第36話 追われ、拒まれて、弄ばれて
スマホに触れた指先が氷柱のように冷たい、床に向けた頭を上げることを脳が全力で拒否する、見たくない動きたくない。しかし声を掛けられた以上、確認しないわけには行かない。
ぎこちなく玲亜が顔を上げると、対面の部長の席に誰かが座っているのが見えた。
『ん、あの少女は居ないのかい、昨日は一緒に居ただろう?』
ねっとりとした湿度を感じる声の主は、玲亜より二、三歳くらい年上の青年。
後ろに整然とまとめた七三分けの髪、年代を思わせる高そうな灰の紳士服、一目で見ると高貴で誠実な印象を抱きそうになるが、青年の切れ長の目は白一点なく黒く濁り、うっすらと全身が透けている。
目の前の青年も間違いなく幽霊だ、確信した玲亜は無理矢理に心を落ち着かせて、まずは言葉を交わす事を選択する。
「君は誰?」
『誰って……昨日、我が家を無作法に壊したくせに、酷い奴だな』
「昨日? ――あっ」
血色の無い青年の顔をよく見ると見覚えがあった。昨日、廃洋館に到着した際に美左が見せた過去の記事、一家心中が起きた三人家族の写真の真ん中で笑っていた人物。
「館主人の、息子?」
何故、息子の幽霊が今更ここに?
予期せぬ人物の登場に困惑する玲亜に対し、当てられた息子は口角を上げて気味悪く笑う。
『正解だ、風変わりな現代人、こうして顔を合わせるのは二度目だね』
「二度目? ここで会ったのが初めてだと思うけど」
『ここ以前に会ったじゃないか、まだ夜も明けない錆びた外路地の奥、視界が制限された……あの駐車場デサ』
その言葉に玲亜は息を呑んだ、夜も明けない駐車場と言われ思いつく場所は一つしかない。木曜の未明にセリエルと共に辿り着き、醜い蜘蛛の怪物と衝突したビル裏の駐車場。
『あの時は驚いタ、攫った女性をカジって滅茶苦茶に壊そうとした瞬間に君とあの少女が突然現れたのだから、標本作成を邪魔されたのはハジメテだったよ』
「っ、駐車場で襲って来た蜘蛛はお前だったの……まさかお前が、蜘蛛巻き事件の本当の犯人っ」
玲亜の言葉が正解と言わんばかりに息子……蜘蛛巻き事件の真犯人は頷き、ガパリと大きく口を開けた。異常に伸びた口のトンネル、そこからさっきの通話中に聞こえた無数の雑音が聞こえ、大小様々な蜘蛛が次々と這い出て来た。
「!!??」
足が長い者、毛むくじゃらな者、班目模様な者。
多才な品種の蜘蛛が口から限界無しに姿を見せ息子の体を駆け巡る。吐き気を催す光景に、何とか悲鳴を堪えた玲亜はスマホを急いで拾い逃げようと、背後のドアに振り返った。
「ドアが、何これ!?」
引手に指を掛けた瞬間に伝わった粘着質の感触、薄闇の中で集中してドアを見ると細い蜘蛛の糸がドアを覆い開けることを拒んでいた。
『しかし、同時に最高の素材に出会えタ、Aa、あの少女の存在に混乱シタが……それ以上に君の体に流れる膨大な霊力に心を奪われたヨ、Gy、ガ』
ドアの糸を必死に剥がす玲亜の背後で蜘蛛を吐き出した息子は続きを語り、己の体を変化させた。
一本一本、長く鋭利な足が体を突き破りやがて八本足に、身に纏う紳士服は溶けるように床に零れ落ち、全身の皮膚がうねりを見せて固く艶のある外皮に変質、顔面の皮膚は真っ二つに裂けて中から六つの丸い目が出現する。
肉が裂け骨が歪む変化の音を背中で受け、焦った玲亜は無我夢中で糸を取り除く。
(早く早く早くっ!!)
カサカサ、カサカサ、部室に広がる蜘蛛たちが足元にも近づきブーツを突く。ある程度、糸を除去して引手に力を込めると、何とか半分だけドアが開いた。
『贅沢なメインディッシュ、今までの素材は手足ダケだったが、SS、■、君だけは残さず喰らってアゲヨウ、Si、Siーー』
野太くなった息子の声に振り向くと、そこに彼の姿は無く――駐車場で出会った、八本足の蜘蛛の悪霊が椅子から立ち上がった。
『Siシぃぃぃア■ああーーーーッっ!!!!』
椅子と机を弾いて蜘蛛は雄たけびを上げる。玲亜は急いでドアを抜けて廊下に躍り出る、抜けそうな腰に喝を入れ走り出した時、顔に何かが掛った。
「わぷっ、蜘蛛の糸、ここにも!?」
張り付いたのが蜘蛛の糸と分かり直ぐに剥がすと、彼の目の前に信じられない光景が広がる。
天井に床に窓に、何の変哲の無かった暗いだけの廊下が、大量の蜘蛛の糸を張り巡らせた異界に変わり果てていた。
(さっきは蜘蛛の糸なんて無かったのに、まさか校舎自体がアイツの巣に作り変えられてる?)
だとすれば、自分は蜘蛛の罠にまんまと嵌ったのだと玲亜は理解した。
(電話もアイツの仕業、先生の声を真似て僕を呼び出したんだ……何てヤツ)
人間の油断に付け入り、気づかぬうちに自身のテリトリーに誘い、そして絡め取る。蜘蛛の狡猾なやり口に歯噛みしながら、目の前の糸を払いのけて廊下を進む。背後を見ると部室から蜘蛛は追って来ない、後方に注意しながら窓に近づくと、向かいの本校舎一階の廊下を歩く男性教師が見えた。
「開かないっ、気づいて先生!!」
糸で塞がれた窓は開かず、玲亜は力強く叩いて向かいの教師に助けを求める。
しかし、霊力の籠った蜘蛛糸は玲亜の姿と音を隠し、外からは雨にぼやけた曇り窓にしか見えない、男性教師は異変に気付かないまま職員室に戻った。
(駄目か、それならやっぱり外に逃げた方が、何とかしてセリエルに伝えないと)
とくんとくん、心臓の音が大きくなり呼吸が安定しない。靴底にへばり付く糸を振り払って、まずは一階に降りようと前に進んだ。
『黒百合、上だ!』
「え、斎藤先生?」
突然聞こえた斎藤の声に釣られて顔を上げた玲亜は、頭上の天井に張り付く巨大な蜘蛛と目を合わせてしまった。
『ナーんてねぇェ!』
「ーーぁぐ!!」
息子は嘲笑いながら玲亜に向かって落下、上から襲い来るクリーチャーを前に玲亜は全力で前に飛び何とか躱した。前面の糸が体に絡み、無理に飛んだ為、肘や背中を床にぶつけて痛みが走る。
『はHハ、どうだい俺のモノマネは結構上手いだろう』
「痛っ、っく」
『本来なら、じっくりと君を蜘蛛の巣に絡め取る準備をしたかったけれど、父さんがもう使えない以上、急いだほうがイイ。昨日は驚かされたよ、あの館が俺の住処だとどうして分かったんダい?』
(館、やっぱりあの洋館は事件と関りがあったんだ)
「ただの、偶然だよ!」
廊下一杯に広がる八本の足、小刻みに体を回す蜘蛛の悍ましさに、玲亜は精一杯の侮蔑の視線を投げて再び逃げる。
蜘蛛の巣となった廊下では思い通りに前に進めないが、蜘蛛は追わずにニヤニヤと口元を歪めて玲亜の背を観察。
遊んでいる。玲亜はそう直観した。
すぐには殺さずに玲亜が必死に逃げて恐怖に慄く姿を見て楽しむ、映画でセリエルが行っていたようなホラー演出、悪霊としてのこだわりと言った所だろうか? 自分の命を弄ばれている感覚に怒りが湧く。ふざけるなと叫びたい、しかし無力な自分が言っても負け犬の遠吠えに過ぎず、蜘蛛を余計に喜ばせるだけ。
二階の端から中央へ着き、渡り通路から本校舎に逃げようとしたが、閉められた渡り通路は特に念入りに糸が張られ先が見えない程に分厚い、破るのは無理だと一目で分かり、それならと玲亜は一階に降りる為に階段へ振り向いた。
どくん。
階段の手前に進んだとき、胸に強い痛みが走る。心臓が大きく鳴り、視界がぐらつく。痛みで動けなくなった玲亜は壁に手をつき、駆け上がる奔流に口元を抑えた。
「がほっ、げほっ!!??」
咳と共に吐き出された大量の血液、耐え切れず膝をつき、更に赤色を口から零す。
(こんな、時にっ)
最悪のタイミングで訪れた病の悪化に身動きを封じられた、焼け付くような痛みに苦しみながら、それでも逃げようと吐血しながら強引に立ち上がる。
しかし、彼の意思も空しく背後から無数の足音が聞こえた。口元を真っ赤に染めながら慌てて振り向くと、強固な蜘蛛の足が目にも止まらぬ速さで横腹を叩き、玲亜の華奢な体を吹き飛ばした。
「――――」
一瞬の浮遊感の後、段差に叩きつけられた玲亜はそのまま無惨に階段を転げ落ちた。
「……けほ」
九の字階段の中間で止まった玲亜は倒れたまま大さじ一杯分の血を吐く。
外と内の両方から襲う激痛でもう立ち上がることも出来ない、ひゅうひゅうと掠れた息が余りに痛々しい、飛びそうな意識を現世に留めて瞳を動かすと、二階の階段前で蜘蛛が六つの目で見下ろしていた。
『不思議な構造をしてイルな君は、死にかけのクセに霊力の輝きは一向に衰えナイ、強大な陰と陽がせめぎ合う肉体……君をクラエバ、俺と言う蜘蛛は更に美しくなるハズダ』
涎を垂らして蜘蛛は段差ではなく横の壁に貼り付く、いよいよ鬼ごっこは終わり、それぞれ個別に躍動する足で
(そん、な)
逃げたいのに体は動かない、訪れようとしている死に正体不明の感情が溢れる。交差点の顔面悪霊に襲われた時に感じた呆れや諦めと違う、もっと切実な感情。
『Siーー、それじゃあ頂こう、ちゃんと苦しみが長引くヨウに、手足の先から、爪を剥がして、じっくりと……ナアァあ!!!!』
芽生えた感情の正体が分かる時間も与えられず、死にかけの玲亜へ向かって、蜘蛛は全身で飛びついた、雨の校舎で残酷な捕食が始まる。
――。
――。
――。
『させない』
鈴のような可憐な声が聞こえ、続いて一階から跳ね飛んだ白いボールが蜘蛛の腹にぶつかり弾き飛ばした。
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