ、エル」

『……』

 冷徹なる悪霊、無慈悲な殺人鬼、人類への復讐者。

 青黒サルビアブルーのドレスをふわりとなびかせる悪役の少女、しかしこの場においては間違いなく救いの妖精に他ならない、倒れた状態で少女の赤みがかった銀髪を見て玲亜の心は軽くなった。セリエルはいつも以上に圧を放ち、玲亜と目を合わせる。


『玲亜、大丈夫?』

「……はは、珍しい、心配してくれるんだ?」

 少女らしからぬ言葉を聞いて笑いが込み上げてしまった、あの残虐な悪霊が自分を心配してくれた、今も激痛が襲って動けないのに可笑しくてしょうがない。

『それだけ言えるなら平気ね、じっとしていて後は私がやる』

 皮肉めいた玲亜の返しにセリエルは怒ることなく、悪友に見せるような気安い笑みを浮かべ、直ぐにいつもの鉄仮面に戻り正面の大蜘蛛へ向き直る。  

『私が留守の間、本当につまらない真似をしてくれた……私は騙すのは好きだけど、騙されるのは心底嫌いなの』 

 最低のセリフを堂々と言いながら壁にもたれる敵を睨む、弾き飛ばされてからここまで黙っていた蜘蛛は、六つの目でセリエルを見据えて小さな笑い声をあげた。

 

『くくく、Si、はハは、ここで来てくれるとは嬉しいなァ』

 セリエルに対して敵意を向けず、むしろ歓迎の様子で高揚する蜘蛛は、その怪物の姿で頭を下げ挨拶の体勢をとった。

『また会えて嬉シイよ、血の色混ざる銀髪の君。電話をしたトキに君が留守だったノは予想外だったんだ、仲間外れにしてスマナイ』

『謝らなくていい――惨殺を以て、償って』

 蜘蛛の挨拶を受け流しセリエルは目を見開く。髪が荒ぶり体のエネルギーが膨らむ、何かの予兆に気付いた蜘蛛は息を呑んで、立っていた場所から上に力強く跳ねた。


 空気が軋む音が鳴り、大蜘蛛が立っていた場所の壁が激しくひび割れた。ポルターガイストを使った空間の圧縮、躱さなければ蜘蛛は今頃、踏み潰された空き缶のようになっていた筈だ。

『く、SiSi、問答無用か、やはり君は素晴らしい』

 大蜘蛛は天井に張り付き、破壊された壁に口元をひくつかせる。セリエルが見上げると八本足を震わせ、階段から二階の廊下に急いで移動、セリエルも後を追った。


 廊下に躍り出た瞬間、蠢いていた小さな蜘蛛たちが一斉に飛び掛かった。

 数十の蜘蛛が襲う身の毛もよだつ光景に対してもセリエルは冷静に霊力の壁を張って全て防ぐ。見えない壁に触れた蜘蛛はバチッと弾け、次々に燃えて地面に落ちた。


『酷いコトをする、こんなに美しい子達を焼くナンテ、可哀そうだとは思わないのカ!』

 続いて天井に居る大蜘蛛が張り付いた体勢で、前二本の足をセリエルに向けて伸ばす、木の根のようにうねりながら伸びる足の先端は鋭利に尖った毒の爪が迫る。

『いちいち五月蠅い』

 セリエルは体に張った壁を球体状に広げて足の攻撃を防ぐ、壁と爪が激しくぶつかり霊力の火花を散らし、少女が指を水平に走らせると壁の力が強まり、足の先端を破裂させた。


『ギッッ!?』

『私はアナタの全てに興味が無い、ただ潰れて壊れて、それだけ』

 ささくれた傷から黒い粘液を垂れ流し大蜘蛛は苦悶の声を上げる、普段よりも苛立ちを見せる少女は足元の焦げた蜘蛛を踏み潰し、殺意を込めた言葉を浴びせる。

 どうしてここまで感情が怒りの方角に向いているのかセリエル自身も理解できていない。

(ぁぁ心がざわつく、指先がじっとしない、頭が沸騰しそう……私はどうしてこんなに冷静でいられない?)

 未だに自分の世界に帰れないから? あの蜘蛛の策略にまんまと嵌ったから? 今日はアイスを一個しか口にしていないから?


 それとも――玲亜を傷つけられたから? 


『っっ!!!!』

 心に芽生えたその考えを否定するようにセリエルは頭を振り、近くで漂うボールを引き寄せて掴む。

 キャッキャッ!

 ボコボコ膨らんだボールから大きな口が開いて無邪気に吠える、そして二本足を戻し天井を移動しようとした大蜘蛛向けてセリエルはボールを投げた。

 

 キャアーー!!

『!?!?』

 元の大きさから二倍以上大きく口を開きボールが噛みつこうと突撃、天井から地面に飛び退いた大蜘蛛はオカ研(仮)部室とは反対側の廊下に退避した。

『追って』

 セリエルが追撃の合図を出すと、ボールは従い敵を追った。


 ガシャン、ガシャン! 凄まじい音を鳴らして口を開閉させるボールが大蜘蛛を追う、恐るべき追跡者に大蜘蛛は慌てて逃げながら手足を動かし、廊下を覆う糸を操り、道を塞ぐための分厚い膜を作り上げた……が、巨大ボールはその糸の膜を容易く嚙みちぎり、容赦なく追って来る。


『SiSi、ハハ、ここまで差があるトハな……あの少年を喰らう絶好の機会だったが、逃げた方が良さそうカナ』

 数分間で突き付けられた霊としての力量、自分を追う少女が操るボールの力に驚嘆の感想しか出せない。

 大蜘蛛は数日前の駐車場の一件と同じくこの場からの離脱を考え、近くの窓に飛び移ろうとした、ここ二棟校舎は玲亜が訪れる前から念入りに糸を張り巡らせて支配した彼による絶対空間、彼だけが自由に出入りできる虫籠むしかごでもあるのだ。当然自分は窓から逃げて、追って来るであろう悪霊少女を校舎に閉じ込める策だった。


『っ、ガッ! 開かない!?』

 しかし己のテリトリーである筈の窓はビクともしなかった。

 それどころか窓を含めた壁一面がぐにゃりと波打ち大きく歪む、眼前の光景に大蜘蛛が困惑すると足元も同じく波打ち、下から横へと引力が急激に狂い彼はその場に倒れた。 

『な、何が?』

 転がる大蜘蛛は六つの目で波打つ廊下の端を目視して……固まる。

 廊下の先、行き止まりの壁がある筈の空間が渦巻の如く廻って収縮していた。


 捻じれた廊下、窓は天井に天井が地面に螺旋を描く無限回郎。

 外から見れば雑巾絞りにされた廊下の形に見えるかもしれない。追って来ていたボールはいつの間にか消え、その反対側の空間も捻じれて階段が見えない。

『この前は油断していたからアナタを逃がした、それは私のミス、だから今回は手を抜かない』

 うずまき収束点からボールを持ったセリエルが姿を見せ、床の窓に腰を付ける大蜘蛛に狙い定める。

『ここはもうアナタの世界じゃない、私が撫でて支配した、私の為の空間』


 パステルの水彩画を上から塗りつぶすように、既に悪霊少女はこの校舎の支配権を大蜘蛛から奪い取り、そして廊下の空間を自在に捻じ曲げて逃げ場を完全に封じた。

『Si、くく、凄いなぁ君は、空間すらも自在に操れるノカ、何だソレハ』

 大蜘蛛はゆっくり立ち上がり乾いた笑いを上げる、足元の窓を踏みつけてもひびすら入らない、この空間に閉じ込められたことを理解して足を忙しなく躍動させる。

『ここから出るには君を倒すしかナイカ、ならば、アアああ!!!!』

『……』

 大蜘蛛が雄たけびを上げると体内の霊力が高まり、二メートルの体が一気に膨らんだ、破裂した前の足がボコボコと泡立ち再び爪を生やし、体躯が一回りも二回りも巨大化、左右の壁に八本足を突き刺し廊下を埋め尽くした大蜘蛛は床に寝そべり、文字通り蜘蛛の体勢をとる。


『はぁハァ、さあ銀髪の君、受け止めて見たまえエエエエ!!!!』

 巨大化した大蜘蛛は乱雑に叫び、八本足で周囲を破壊しながらセリエル向けて突進する、ダンプカーの如く迫りくる敵に対し少女は左手を前に出し、霊力の壁を三重に展開、大蜘蛛の巨体が激しくぶつかり、張り裂けそうな衝撃波が廊下全体に轟いた。


 床や窓に細かく入るヒビがせめぎ合いの苛烈さを表現する、大蜘蛛はその牙で虹色に揺らめく壁を削りミリ単位で迫る。

『……きらきらひかる』

『?』

『よぞらのほしよ』

 お互いに切迫した状況の筈なのに、左手を向けたままで悪霊少女は母がよく歌ってくれた思い出の曲を清廉に奏でる。


『日本ではこう歌うみたい――きらきらのお星さまに、醜悪な蜘蛛は似合わない』

 空いていた右手を開くと小さな爪が鋭利に尖り、黄緑スフェーン色の霊力が集まる。

 極光に煌めき右手が引っ掻くような形をとる、それは悪霊セリエル・パンチとは違う少女のもう一つの必殺技。


『無様に落ちろ――悪霊セリエル・スラッシュ』


 力強く上げた右手を袈裟懸けに振るった瞬間、爪から無数の刃が放たれた。

 十や二十を超える霊力の刃、重なった姿はまさに黄緑の暴風。その攻撃は境の壁を突き破り、その前で唖然としていた大蜘蛛に触れ、一斉に切り裂いた。


『ギャアアアアあアあアッッ!!??』

 膨らんだ巨体はその刃の嵐を躱せず、甲皮は容易く裂傷を負い、足も幾つか切断、ビー玉の目は三つ潰された大蜘蛛はけたたましい悲鳴を上げながら後ろに吹き飛ばされた。


 らせん状の廊下を覆う蜘蛛の巣はまとめて切り裂かれ、窓は幾つも割れて、壁に大きな切れ跡を生み出した。


 崩れ落ちた大蜘蛛は攻撃の影響で体が元のサイズに戻り、パクリと開いた全身傷から黒い血を流しながら床に倒れ伏す。しかし決定的なダメージを受けたがまだ息はある、苦痛の声が微かに聞こえたのをセリエルは確認して、再び右手に霊力を集める。


『これで、お終い』

 そして今度こそ確実に消滅させる為、大蜘蛛へ飛翔、悪霊同士の闘争は間もなく決着を迎える。



 ★★★



 階段でセリエルが大蜘蛛を追って行くのを見た玲亜は、すぐに意識が朦朧として闇の中に沈んで行った。


 ……見えて来たのは只の夢か、それとも忘れていた過去が思い出せと言っているのか、闇から浮かんだ玲亜は送迎用の自宅の高級車に乗っていた。

 それは十年前の雨の日、玲亜が事故に遭い姉を失ったときの記憶。

 山中の道路を走る車の中で、玲亜は姉の詩亜や母と楽しく言葉を交わす、また別荘に行こうと、休暇の感想を無邪気に言っていると、雨が更に激しくなり窓を叩く音が強まる。玲亜が後日聞いた話では、この帰省中に落石に巻き込まれて車が崖下に転落する、彼も朧気にそう記憶している、まもなく落石が車に衝突する筈だ。


 ――本当にそうか?

 車中の幼い玲亜の頭に、自分自身が問いかけた。

 本当に落石だけが事故の原因だったか? この時、決定的な何かが襲ったのではないか?


 雨音と一緒に唸り声のような音が聞こえた様な気がして、幼い玲亜は窓に両手を付いて遠くの空を見上げる、雨雲をじっと見つめると、雲の奥に細い赤い光が枝の形で走るのを目撃、慌てて詩亜たちに伝えようと車内に振り返り……。


 窓一面が真っ赤な光に染まり、耳を裂く轟音と衝撃が車体を襲った。


(……ああ、そっか。あの時に紅染の雷が車に落ちたんだ、どうして忘れてたんだろう)

 当時の端末が次々と掘り返される、紅染の雷を受けてガードレール傍で停止した車、屋根には大きな穴が開き、前の運転手は全身から焦げた匂いを出し、既に事切れている。後部座席の三人はショックで意識が曖昧になり、苦痛に呻いていた。雷をまともに浴びた幼い玲亜は、痺れと痛みが同時に襲う体を起こしドアを開けようと窓を見て、落雷の影響で起きた落石がこちらに転がって来るのを目の当たりにした。


(そして車は崖下に落ちて……か)

 部長が持ってきた紅染の雷の写真が何故あんなにも気になったのか、その理由が今になって分かった。

(怖かったんだ、僕達を滅茶苦茶にしたあの雷が)

 そして過去の記憶は事故の光景から、次々に移り変わる。

 母が亡くなった時、冷めた家庭内で一人食事をとる自分、初めて吐血したあの朝、鏡一郎との初めての出会い、強引な美左に部活に勧誘された春の一幕。


(これってまさか走馬灯……もしかしてかなりヤバイ状況?)

 今まで意識を失ったことは何度かあるが、間際の追憶をしたことは無かった、もしかしたら自分は現在とても死に近づいてるのかもしれない。何とか意識を現実に戻したいが、走馬灯を見始めてからここまで、体の触感を一切感じられず、声を出すことも出来なかった。


(このまま死んじゃうのかな、もっとまともな死に方をするんだって思ってた)

 まさか校舎であんな化け物に襲われて死ぬなんて思ってもみなかった。

 近い内に訪れると覚悟していたが、余りにも呆気ない幕引きに何の思いも湧き上がらない。

 ……。

 …………。

(……嘘だ、本当は僕……死ぬのが怖い)


 平気な訳ない、楽観的でいられるはずが無い、諦めたなんて只の虚勢だ。 

 胸に痛みが走るたび咳き込むたび、ゆっくり近づく死神に内心いつも怯えていた。不安を掻き消すように楽しいことを沢山して思いっきり笑ったが、その裏では恐怖に圧し潰されそうで、足はいつも震えていた。


 大蜘蛛に追われていた時に誤魔化していた感情、それは『死にたくない』と言う、単純で切実なものだった。


(死ぬのは……嫌だ、こんな所で終わりたくない)

 長生きしたい、病気で死ぬなんて嫌だ、生きたい、生きたい。

 あんな奴のせいで終わりたくない。


 深淵に深まる恐怖に、微かに混ざる大蜘蛛への怒り。

 その二つの感情が渦を巻き始めたその時、走馬灯がとある場面に切り替わった。

(「そう――「ギャラクシー・シャークVSヤマタノオロチVS皇帝ペンギン」だよ」)


 ぱち、バチ。

 ――倒れたままの玲亜の体から、音を鳴らして紅い光が枝のように浮き上がる。

 全身を駆け巡る、神秘なる電流。

 降り続く豪雨の果てから、轟音の予兆が聞こえる。


 安久乃山の廃洋館前でゴミ袋片手に会話する玲亜と美左、映画の話題で盛り上がり、彼女は念を押して言葉を続けた。

(「おっと失礼、まあともかくこのビームチェーンソーは重要な武器ということを覚えてくれ、映画をより楽しむことが出来るぞ」)

(「ビームチェーンソーを覚える、了解です」)


「びーむ……ちぇーんそー」

 玲亜が血まみれの口から呟いた、その瞬間。

 

 天空の雲より放たれた深紅に染まった大雷が二棟校舎に墜落した。

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