第35話 網に掛った蝶のように
弱まる気配を見せない
「うえー裾がびしょびしょ、これは帰りに何か奢ってもらわないと割に合わないね」
濡れた袴の重さに溜息を漏らして校門を通り抜ける、灰色に染まる校舎の一階窓から控えめな灯りが見え、休日でも教師たちがいることが分かり、玲亜も校舎に入ろうとしたとき、鞄の中のスマホが震え、再び斎藤から着信が来た。
「先生、学校着きましたよー。職員室に向かえばいいですか?」
『着いたか、悪いが二棟校舎の部室に来てくれ、そこで刑事さんと待ってる』
「部室ってどうして? ……切れた」
一方的に指示されて通話が終わり、訝しげに首をひねりながらも、指示通り二棟校舎のオカ研(仮)の部室に向かう。
照明の消された薄暗い校舎は平日とまた違った世界に変わり、いつも聞こえた生徒の喧騒は姿をくらまし、微かな雨音だけが耳に届いた。玲亜は不気味な程の静けさに職員室に一声かけに寄らなかった事をちょっぴり後悔しながら、一階の渡り通路を抜けて二棟校舎に入る。
(そうだ、セリエルもう帰ってきたかな、結局用事って何だったんだろう?)
蜘蛛巻き事件の影響で誰も訪れていない無人の二棟校舎を歩きながら、先に帰り着いてるであろう悪霊少女を思い出す。事件が解決した以上、少女がこちら側の世界に留まる理由は無い、もしかしたら今日にでもテレビを通って自分の世界に帰るかもしれない。
一週間と二日に及ぶ奇妙なホラーアトラクションはそれで閉幕、そして怪異とは無縁の今まで通りの日常が戻って来る。そう、残りの寿命が無くなるまでの間、悪霊少女に振り回されること無い、穏やかで安定した余生を送り続ける。
(それはそれで構わないんだけどね、セリエルと一緒にいると心臓に悪いことばかりだし、でも)
何故だろう? セリエルが居なくなった後、自室で一人過ごす普段の自分を思い出すと、その光景に違和感を感じてしまう。
不躾にアイスを要求する少女。
本当に嬉しそうに、無垢な笑顔でハーケングリムを頬張る悪霊。
冷たくもあり、怖くもあり、ちょっと可愛い所もあるセリエル・ホワイトとの生活が間もなく終わる。
『玲亜、アイスおかわり』
「……ちょっと、寂しいかも」
そう呟くと窓の向こう、遠くで黒に染まる厚い雲がゴロゴロと唸り声を上げ、思わず肩を跳ねてしまった。
「っ、また雷、赤いのはもう勘弁してよね」
人気がなく薄暗い校舎からの雷鳴のコンボは流石に驚く、現実に戻った玲亜はいつの間にか部室の前に到着した事に気付き、思考に嵌まっていた恥ずかしさにチョーカーを掻いてドアにノックした。
「先生、黒百合です失礼します」
念の為、入る前に声を掛けたが斎藤から返事は無い、変に思いドアを開けると……部室の中は無人だった。
「居ない? 部室ってここで良いんだよね」
ここの顧問である斎藤が別の部室を指定するとは思えないが、彼も刑事もここには居ない、二列の長テーブルに納まる四人分の椅子に閉められたカーテン、先週の帰宅前に片付けた部室そのままで、人が形跡を感じられない。
とりあえず照明を付けようと壁のスイッチに手を伸ばした時、またしてもスマホが震えた。
「先生どこですか? 部室に来ましたけど居ないじゃないですか」
『ああ、来た……な……確認……し、た』
「先生? ノイズが酷いですよ、よく聞こえません」
通話の向こうからカサカサと何かが擦れる途切れることなく鳴り、斎藤の低めの声が聞き取りづらい。
『……大丈夫、すぐ……そっちに……行く……し、Si』
「え、何ですか先生?」
スマホに耳を押し付けて向こうの声を聞き取ろうとしながら、玲亜は今更……本当に今更の疑問に気づいた。
「あれ? そう言えば僕のスマホの番号、先生に教えましたか?」
余りに普通に連絡が来たので気にも留めなかったが、連絡網として松原家の固定電話の番号は学校に届けてあるが、斎藤にスマホの番号を教えた覚えが無い。
『――』
「先生?」
通話の向こうの相手は黙り、共にノイズが消えた。
……、
『ああアA■Si■■■しあaaAア■■■■あ@:アあ■』
「ひっ!?」
スマホから聞こえたこの世の者とは思えない悍ましい声に、玲亜の身は竦みスマホを落とす。真下から表示される斎藤の名前……その文字は少しずつ崩れ歪み、やがて画面は暗転した。
「はっ、はっ、今のは」
斎藤の声ではない、スマホの向こうで顧問ではない別の何者かと自分は今まで話していた、その事実に心臓が小刻みに震える、喉が異様なまでに渇き声がまともに発せられない。
(先生じゃ無かった、違ったんだ。それなら僕は……誰と話して……)
今、二棟校舎に居るのは自分一人だけ、玲亜はその意味を遅まきに理解する。
顧問を騙る何者かによって、ここまでおびき寄せられ完全に孤立した。
何とも思わなかった静寂と薄暗い校舎に、えも言われぬ不気味さを感じ、不安と恐怖が絡んだ螺旋が水につけたリトマス用紙のように、足元から滲んで背筋へ上り首筋を冷やす。
ここに居てはいけない。急いで校舎から出ようと考え、スマホを拾おうと屈んだ。
『そう急がなくてもいいじゃないか、ゆっくりしていきなよ』
部室に気配など無かったのに……自分以外の誰かに、声を掛けられてしまった。
★★★
ラフな部屋着姿で自宅の階段を上がる花撫は壁を通して聞こえた雷の予兆に足を止めた。
(雨また強くなった、玲亜さん大丈夫かな?)
数十分前に出かけた従兄が雨に晒されていないか心配になる。
ここ一週間くらい玲亜の様子がいつもと違う事が気になっていた、食事中も上の空で、そわそわと何度も天井を見上げ、テレビを見てる最中も口元に手を添えて考え込み、最も気になったのが大量に買い込まれたお菓子の数々だ。
体が弱く小食の玲亜がどうしてあんなにお菓子を買ったのか? 尋ねても当たり障りのない答えで返され、それ以上は聞けなかった。
「玲亜さん、最近どうしたんだろう?」
いつも奇抜な行動をとる不思議な人であるが、今回は彼らしくない行動に見える。
何かを隠してるような、誤魔化してるような……。
花撫は二階に上がり自室のドアノブを握ると、隣にある玲亜の部屋のドアが僅かに開いてる事に気付いた。隙間からは光が漏れくぐもった音が聞こえる。気になった花撫が近づきドアを開けると、室内は照明が灯され、テレビから地方を巡る旅番組が放送されていた。
「テレビ消し忘れてる、そんなに急な用事だったのかな」
少し悪いと思いながら部屋に入りテレビを消す、音が消え真黒になった画面を見て一息ついた。
『玲亜はどこ?』
「玲亜さんなら用事で高校に行きましたよ……――え?」
無意識に答えて数秒後、花撫は顔を上げて部屋を見渡す。瞬きを忘れるくらいにその表情は強張っていた。
「今、誰かが」
感情を一切含まない無機質な声が聞こえた、ような。
何が起きたのか分からず、混乱する思考でぐるぐると人影を探す少女の横で、開いたままのドアが静かに揺れていた。
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